第10話 近づく戦争
懺悔に行くことがなくなってからというもの、ソーニャは聖典を読むことで心の安寧を保とうとしていた。しかし、どうしてもユリウスの顔がちらついて落ち着かない。この日も一人、宿舎内の私室で彼女は悶々としていた。
「……なぜ、教会はあのような不信心で軽薄な男を聖女に仕立て上げたのだ? 彼は他に適任がいなかったからだと言っていたが、だからといってあんな男を聖女にするなど……。これは、信者に対する背信行為なのではないか? だが、もしこの事実が一般の人々に露見すれば、彼の言う通り、この国は大混乱に陥るだろう。そうなれば、隣国に付け入る隙を与えることになる……か。……私は、どうすべきなのだ?」
聖女の正体を知ってから、ソーニャは、自分の中にわずかながら教会への疑念が生まれているのを自覚した。エルイーネの騎士として、国王と教会には絶対の忠誠を誓うべきであるというのは理解してはいたが、理性では処理しきれない感情が湧いてくるのを止めることはできずにいたのである。
信仰心のない者が聖女の座に就いていることを、聖職者に告発しても無視されてしまうのならば、新聞記者にでも漏らそうかと考えたのだが、そんなことをすれば、教会や聖光教は面白おかしく書き立てられてしまうかもしれない。自分の拠り所である宗教や神が貶められる事態は避けたいし、何より情勢が不安定なこの時期に、国民を不安と不信の渦中に叩き落とすようなことはすべきではないと考えたソーニャは、結局告発を諦めることにした。
「ああ、何もできない自分がもどかしくて仕方ない。こんな時は、鍛錬をするに限るな。よし、まずは腹筋二百回だ!」
ソーニャは聖典を閉じると、いそいそと床に座って無心で腹筋を始めた。
翌日の朝、ソーニャたち騎士は、騎士団本部前の大広場に集められていた。
「ねえ、ソーニャ。緊急招集なんて、いったい何があったんだろうね?」
オリヴェルに問われ、ソーニャは首を傾げた。
「さあ、私にも分からん。だが、あまり良いことではないのは何となく分かる」
「そうだね。……やっぱり、隣の国の件かな?」
「……そうかもな」
そんな話をしていると、突如として「静粛に!」という大音声が響き渡った。ざわめきが止み、騎士たちは一斉に姿勢を正す。整列した騎士たちの前に姿を見せたのは、団長のヨルゲン・ベルセリウスだった。彼は初老ではあるが、百戦錬磨の戦士であり、がたいの良い、筋骨隆々な体つきをしている。人望もあり、多くの騎士から慕われていた。
ヨルゲンは皆の前に立つと、一つ咳払いをしてから話し始めた。
「皆も知っての通り、我が国と隣国ラストヴァリアとの関係は、今、非常に緊張している。はっきり言って、いつ戦争に突入してもおかしくないぐらいだ」
その一言に、騎士たちは再びざわつき始めた。「戦争だって!?」や「そんなにまずいのか……」などと、口々に言っている。またもや「静粛に」との声が飛んだ。ヨルゲンは場が静かになったのを確認して、口を開いた。
「ラストヴァリアは、我が国とは決して相容れない教えを国教に掲げる国であるから、もはや話し合いの余地はない。何やら怪しげな術を使っているとの情報もある。だが、日々鍛錬に励み、この国の秩序と安寧を守ってきた君たちの敵ではないはずだ。分かっているとは思うが、我々の務めは、国民をあらゆる脅威から守ることだ。もし戦争となったら、その時は、自身の力と騎士としての矜持をもって、聖光教に仇なす異教徒を殲滅せよ!」
「おおー!」
ヨルゲンの言葉に、騎士たちは皆、片手を挙げて勇ましく雄叫びをあげた。
「リーアス神の加護ぞあらん!」
「リーアス神の加護ぞあらん!」
騎士たちの叫びに、ソーニャも同調していたが、その心の中は晴れなかった。
「……ちゃん。ソーニャちゃん。ねえ、聞いてるの?」
「はっ!?」
耳元で囁かれ、ソーニャはびくりと肩を震わせた。ゆっくりと振り返ると、そこには赤毛を三つ編みにした少女の顔があった。
「な、何だ、ヒルダか。どうしたのだ、いきなり」
ヒルダと呼ばれた少女は、頬を膨らませた。
「いきなりじゃないよ! さっきからずーっと話しかけてるのに、ソーニャちゃんってば、全然こっち見ないんだから! どうかしたの? ぼうっとしちゃって」
ヒルダ・アシェルは、オリヴェルと同じく、騎士団所属の騎士で、ソーニャの同僚である。小柄な体格と愛らしい笑顔が特徴であり、騎士団のアイドルのような存在であった。武芸の腕前は、ソーニャほどではないにせよ、それなりに立つので、ソーニャは度々彼女に手合わせを申し込んでいた。ソーニャとは体格も戦い方も異なるので、かなり学ぶところがあったのである。
「そうだったのか、すまない。少し考え事をしていたのだ。……ところで、私に何か用か?」
「ね、もうすぐ戦争っていうでしょ? わたし、あんまり強くないから、ちゃんと生きて帰ってこられるか不安で……。だから、ソーニャちゃんに鍛錬に付き合ってもらいたいの。いい?」
小首を傾げて頼みごとをするヒルダには、不思議とあざとさはなく、純粋に可愛らしく思えた。ソーニャはもちろん、と答える。
「だが、貴殿があまり強くないというのには同意できんな。貴殿はかなり腕が立つ方だろう」
「そんなことないよ。……この間だって、オリヴェルさまに格好悪いところ見られちゃったし」
「格好悪い、とは?」
「わたし、素振りしてたんだけど、間違って剣を飛ばしちゃって……。たまたま通りかかったオリヴェルさまが拾ってくれたの。ああ、あの時のオリヴェルさま、本当に格好良かったなぁ……」
ヒルダはうっとりとした顔つきになった。彼女は、オリヴェルに片思いしているのである。騎士団内の色恋事情には全く詳しくないソーニャでさえも、そのことは知っていた。と、不意にヒルダが真剣な表情になり、ソーニャに訴えてきた。
「わたし、この戦争が終わったら、オリヴェルさまに告白しようと思ってるの。だから、絶対生きて帰らなくちゃいけないんだ」
「そ、そうか……」
当のオリヴェルにはまた別の思い人がいることを知っているソーニャとしては、複雑な気持ちだったが、部外者の自分があまり深入りするのは良くないと思い、彼女はとりあえず手合わせに付き合うことを承諾して、ヒルダとともに演練場へと向かった。
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