私の夢が覚めるそのときは――

 

 

 ひちりきの音……?


 白い光に目をやられていた少女は、瞬きを繰り返す。

 ようやく戻った視界に奥深い森が見えた。


 水音がする。

 振り向くと、そこに深く流れる川があった。


 此処は――?

 ほとりに近づき、水を覗き込んでみる。


 自分がそこに居た。


 いや、自分、だろうか?

 確かに顔は似ているが、少し違うような気もした。


 いつものように巫女装束を着ていたが、それも自分のものとは違っていた。


「――何をしている?」

 いきなり背後から切りつけるような声がした。


 少女は水際の土を握り締める。

 その声が、いつも間近に聞いている声と似ていたからだ。

 鼓動が速くなる。


 これも夢?

 そうね、夢だわ。

 だけど夢なら……!


 少女は膝をついたまま、振り返る。


 神は居た――。


 浅葱の袴を身に着けた彼は、ちょっと小馬鹿にしたような笑みを口許に浮かべ、自分を見ている。


 小さく口を開けたままの少女に、なんだ、どうした? とごく当り前の口調で話し掛けてきた。


 少女は、ぺたんとその場に座り込む。


「どうしたんだ?

 早く帰って夕食の支度手伝わないと、また怒られるぞ」


 それでも座り込んでいる少女を不思議がり、彼は手を伸ばした。


 その細く長い指先が触れたとき、少女は震えた。


 そうだ、この手だ。

 この手だった――。


 少女は自分を掴む彼の腕に顔を寄せ、強く目を閉じた。


 もう夢でいい。

 これが夢だというのなら、私は一生、この夢の中でいい!


「……どうかしたのか?」


 少女の態度に彼は異変を感じ取ったようだった。


 少し優しいその口調に、少女は悟った。

 ああ、これはあの人じゃない。


 でも、あの人でないわけでもない。

 此処に居るこの人は、神の片鱗。


 本当に平行世界はあるのかもしれないと思った。


 きっと、この世には幸せな『私』と、この私が居て。

 その間に、少しずつ不幸な『私』が居る――。


 私とこの世界の『私』とは、とても遠くに居ると思った。


 だって、『私』は幸せなはずだ。

 何が起ころうとも、この人がすぐ側に存在してくれているのだから。


 だからこれは、きっとこの世界が見せてくれた幻。


 ふっと笑みを溢して見上げると、その両腕を掴んで立ち上がる。


「なんでもない。

 ただ―― 怖い夢を見てただけ」

「夢?」


 そう。

 とびきり怖い、救いのない夢。


 だから消してしまいたかった。

 消しゴムみたいに。


 だけど、消したいその夢は、形を成し、命を持ってしまっていた。


「今も、長い長い夢を見ているの。だけど――」

「だけど、夢ならいつかは覚めるだろ」


 彼がその言葉を引き取ってくれた。

 何度も夢見たその笑顔とともに。


「そうね。夢はいつか覚めるわ。

 悪い夢も……いい夢も」


 今この瞬間、此処に居ることさえも――。


 少女は神を見上げた。


 二度と忘れないように。

 この人の顔も、肌も熱も。


 二度と、間違わないように。


 神は額をぶつけ、囁くように少女に言った。

「大丈夫。夢はいつか覚めるよ――」




 だけど、私の夢が覚めるそのときは、

 この世界の終わるとき――。



 

 痛いほど澄んだ空気が肺に流れ込む。

 扉を失ってなお、そこは神聖な空間だった。


 木っ端微塵になった岩の側にしゃがみ込んだ少女は、破片を拾ってみた。


 だが、それは崩れ、さらさらと指をすり抜けていくだけだった。


「そんなところでなにしてるんです?」

 少女は振り返らずに笑って言った。


「話し掛けないでよ。忘れそうだから」


 本当は男の気配を感じた時点で、大半忘れてしまっていた。

 夢なんて、そんなものだ。


「ところで、なにしに来たの?」

と言い、立ち上がる。


 なにしに来たのはないでしょう、と男は眉をひそめた。


「ちょっと、文句を言いに来ただけですよ」

「文句?」


「まあ、貴方の勝手には慣れてますけどね。


 貴方いつもああなんですか?

 さっさと私を置いて行って。


 立花さん、よく厭になりませんね」


 ようやく思い出して、ああ、と少女は笑った。


 男と口づけを交わした瞬間、少女は記憶の渦に巻き込まれていった。


 それは、崩れゆく扉が最後に見せてくれた幻だったのだろうが。

 忘れたくなくて、少女は貴城の扉に駆け込んだ。


「だって、あんた、別に私を好きなわけじゃないでしょう?」

 余韻なんていらないだろうという少女に、男は溜息まじりに言った。


「そりゃまあ、そうですが……。

 物の弾みといいますか。


 でも私、一応初めてだったんで。

 あんまりそうあっさりされると、無駄遣いされたような、厭な気持ちになるんですが」


「えっ!? そうなの?」

 悪いと思い本気で謝る。


「ごめんごめん。

 何を恥らう乙女のようなことをいうのかと思ったわ」


 男は露骨に厭な顔をする。


「……私、貴方のような淫乱じゃありませんし。

 恋愛する余裕もありませんでしたので。


 もう、口の立つ男に弄ばれた小娘のような気持ちで、後悔していますが」


 失敬なやつね、と言いながら、本体を失い、落ちていた注連縄を拾った。


「ねえ。これって、再生しないのかな」

 切り替えの早い少女に溜息をつき、男は言った。


「懲りずに開ける気ですか」


「いや、此処にあった扉が再生しないとすると、その分のエネルギーって何処へ行くんだろうね、と思って」


「は?」

 少し考え、少女は言った。


「『すべての扉を開け。

 そのとき俺は解放される』」


「なんです、それ? もしかして、あの男の言葉ですか?」


 そう、と頷きながら、少女は笑った。

 神をあの男などと言うのは、この男くらいのものだろう。


「なんで扉は全国に散らばってるんだと思う?」

「え?」


「もし、神を本気で封じ込めたいのなら、あちこちに扉を作って、何処からも出られるようにするなんて変じゃない」


「ほんとは出す気だったって言うんですか?」

「そうじゃないわ」


 少女は長い髪を揺らして首を振る。

 さっきまで、神が触れていたその髪を。


「たぶん、扉を開けさせないために、扉を全国に分散したのよ」

「どういう意味ですか……?」


 神に繋がる空間があるとするじゃない、と少女は空間に扉の絵を書いた。


「そのままにしておいたら、誰かが開けてしまうかもしれない」


 だから? と男は問うた。


「簡単には開けられないように、扉の力を薄くして、全国にばらまいたんだわ。

 おそらく、始めはひとつの扉だった」


「じゃあ、消えてしまった扉は――」

「他の扉に吸収されたんじゃないの?」


「本家の扉ですか?」


「そうかもしれないし。

 そうじゃないかもしれない。


 それはわからないけど」


 いつか、すべての扉がひとつに重なり、それを開けたとき、神の世界とこの世界が繋がる。


 それこそが正しい答えのような気がしてきていた。


「なんですか、その笑い」

「笑ってる? 私」


 笑ってますよ、と男はこの上なく厭そうに呟いた。

 少女は手をはたいて言った。


「さあ、戻ろうか。

 綾子さんが晩御飯の支度をして待ってくれてるわ」


 少女はあのえんのある微笑を見せ、振り返る。


「ありがとうね――


  『扉を開けてくれて』」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る