Depth34 クラーケン

「なんだよ、これ……!」


 猪俣が声を上げるのも無理はない。八代を含め誰もここまでの事態を想定していなかったのだから。そこは巨大なテーマパークのようになっているが、もちろんどれもこれもが朽ちている。そして、そこかしこで阿鼻叫喚の嵐が吹き荒れていた。それは楽し気な絶叫などではない。絶望に満ちた死を想起する痛烈なものだった。なにより、心海魚の数が異様である。軽く見渡しただけでも50体以上……一箇所にこれほどの数が集まるのは誰も見たことがなかった。異常な人数が一気に押し寄せたことで、何かが狂ったのかもしれない。


「総員、個別に人命の救助をしていく。また、これを引き起こした人間が来ているはず……どうやったかは分からないけれど、確実に捕らえて聞き出す必要がある。こんなこと、二度と起こしちゃいけない。絶対に……」


 八代は目の前に繰り広げられる殺戮を前に拳を震わせる。

 

「やるっきゃねえな」


「なんつーか……地獄ってのがあるならこんな感じだろうな」


 矢切に続いて草場も感想を漏らす。ここはまさに地獄だった。悲鳴が入り交じり、肉片と化した無残な死体がそこかしこに散らばっている。血だまりの池、異形の怪物たち、逃げ惑い、狂ってしまった人々……。


 優音はただ黙っていた。異様な数の人間の死を目の当たりにして、それでもなお何の感慨も湧かなかった。『正義』が失われればこういった世界になるのかもしれない。戦争や虐殺は同じような光景を現実に生み出したのだろう。だが、人の命がなぜ重いのか。それを明確に答える論理はまだ構築できていなかった。これを引き起こしたのもきっと人間なのだから。


「人はいつか死ぬ。でもこんな風に誰かの醜悪な欲求解消のために奪われていい命なんてない。1人でも多くの命を救おう」


 全員が真剣な表情で頷いた。


「情報共有については以前の通り。わかるね?」

 

 八代はそういって耳に付けたデバイスを指し示す。そして、軽く自分たちが対応するエリアを打ち合わせた。


「作戦行動を開始する」


 八代の声はいつになく鋭い。それだけの事態だとみなが理解する。そして、すぐに救助作戦が開始された。彼にしては珍しく、「無理はしないでね」という言葉はなかった。これを目の当たりにして、放って休める人間はこのチームにはいない、そういう判断だろう。各々は走り出した。それぞれの持ち場に向けて。


 ――

 

 ジョーこと鬼崎恭介は嗤っていた。笑いが込み上げて止まらなかった。力のないクズが次々と喰われ、溺れ、無惨にその命が失われていくのを眺めて。もちろん自らもすでに大勢殺した。なぜか襲われず堂々としている彼に対して助けを求めた人間たちが、絶望に満ちた表情へと変わるのが堪らなかった。


「堪んねえなぁ!愉快な能力じゃねえか、クラーケン様よぉ!」


 彼は地上ではひたすら見下されてきた。異物を見るような眼で見られてきた。誰もが鬼崎を蔑み、この世界には居場所が無いのだと突きつけてきた。社会も個人も……誰もが表面に善意という皮を被り、その裏では黒い感情を自分より格下だと決めつけた人間にぶつけている。彼から言わせれば、その方がよほど気持ちが悪かった。多様性だとか人権などというものは、どれもがその薄っぺらな偽善を前提にして形作られている。綺麗ごとはどれも弱い人間が自分を弁護するための詭弁だった。


心海ここじゃ、力こそが全て!俺様が『正義』なんだよ!クズどもがぁ!」


 は鬼崎の論理を肯定した。「素晴らしいですね。そう、この心海こそが人の世のあるべき姿です。あの生ぬるく腐りきった世界を終わらせましょう。我々と共に」遭遇した時、鬼崎は生まれて初めて、心からの恐怖で足がすくんだ。その声は複数の人間が同時に言葉を発したような、不可思議な響きだった。5年前、Depth30付近でのことだ。当時の鬼崎は目的無く人々を殺害し、強さを求めひたすらに深層へと潜っていた。


「な、んだ?てめぇは……!?」


 姿かたちは人間だった。だが、明らかに異質だった。奴が現れたとき、巨大な低音のノイズが腹の底から響いていた。それは神を地上へと降ろすときに神職の者が発する警蹕けいひつのような、オームと呼ばれるマントラのような、畏怖と神々しさを感じさせるものだった。


 鬼崎はそれでもなお殺意をむき出しにして何とか拳を向けたが、あっさりと受け止められる。そして、キングジョーも一瞬にして巨大な触手によって絡めとられた。彼はストックと呼ばれる傷つけた人間や心海魚を緊急脱出用に何人か生かしていた。それを使って瞬間移動で逃げようとしたのだが、なぜか能力も発動できない。鍛え上げた暴力も通用せず、何もできなかった。


「威勢がいいなぁ?人間~!」


「王になる資格をあげようか」


「よかろう。よかろう」


「どうです?我々と手を組みませんか?」


「我々と君となら……楽しい楽しい世界が創れるよ!」


「穢らわしい地上を壊し、我々の世界へと変えるのだ」


「さあ、手を取れ。勇気ある者よ。貴様はふさわしい」


 表情1つ変えずにまくし立てられるその言葉たちは、到底1人から発せられたものとは思えなかった。口調も声もまるで違う。


 ――人ではない絶対的な存在。その存在が示す底知れぬ力と、浮かび上がってくる計り知れない恐怖に、鬼崎は屈服するしかなかった。彼は知らぬ間に跪いていた。そして、彼の論理からしても、力こそが絶対だった。


 だが同時に彼は少し喜びを見出していた。初めて自分の存在を認められたのだと。受け入れてくれる圧倒的な存在がいたことに感謝していたのだ。無論、自分では認めていないが、それは事実だった。彼はその手を取った。酷く冷たいその手を。


 それ以来、彼は計画を進めてきた。今日、この日のために。すべてがひっくり返る。そして自らが王となる日のために。


 鬼崎は来るべき世界の縮図として目の前の光景を見ていた。力なきものが残酷に殺され、力あるものだけが生き残る世界。綺麗ごとなどなく、全てをさらけ出せる本物の現実だ。


「邪魔をする奴は全員殺す。櫟原優音ひらはらゆうね……そして、スーツども。全員なぁ!」


「殺されるのはお前だ。クソッタレ」


 鬼崎は自分の背中に痛みを感じた。ナイフが引き抜かれ血が溢れる。「誰だぁ!」振り向きざまに蹴りを繰り出すが、それは宙を薙いだだけだ。


「簡単には殺さねえ。たっぷりいたぶってからだ」


 そう言って黒いロングコートの男は人混みに紛れた。クジラと黒い煙が見える。だが鬼崎は嗤った。殺したい奴が増えた。それが心の底から嬉しい。脳内物質が溢れ、痛みなどとうに消えていた。


「面白れぇ!まずはてめぇから八つ裂きにしてやるよ!」


「ただの透明化じゃねぇ」彼は即座に太陽の能力について理解していた。以前にまみえた時のことも覚えているのだろう。気配があれば確実に気が付ける。それだけの自負はあった。ナイフを手に取り、ゴキゴキと首を鳴らしながら軽くストレッチをする。


 再び彼を痛みが襲った。右わき腹に受けていた傷を狙いすましたナイフの刃。それは先ほどよりも激しい痛みを伴った。だが、込み上げるのは笑いだった。鬼崎はその傷に力を込める。ナイフは強固な筋肉が邪魔をして、少しだけ引き抜くのが遅くなった。ナイフを逆手に持ち替えて後ろへと振りかぶる。


(この筋肉ダルマが!)


 太陽は内心で激しく舌打ちをした。彼はすぐに退いたが、鬼崎の振りかざしたナイフは彼の胸辺りに浅い傷を残していた。少量の血が流れるのがわかる。ジョーの本質的な強さは能力ではないと、この時に彼はハッキリと理解した。瞬間移動による能力ももちろん強力だが、奴の力の本質はその異質なまでの身体能力と異常な精神力だ。普通の人間であれば、癒えていない傷口に攻撃を受けたとき必ず痛みによる拒否反応がでて、避けるなり硬直するなりして隙が生まれる。奴にはそれがない。すべてが暴力という反応になって返ってくる。その上、視覚や聴覚、鋭い嗅覚によって気配をいち早く察知し、圧倒的な瞬発力と筋力によって即座の反撃を可能としていた。


(来る!)


 想定通りジョーはすぐに瞬間移動を使って、ナイフの届きにくい太陽の左側面に現れた。それを予期していた太陽は体を転げて緊急回避を行う。だが、奴は転がった先に現れると、姿勢の低い太陽に鋭い蹴りをお見舞いした。太陽は咄嗟に腕で顔をガードしたが、その蹴りはそれを見越したように腹部を捉え、思い切り吹き飛ばされた。


「粋がっておいてその程度か?お前の敗因は初手で俺様を殺さなかったことだ。てめぇの匂いも覚えたしなぁ!」 


 それは能力のマーキングの事を指しているのか、それとも彼自身の嗅覚によるものかは判然としない。だがいずれにせよ状況が一瞬にして覆ったことは事実だった。


「どう、かな?」


 勝ち誇った笑みを浮かべる鬼崎の頭上に、突如として巨大なクジラが現れて、押しつぶした。だがやはり、その不意打ちも奴に大きなダメージを与えるには至らない。すぐさま瞬間移動した鬼崎はナイフによる追撃を開始した。その実力差は圧倒的だった。最初に遭遇した際の奴は、ただ遊んでいただけだったのだと思い知らされる。数撃はなんとか対応したが、ナイフを振り落とされ、太陽は強烈な握力で首を絞められた。一瞬にして呼吸が止まり、意識が飛びそうになる。


 太陽はひたすらにもがいた。だが、ジョーはその手を離すことはない。「クソ、離し、やがれ!」目に映る憎い顔を鋭く睨みながらも、その体から力が抜けていくのがわかる。


(ごめん、みんな……)


 最後の抵抗は脆くも散った。

 

「つまらねぇ。キングジョー、喰っていいぞ」


 そう言ってごみのように投げ捨てられる。太陽は己の弱さを呪った。能力を発動する隙もなかった。消えかかる意識に浮かぶのは目の前で死んでいった妹の顔。悔しさに涙が滲んだ。おそらく叫んでいただろう。「ごめんな……結衣」眼前に迫るサメの口からは血が流れ出て、白い歯がむき出しになる。太陽はただそれを眺めることしかできなかった。

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