夕間暮れ――


 夏休みももう終わりだからか、日が落ちるぎりぎりまで遊び回っていたらしい子供たちが夕ぐれの小道を駆けていく。


 男は、少女が御堂の柵に腰かけ、ぼんやりとそれを見ているのに気づいた。


 後ろから近寄り、柵に手をかける。

 少女は夕空を見たまま言った。


「ねえ、昼間うっかり寝ちゃってさ。目が覚めて夕方だったら、あ、しまった、って思わない?」


 唐突にそんなことを言う少女に、男は不審げに答えた。


「――思いますけど?」

「しまった! 世界の終わりまで寝てしまった! って、思わない?」


「思いませんよっ」

 そう叫んだ男に少女は笑い、男はようやく、ほっとした。


 綾子の作る夕餉の匂いが此処まで漂ってきていた。

 少女たちは、あれから一昼夜、眠っていたのだ。


 少女は結局、扉は事故で壊れたことにした。


 扉は開かなかったのだし、いいだろうと強引に立花と悟を押し切ったのだ。


 扉に損傷があったこと、当主が気づいていないはずもないだろうが、何も言われなかった。


 ひとつ扉を犠牲にしてしまったが、これでもうすべての扉が開けないことに、当主自身、安堵していたからかもしれない。


 男は思う。

 扉を壊してしまいたかったのは当主も一緒だったのかもしれない。


 立花と同じようにその立場に縛られて叶わなかっただけで。だとするなら、もしかしたら――。


 当主が本当に此処へ連れてきたかったのは、少女ではなく、自分だったのではないだろうか。


 組織において、ただ一人、一族の血の入っていない自分。

 扉を壊せる唯一の存在。


 少女は山のに落ちていく夕陽を見ながら呟いた。


「転生っていうとさ。

 すごいことみたいだけど」


 少女の顔は夕陽に鮮やかに映えて見えた。


「こうして、毎日、日暮れを迎えるのと変わらないのよね。


 一日厭なことがあってもさ。夜が来て朝が来たら、そこでまた一区切り。

 新しいものが始まったって気がするじゃない。


 眠っていただけで、本当は時間は続いているのにね」


 まやかしのようだけれど、本当よ、と小さな口から溜息を漏らす。


「転生も同じ。

 そこで魂に区切りをつけるためのもの。


 何か間違っても、そこでやり直すために」


「時間は続いてる、か。

 死は、ただの眠りですか。


 じゃあ、記憶をなくさなければ、どうなるんです?


 眠らないのと一緒で、時間は続いたままじゃないですか。

 やり直しもできない」


 少女は答えなかった。


 片膝を下ろし、ただ風に髪をなびかせているが、その目は何処か違うところを見ているように見えた。


 男は未だ何も信じてはいなかったが、村を染めるオレンジの空気のなか、湿り気を帯びたその黒い瞳は、確かに子供の持つべきものではなく――。


 男はさっき見た夢を思い出していた。



 童画のような夕空。

 湖のほとり、一面の花の中に、少女は居た。


 天女のようにやわらかな布をまとった少女は、大人でもなく子どもでもない、そんな顔で眠っていた。


 男は誰かを待つように広げられた少女の指に自分の指を絡める。


 やわらかな唇の感触をすぐ側に感じたとき、身体の下で、少女が身じろぎをした。


 慌てて離れると、少女はゆっくりと目を開けた。


 切れ長の目の奥の澄んだ黒い瞳が男を映す。

 その中に居る自分を見た途端、胸が切なく騒ぐのを感じた。


 起き上がる彼女の長すぎる黒髪が、白い肩を這うように零れ落ちる。


 戸惑う男を少女は責めるように見た。


 あなたは、わたしを人にしてしまいましたね。

 一点の曇りもないわたしでなければ、あの人には逢えないのに。


 男は慌てて言った。


 わたしではない。わたしではない。

 あなたに触れたのは、わたしではない。


 だが、言いながら思う。


 今、自分がしようとしたことと、立花がしたことと、その心にどれだけの違いがあるのだろうと。


 そう思った途端、少女は消えていた。


 あとにはただ、むせかえる花の匂い――。



 

 一点の曇りもない私でなければ、あの人には逢えないのに。



 

 少女は目の前の男を見上げた。


 私が立花と居たのは、彼と少し似ていたから。


 でも、それは似ているところに意味があるんじゃない。

 似ていないほとんどの部分に意味があった。


 似ているがゆえに気になる違いが、彼はどうだったのかを思い出させるから。


 この人じゃない。この人じゃない。


 それを知りたくて、私は過ちを繰り返す――。


 今、自分を憎み続けていたはずの男が、まるで立花のように自分を見つめていた。


 この男は立花とは違う。何処も彼とは似ていない。


 私にとって、この男を受け入れることは神を忘れること。すべてを夢として。


 近づく男の顔に目を閉じた。


 だが、そのとき、瞼の裏に真青まさおの空が広がる。


 それは、今、すぐそこで触れている男よりも、強い現実感を持っていた。


 青い空に白い雲の切れ間が現れる。


 まるで扉のように、すうっとそれぞれが風に引かれるように左右に開いた。


 その向こうに、刺すような白い光が現れる――。





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