旅館
薄暗い旅館の廊下を、少女は歩いていた。
ぺたぺたとスリッパの音が響く。
有りがちな卓球の音も歓声も此処にはない。
このシーズンにこの程度の客でいいんだろうかと思いながら見た窓の外には、日に褪せたような中庭があった。
風呂につくと、少女は内風呂を通り過ぎ、すぐに露天に向かう。
露天風呂だけは、すたれた感じが日本庭園風の造りと相まって、いい枯れ具合だった。
それに、程よく誰も居ない。
少女は湯につかり、大きく上に手を伸ばした。
指の先に何かが触れる。
見ると、頭の上から楓の木が、青々とした葉を湯に向かって垂れていた。
少女は手を伸ばし、そっと下から枝を持ち上げてみる。やわらかい葉が掌をくすぐった。
耳を澄ますと、湯の流れる音にまざって、さらさらと清流の音がする。
目隠しに高い竹垣が組んであるので見えないが、背後は川のようだった。
少女は冷たい岩肌に背を預け、空を見上げた。
屋根と木々に囲まれた空は、微かに赤味を残した黒とのグラデーションで、それに沿うように細長い雲が棚引いている。
そのままぼんやりしていると、日が落ちてきたせいか、背後の和風の街灯に明かりがついた。
――この空の下に扉がある。
夜へと落ちていく空を見ながら、膝を引き寄せる。
脚が僅かに膨らんでいる胸に触れた。
大きくはないが、形は綺麗に整っている。
少女は自分の白い身体を見下ろした。
細くくびれた腰、小さく持ち上がった滑らかな尻。すんなりと伸びた長い脚。
まだあどけなさを残してはいるが、それは女の身体以外の何物でもなかった。
湯を掬うしなやかな自分の手を見ながら、少女は思う。
身体は一生懸命、大人になろうとしている。
だけど、なんのために?
誰のために、そうしようとしているの?
お爺様は、いずれ、力のない私に、力のある婿を取り、その子を後継ぎにしようとするだろう。
だけど、私は厭。私は誰の子供も産まない。
私は―― 誰のものにもならない。
顔を傾けた弾みに、ピンで止めていた髪が滑り落ちた。
その隙間から、青々とした楓が見えた。
ふいに少女の脳裏を、声が過ぎった。
扉を開け
すべての扉を開け
そのとき、俺は解放される――。
「私は誰も好きになんかならないよ。絶対……ならないから」
だから? と自分の中で問う声がある。
瞳を閉じた少女を、夏空に浮かぶ一番星が、天上からの観察者のように見下ろしていた。
少女が踏込から顔を覗けると、ちょうど男は電話を終えたところだった。
「やはり、御堂悟は三日間の休暇届を出しているそうです」
あ、そう、と相槌を打ち、広縁の応接セットに腰掛ける。
開け放たれた窓から、夕刻の涼やかな山風が入って来ていた。
濡れた髪をその風で乾かしながら、側のタオルかけに濡れた白いタオルを放る。
「どうします? ご当主に報告しましょうか」
椅子の背に縋り、足を組んだ少女は、うーん、と唸った。
「それもいいけど、もし、悟に何か訳があったら、どうする?」
「訳?」
「だって、正当な理由もなく儀式をすっぽかしたなんて知れたら、番人は降格ものよ。
そうなると、薫が可哀想じゃない」
男は答えない。
そこで意見を述べられるほど、番人という役職に精通していないからだろう。
「定時連絡は済んでるんでしょう?
儀式はまだしてないって話はしたの?」
「ええ。でも別に驚かれませんでした。
ご当主はもともと、貴方はそっちでゆっくりすると思われてたみたいですよ」
「……行動読まれてるな」
椅子に脚を上げ、膝を抱えて少女は言う。
座卓の前に居た男は、少女の方に身を乗り出して言った。
「ところで、聞き違いかもしれないんですけどね。
さっき聞いたところによると、今回此処へ来ることは、貴方ご自身が志願されたとか」
「あら、言わなかったかしら」
あっさりと認める少女に、男は叫んだ。
「なんでそんなことっ。
お蔭で私まで、来る羽目になっちゃったじゃないですかっ」
「そらまあ、あんた一応、私のボディガードだから」
「……貴方、私には自分が一番暇だから、此処へ来るように言われたみたいなこと言ってませんでした?」
「嘘じゃないでしょ。
私が本家で一番暇なのは確かよ」
気のない声で少女は言う。
これ以上追求しても無駄だと知っている男は、頬杖をついて吐き捨てるように言った。
「それで?
これからどうするんですか。
御堂悟のことを本家に言わないとなると、何かあったときにも、自分達で対処するしかなくなりますが」
どうすっかなーと他人事のように呟く。
「まあ、明日一日は、まどかさんたちに近場の案内でもしてもらいながら、悟からの連絡を待ってみましょうよ。
悟は番人として自覚のある男だもの。きっと、何かアクションはあるわよ」
「連絡できないような事態になってるとしたら?
誘拐とか」
「あの大黒天みたいなオッサンが?」
「そんな顔なんですか? 薫さんのお父さんなのに」
「薫は母親似よ」
少し考えて少女は言った。
「知ってる? うちの一族って、奇麗な方が力が強いの」
「それ冗談かと思っていましたが」
「力があることで、より奇麗に見えるってことなんじゃないかと言われてるけど」
「そんなことありますかね」
膝を抱えた少女は、応接セットの向かいにある古い鏡台の鏡を見つめて言った。
「私思うんだけど。
人間って神の形を覚えてるんじゃないかな」
「神の形?」
「そう、魂の何処かで記憶していて、神に近いほど、奇麗だと思うんじゃないかって」
「でも、顔奇麗でも性格悪いやつ居るじゃないですか。
ああ、まあ、神の性格がいいとは限りませんけど」
そこで少女は苦笑し、確かに、と言った。
「まあ、全部の話じゃなくてさ。
一部、そういう例もあるんじゃないかなって、なんとなく思っただけ。
お風呂、まだなんじゃないの?
行って来たら?」
少女は座卓の前まで行くと、そこにあったコピーされたテレビ番組欄を手にとる。
「あ、このテレビ、ガチャガチャ廻すやつだわ。
なつかしー」
畳に手をつき、身を乗り出したが、男が動く様子はなかった。
「なにやってんの?」
「……別に。なんでもありませんよ」
男は廊下を歩きながら思う。
力がある方が奇麗に見える?
じゃあ、なんであの女、力がないんだ。
だいたい、信心深い御堂悟が姿を消しているなんて、重大なことなんじゃないのか。
当主に知らせず呑気に構えてて、後で大事(おおごと)になっても知らねえぞ。
そう思ったあとで、気がついた。
自分はあの女が失脚することこそを望んでいたのではないか――。
蛍光灯に照らされた廊下は、しんとして人影もなく、白すぎる灯りはいささかもったいないくらいだった。
男は窓の外を見る。
向かいの建物の後ろに、鬱蒼とした山が頭を覗かせていた。
ふいに、かつて聞いた甘ったるい子どもの声が蘇る。
『私と一緒に来る――?』
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