夕間暮れ
夕食をよばれて御堂邸を出る頃には、山際はもう黒ずんでいた。
少女は蛙の鳴く田んぼを物珍しそうに見ながら、畦道を歩いていた。
何処で摘んだのか長い草を振り回している。
「どうするんですか。まどかさんたちに知れてしまって。
ご当主には報告しなくていいんですか」
「なによ。ごちゃごちゃ言うんなら、あんたが止めればよかったじゃない。
私はあんたが気づいてなかったなんて思ってないわよ」
「……買い被りですよ。
それに、私の仕事は貴方を守ることです。それ以外の責務は負っていないはずですが?」
突き放したような言葉に、少女は笑って振り返った。
「あら、守ってくれちゃうんだ?」
「貴方を他の人間の手にかけさせる気はありませんので」
その言葉に含まれた意味を、わかっているのだろうに少女は笑う。
「そう― それもいいんじゃない?」
そのまま背を向け、また歩き出した。
少女の香るような黒髪が夕闇の風に煽られ、男の鼻先まで舞い上がった。
男はそれから顔を背けるように、赤い光にぼんやりと浮かぶ山の端(は)を見た。
馴染みのない景色のはずなのに、不思議な郷愁を感じる。
少し心が落ち着いた男は、事務的な口調に戻って言った。
「それにしても妙ですよね。
御堂悟というのは、一族に忠誠の厚い男と聞きました。
それが、継承の儀式をすっぽかすなんて」
少女もそこに疑念を抱いていたらしく、すぐに頷いた。
「確かに。何があろうと、あの悟が儀式より他のことを優先させるとは思えないのよね。
さっきは薫が居たから言えなかったけど。
早朝、会社から電話があって出て行ったって言ってたわね」
「調べてみましょうか。
取引先でも装って会社に電話して」
「あら、急に頭の切れがよくなったのね」
からかうように笑う少女に、男はふてくされて言った。
「誰でも思いつくでしょ、それくらい」
二人の上を、ねぐらへ帰るのか、烏が、二、三羽、山へと向かって飛んでいった。
薫は、母が物思うような顔で部屋の真ん中に座り込んでいるのを見た後、そっと襖を閉めた。
渡り廊下を歩いて部屋に戻る。
御堂の屋敷の中で、薫の離れは唯一洋風の造りだった。
本当は勝手に屋敷の形を変えてはいけないのだが、一人娘のために、悟が願い出て造ってくれたのだ。
開けっぴろげな造りの和室と違い、ドア一枚で他から隔絶される此処は、薫にとって唯一落ち着ける場所だった。
ドアを閉め、そこに背を預けると、やわらかな色調の部屋をぼんやりと眺めた。
北側の小さな窓の下のセミダブルのベッド。
淡い卵色のキルティングのカバーが掛けられている。
ベッドカバーは当時と変わっていたが、薫の目には、そこに子供の少女と自分の姿が見えた。
身分の違いから言って、許されることではなかったのに。
すっかり意気投合した二人は駄々を捏ね、一緒に寝ることになった。
仕方ないですね、と言ったのは、少女についてきていた立花だった。
お陰で彼は警備のために、廊下で寝る羽目になったのだ。
当時を思い出し、薫は笑った。
だが、その笑いはすぐに止まる。
あんな駄々を捏ねるんじゃなかった……。
思っても仕方のないことを思い、祈るように目を閉じる。
「立花さん……」
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