最終章 深淵を覗く者達
Depth33 空っぽ
青く澄んだ空がビルの表面に映りこんでいる。そんな空を気にも留めない人の群れが、その町に似つかわしい喧騒を生み出していた。信号機は赤く表示され、多くの人が足を止めている。訪れた外国人はスマホやカメラを構え、固唾をのんでその瞬間を見届けようとしていた。それはありふれた日常だったが、人によっては珍しくも思えるらしい。スマートフォンをいじる若者、小洒落たコーヒーを片手に話し込む女子高生、腕時計を何度も見るスーツ姿の男性や、子供の手をしっかりと握る母親……。
あらゆる属性の人間がその瞬間を待っていた。そして遂にその時が訪れる。危険を警告する赤信号が、安全を示す青に切り替わった。すると、多様な人の群れは、まるで1つの意志を持っているかのように一斉に歩き出す。縦横無尽に行き交うそれは、滞ることもなくその道を埋め尽くしていく。
渋谷のスクランブル交差点――ここは一度の青信号で2,500人以上の人が渡るという。世界でもトップクラスの人数だ。人の集まるところに人は集まっていく。それは重力を持った物質が次々と物質を取り込んで、その力を増していくのと似ていた。彼らはみな日常を生きていた。それぞれの目的地に向かって、ただ歩いていただけだ。
ある1人の男が、その交差点の真ん中で立ち止まる。「クズ……クズ……クズ。ここはクズの掃き溜めだな……こいつらは世界の本質を何も理解してねぇ……」彼はぶつぶつと何かつぶやいていた。「見せてやるよ……」そう言って笑った後、一言大きな声で叫んだ。しかし、それを気にする人はほとんどいない。誰もが自分の事で精いっぱいだ。これだけ人がいるのだから、例え何かあったとしても、誰かが何とかしてくれる。頭のオカシイ人物はどこにでもいるものだ。関わらなければいいだけ。
「
しかし誰も、それを防ぐことはできなかった。1人の男が発したその言葉と共に、付近にいた1,000人以上の人間が、突如として意識を失ったのだから。
人々は気が付くと暗鬱な空間にいた。そこは酷く息苦しく、何かが腐ったような悪臭と、悪夢のような
「さあクソども!パーティーの始まりだぁ!」
誰かが叫んだが、誰も気にする余裕がなかった。みな、ただ生きたかったから。日常に、戻りたかったから。地上では信号機が普段と変わらず、危険を知らせる赤色を灯していた。
――
その少女は心が空っぽだった。
「私はなぜ殴られているんだろう?」
彼女はただルールに従っただけだった。虫は殺した方がいい。そう教わっていたのに。幼い彼女の手には、握りつぶされた小さなクワガタムシの足や内臓が付いていた。男の子は彼女を罵り殴った。人を殴るのはいけないことだ。でも殴り返すことができない。彼女は戸惑った。どうしたらいいのかわからない。
女の人が入ってきて、男の子を抱きとめた。私のことはまるで汚物を見るみたいに睨んでいる。どうしてだろう?悪いのは彼の方なのに。
しばらくして彼女の両親が、涙交じりに謝っていた。そして、𠮟りつけられた。どうやら、カブトムシやクワガタムシといった特定の種類の虫は殺してはいけないらしい。そう思っていたが、人の所有物を壊してはいけないのだと後で分かった。覚えるべきルールは沢山あった。
彼女の両親は2人とも弁護士である。裕福で恵まれた家庭環境だった。彼らは大事な一人娘に正義とは何か熱心に語って聞かせた。この世界にはルールが必要であって、それを破れば、トマスホッブズが『リヴァイアサン』の中で語ったように、争いが絶えない世界になってしまうのだと。人間の命は何よりも重いものなのに、それを奪い合うような世界にはしてはいけないのだと。
彼女はすくすくと育った。躾などは厳しい側面があるにはあったが、一度起こしてしまったエラーは二度とないように心がけ、”良い子”に育ったのである。学業面でも優秀だったし、明るく笑顔で、ルールを守って暮らしていれば大きな問題は起きなかった。しかし、人間というのは複雑で、嘘をついたり、自分の感情を偽って裏腹な態度をとることもある。そのことだけは本当に難しく、今でも上手くやれない。
そんな彼女が初めて心海を訪れたのは、クワガタムシを殺してしまってからすぐの事だった。お昼寝中の夢。そう思っていたのだが、そこはあまりにも現実だった。彼女にも身体感覚はある。息が詰まるような感覚、吐き気を催すような臭気……それらは確かに嫌悪感を与えた。しかし、恐怖はない。なぜだかわからないが、失ってしまった心がここにあるような気がした。
彼女は稀にいる、先天的な心海適正者だ。いつの間にか彼女のそばには仰々しい見た目をした骨のバディがいた。しかし少女はそれを怖がる素振りもない。何か、心の奥底で感じる温かいものがあった。それは初めての感覚で、それ以来彼女はたびたび心海を訪れることになる。
「きみも……カラッポなんだ!きみの名前は……ソラ!そらとカラッポはおんなじだってお母さんが言ってたから!」
ある時、彼女はその骨に名前を付けた。所有者には名前を付ける権利が与えられると知ったからだ。ソラは何も答えなかったものの、何か自分の心というものに繋がったような気がした。しかし、そこに現れたのは巨大な心海魚だ。……2度目の遭遇だった。恐ろしい形相のその魚にも、恐怖という感情は湧かなかったが、彼女の身体は危険を知らせるサインを発する。またも勝手に心臓の鼓動が早くなり、身体は強張った。動くことはできなかった。
「危ないから下がってて!」
だが、またもスーツを着た誰かが彼女を救った。それが誰なのかはよく覚えていない。おそらく長時間、心海に居すぎた為だろう。助けられた彼女は、「もう来てはいけない」と言われたことだけは覚えていた。そして、保護された少女は行方不明として捜索願が出されていたらしく、意識が戻ってすぐに迷子として両親のもとに送り届けられた。両親も、「遠くへは1人で行っちゃいけません。大人になるまでね」とルールを追加した。彼女は、C-SOTに加入するまでの間、そのルールをしっかりと守っていた。
大人になった今も、心というものが何か、ハッキリとした輪郭は描けていない。ただ、彼女は心海に潜り続けることを選んだ。何か大事なものが得られると信じて――。
――
「みんな、出動するよ」
八代は決意のこもった表情でC-SOTのメンバーを見つめる。矢切、草場、猪俣、そして優音。全員が一斉に力強く頷いた。
その事件はすぐにマスコミに取り上げられて大騒ぎになった。今は警察よりもSNSなどの方が情報伝達のスピードが早い。渋谷のスクランブル交差点で起こった未曽有の事件に、誰もが釘付けになった。1,000人以上が突如として意識を失い、彼らが次々と無残な姿になっていく光景は、この世のものとは思えないグロテスクで悲惨な絵を描いていた。
「1人でも多くの人を救う。僕たちにできるのはそれだけだ。今はそのことだけ考えよう。いくよ」
「「「「
彼らは地獄へと向かう。それでも希望は捨ててはいない。深淵を覗く者は、深淵にもまた見られている。だが、希望を持つ者だけが、また希望も彼らを見るのだから。
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