【短編小説】還海の底の魂たち ~沈没船とベッシーの永遠への対話~
藍埜佑(あいのたすく)
序章 - 深海の夢
青の深淵に沈んで幾星霜。かつて荒波を切り裂いていた船体は今、静寂に包まれていた。ル・グリフォン――その名を冠した帆船は、人の世からは忘れ去られた存在となっていたが、深海の世界では新たな生命の拠り所として息づいていた。
水深200メートルの海底。光がほとんど届かない暗闇の中で、ル・グリフォンはひっそりと横たわっていた。木製の船体は長い年月をかけて緑色の苔と柔らかな珊瑚に覆われ、かつての華やかな姿からは想像もつかないほど変容していた。しかし、その姿は別の意味で美しかった。自然が人工物を受け入れ、新たな生命の舞台へと変えていく過程そのものが、静かな壮大さを湛えていたのである。
ル・グリフォンには不思議な意識があった。人のように考え、感じることができた。それは船を構成する木々の記憶か、あるいは長い時を経て宿った海の魂なのか――誰にもわからない。しかし、ル・グリフォンは確かに「在る」のだった。
「また新しい仲間が増えたようだな」
ル・グリフォンは穏やかに思いながら、自分の船首に住み着いたばかりの小さなタコの一家を見つめていた。若い雌のマダコが卵を産みつけ、その周りを優しく触手で撫でている。生命の神秘に満ちた光景だった。
マダコの母親は、卵が孵化するまでの数週間、ほとんど餌も取らずに卵を守り続けるだろう。そして子供たちが生まれた後、力尽きて死んでいく――それが自然の摂理だった。命は命をつなぐために自らを犠牲にする。ル・グリフォンはその崇高さに、畏敬の念を抱いていた。
沈没から10年が経った今、ル・グリフォンの体は海の生命で溢れていた。船首から船尾まで、あらゆる隙間に生命が息づいていた。小さなエビの群れが甲板の残骸の間を泳ぎ回り、カラフルな熱帯魚たちが船室の窓から出入りしていた。かつて人間の船員たちで賑わっていた場所は、今や無数の海洋生物たちの楽園と化していた。
深海の静寂の中で、ル・グリフォンは時々、かつての航海の日々を思い出していた。荒波に揉まれながらも前進し続けた日々。嵐の中で揺れ動きながらも耐え抜いた経験。人間たちの笑い声や怒号、恐怖に震える声、そして時には歌声。すべては遠い記憶となっていたが、それでもル・グリフォンの意識の中で生き続けていた。
しかし今、ル・グリフォンは新たな存在意義を見出していた。海底の生命を守る「家」としての役割。かつては人間を運ぶ道具だったが、今では無数の生命の住処となり、彼らの歴史の一部となっていた。人間たちは自分を忘れてしまったかもしれないが、ここに住まう生き物たちにとって、ル・グリフォンはかけがえのない存在だった。
そんな静かな日々が続いていた。深海の流れは穏やかで、時々訪れる強い海流も、長い年月をかけて慣れたものだった。ル・グリフォンは自分の新しい「乗組員たち」を見守りながら、ゆっくりと時を過ごしていた。
しかしある日、その平穏な日常に、大きな変化が訪れることになる。
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