悪夢


 

 少女が寝てしまったあと、男はひとりテレビを見ていた。


 音を小さくして見るのにも疲れ、そろそろ寝ようかと腰を上げる。


 隣室の襖を開けると、少女は窓側の布団を陣取って寝ていた。


 どうしたもんかな、と思う。


 ボディガードだから、隣で寝るべきなんだろうか。

 いや、そこまでしなくとも。


 風が入らなくなるからか、カーテンは薄いレースのしか閉めていなかった。


 月の明かりに長く伸びた窓枠の影が、少女の上に落ちている。


 少女はよく眠っていた。


 男はその側にそっと膝をついた。


 小さな白い顔。

 長い髪が黒い扇のようにシーツの上に広がっている。


 わからない――。

 何故、この女は自分を傍に置き、当主はそれを許すのか。


 そっと髪に触れてみる。


 顔も身体も、初めて逢ったころに比べて随分大人びたが、そこだけが当時と変わらないように見えたからだ。


 だが、まるで髪にも神経があるかのように、少女は身じろぎをし、男は慌てて手を離した。


 


 結局、男は少女の隣に床を取った。


 虫の音に混じり、時折、さわさわと梢を揺らす音がする。


 窓のすぐ側まで枝が張り出しているせいかもしれない。


 目を閉じていても、強い月光が瞼を焼いた。


 静かだ。

 男の住まいである宿舎には、どんな時間でも人のうごめく気配がある。


 懐かしい。こんな静けさは。


 少女が隣に居るというのに、久しぶりに心落ち着く思いがした。


 古い旅館に響き渡る虫の音を聞いているうちに、男はゆっくりと眠りに落ちた。




『うるさいなあ、美幸。

 今、忙しいんだよ。


 宿題なら父さんにでも訊けよ。

 珍しく家に居るんだから』


 あの日、あの高校一年の夏の日。

 期末テスト中だった男は、付き纏う妹を邪険に払った。


 妹の美幸とは十近く年が離れていた。


 まだ大人になりきれていなかった男には、可愛いというより少し疎ましい存在だった。


 あれが最後になると知っていたら、もっと……もう少し。


 だが、それは今更思っても意味のないことだった。


 それでも、思わずにはいられない。


 もし、美幸があのまま大きくなっていたら、どんな子に育っていただろう。


 深雪のように元気いっぱいで、兄をどついたりしていたかもしれない。


 もう少し俺が大人になって、もう少し美幸が大人になって。


 そうしたら、俺たちは意外といい兄妹になっていて、俺はあいつの結婚式で号泣したりしていたのかもしれない。


 そんな淡い感傷を足を貫く痛みが突き破った。


 


 雨が降っていた――。


 煙る山麓、ぬかるむ泥土の上で、男は膝を抱えて蹲っていた。


 それは、一生知るはずのない痛みだった。

 一生知らなくていいはずの痛みだった。


 流れ出した血は雨と混ざり薄まって、側にいる小さな女の子の剥き出しの膝をも濡らしていた。


『おにいちゃん!』

 鼻にかかった彼女の声が泣きそうに叫ぶ。


 そうだ。

 この子だけは助けなければ。


 だって、この子は父さんの事件に、巻き込まれただけなんだから。


 そう思いながら、彼女を安心させるため、微笑みかけようとしたが苦痛にうまくいかない。


 目の前に、制服姿の男が立っていた。


 自分と同じ、高校生くらいの男。


 明るいブルーのジャケットにグレーのスラックス。


 何処か知っている学校の制服のような気がしたが、それを呑気に思い出すことはかなわなかった。


 初めて見る本物の銃口が自分を向く。


 今も耳に焼き付いて離れない、その男の声が静かに告げた。


『高林――

  DOLLを渡せ』



 

「うりゃっ」

 目を開けると、視界は白一色だった。少女の使うシャンプーの匂いがする。


 跳ねのけると、顔から枕が落ちた。


 まだ夢と現実うつつの境をさまよっていた男は瞳を瞬かせる。

 艶やかな長い黒髪をした美しい女が自分を覗き込んでいた。


 普段はあどけない顔をしているくせに、気を抜いたときに見せる表情は大人のそれだった。


 これが見知らぬ女だったら、憧憬を込めて見つめるところだが、生憎とそれは知りすぎている女だった。


 男が感傷を振り切るより早く、少女は、その配置のいい切れ長の目を威嚇するように細めてみせる。


「ちょっと。主人より遅くまで寝てるボディガードってどういうこと?」


 彼女はもう身支度を整えていた。


 この田舎で誰に見せるつもりなのか、相変わらず洒落めかしたワンピースを着ている。


 仕方なく起き上がりながら、男は大きく欠伸をした。








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