エピローグ

 

 早朝、御堂の前の草原くさはらに、小さな黒い頭と真っ赤な服が覗いていた。


「なーにやってんですか、貴方は」

 呆れた声で問う男に、しゃがみ込んでいた少女は振り返らずに言う。


「うーん。アリさんがねー」

「アリさん?」


 後ろから覗き込むと、少女の白い腕を、よちよちと小さなアリが這っていた。


「降りないのよー」

「そんなもん振り落とせばいいじゃないですか」


「でも、可哀想じゃない」

「アリは軽いから、怪我なんかしませんよ。ビルの上から落ちたって死なないんだから」


「それ、ほんと~? あ、降りた」


 虹のような形をした茅の上をせかせかと歩いていくアリを見ながら少女は微笑んだ。


 男はなんだかその平和な顔にむかつき、鼻で嗤う。


「そうやって苦労して降ろしても、自分の足で踏んじゃうんじゃないんですか?」


「あ、可愛くない……」

「男は可愛くなくてもいいんです」


 来たときと同じ台詞を吐き捨てると、ほら、行きますよ、と少女の頭に帽子をのせた。


「あら、気がきくわね」


 革の鞄を掴み、男は言った。


「ええ。

 いつか、貴方に踏み潰されないようにですよ」


 なによ、それ、と言いながら、少女は立ち上がる。


 帽子を押さえ、ちょっとよろめきながらも歩き出した。


 ほらね、お嬢。

 それでもそうして貴方は歩いて行くでしょう……?


 


 朝早い便で、村を立つことにした少女たちを、深雪までが見送りに来てくれていた。


 まどかと香織は涙ぐみ、悟は暖かく見守っていた。


 だが、綾子は日傘をさし、バスが早く来ないかと遠くを見ながら、ハンカチで、せかせか顔を扇いでいる。


 その情緒のなさを悟が咎めたが、聞いていない。


「綾子さん、暑いんなら、たまには洋服着たらどうですか?」


「あら、普段は着てますよ」

と綾子は、あの高飛車な声で言い返す。


 じゃあ、なんで、と問うと、

「貴方に張り合っているんです」

とわからないことを言う。


 立花の側に居た薫が笑った。


「あ、来ましたよ」

 ようやく、というように綾子が言った。


 来たときと同じ青いバスが、小刻みに揺れながら長らく舗装していないらしい道を来る。


 それを見ながら少女は呟いた。

「またいつか――」


 夏の終わりの風に、帽子の下の髪が流れて揺れた。


「いつか来るから」


 感極まったようなまどかの側で、深雪が笑って言った。

「来なくても行っちゃうかも」


 深雪らしい答えに、一同が笑う。


 埃を巻き上げながら止まったバスの昇降口に足をかけた少女に、まどかが叫んだ。


「お嬢さん!」

 少女はただ一度振り返り、手を振った。



 

 夏の蜃気楼のように、少女たちの乗ったバスが消えていく。


 いつまでもそれを見送っているまどかの肩に手がかかった。

 深雪だった。


「ほら、行こうよ、まどか」

「え? 何処へ?」


 プールでしょ、と薫が笑う。


 少女が来た日、行きそびれたプールのことを、みんなまだ覚えていたようだ。


 あれからもう、何年も経ったような、そんな気がするのに。


 まどかは涙を拭って言った。


「薫は来なくていいよ」

「えっ。なんで?」


「立花さんと居たいでしょ?」

 悪戯っぽく笑うと、薫は照れたように、だけど、曇りのない顔で笑い返した。


 まどかは空いっぱいに広がる入道雲を見上げた。


 少女たちが去っても、まだ夏休みは続く。

 うんと大きく伸びをして、まどかは言った。


「行こう!」





 少女は今どき珍しい木の床を踏み鳴らし、一番後ろの長い席に行くと、腰を下ろした。


 窓を開けようとするが、うまくいかないようだった。

 男が後ろから開けてやる。


 いつも通りの関係。

 たった一度交わした口づけ如きで、なにが変わるものでもない。


 薄く開いた窓から入り込む風に、少女は目を細めていた。


 その小さな頭越しに、緑の稲穂が一斉に揺れて頭を下げるのが見えた。


「しかし、たくましいですよね、女の人って」

「何が?」


 風に髪をあおられながら、少女は問い返す。


 男は自分の顔にかかるそのやわらかな髪をさりげなく払いながら言った。


「薫さんですよ。あれだけ立花さんが貴方を想っていると知っていて、まだ愛せるなんて」


 男は気づいていた。

 薫の側に居た立花だが、僅かな隙にも、その目は少女を追っていたことを。


 だが、誰のためにも気づかぬふりをして、目を伏せた。


 薫にも、わかっているのだろうに。


 女というのは、純粋なのか。したたかなのか。

 いずれ、自分も立花も敵いそうにない。


 さすがに風に目が乾いたようで、少女は目をしばたたきにがら、前を向いて座り直す。


 自然に肩が触れていた。


 一見、誰にでも懐いているように見える少女だが、実はかなり人見知りをする。


 こうして触れ合うほど側に居てくれるのは、自分に心を許しているからだとわかってはいるのだが。


 ふん、と男は鼻を鳴らした。

 それがどうした。嫌っているのはこっちの方だ。


 そう思いながら、まるで彼女から身を守ろうとでもするように腕を組む。


 その肩に、何かがぶつかった。

 少女の額だった。


「え? えっ、ちょ、ちょっとっ」

 少女は自分に縋ったまま、片目を開けて言った。


「ごめん、眠いのよ。ちょっとだけ寝かせて」

「……仕方ないですね」


 男は組んでいた腕に、ぎゅっと力を込めた。

 がたごとと揺れる車内の料金表示を見つめる。


 この人がこうして自分に縋ってくれるのは、本当は自分を信頼してくれているからだと知っている。


 でも――。


 でも、お嬢。

 もしも、これから先も扉を開けられるおつもりなら、私は敵だと思われた方がいい。


 私は人類を神に売るつもりはないですから。


 そう思いながらも、ちらりと肩にかかる重さの主に目をやった。


 その呼吸は、緩やかな寝息へと変わっていた。

 バスの揺れる音に任せて、少しだけ言葉を出してみた。


 決して、彼女に向かって言うことはないであろうその言葉を。


 男は窓の外を見た。

 不揃いな形の田んぼが緑に揺れている。


 このまま、何処までも走っていけばいい。

 このバスが壊れるまで。


 そうすれば、人類が滅びることもなく、この人は永遠に側に居る。


 そうして、男もまた目を閉じた。


 埃にまみれた青いバスは、熱気に霞む山々に吸い込まれるように消えていった。




                          了





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神の遺伝子 ―Transfer― 櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん) @akito1

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