17 すり抜けてゆく記憶






 それからの日々は、日奈にとってはあまりにも苦しいものだった。


「歌詞できた? 楽しみに待ってんだけど」


 紘斗に声をかけられるたび、胸が締め付けられ、喉の奥が痛んだ。笑顔を作るのに、必死だった。


 心のどこかで日奈はまだ、信じられずにいた。

 その想いに相反するように―――それ以降も紘斗は時々、日奈との会話の記憶を失くしていった。


 会話や出来事は、断片的には覚えている。

 だけどその記憶はすごく曖昧で、2人の距離が縮まるような会話などは、ほとんど記憶から消されているようだった。


「佐倉の手ってちっさいよな。ピアノのオクターブとか、届かなさそう」


 覚えていないから、同じやり取りを日ごとに二度、三度と繰り返すこともあった。

 そのたびに日奈は、と悟られないよう、話を合わせる必要があった。






「……やっぱり、紘斗が忘れていくのは日奈との記憶ばかりだな」

「そう……なの、かな」


 紘斗がどういう状況で記憶を失うのか、蒼佑とはたびたび話し合った。

 失われる記憶が限局的すぎるし、心の解離が起こるような精神状態でもない―――そのため、脳機能障害とも解離性健忘とも言い難いというのが、蒼佑の結論だった。


というよりは、誤差を修正するみたいにという方が近いのかもな」


 蒼佑は当初、『まだ確証はない』と話していた。

 しかし、それはだんだんと『確証』に変わりつつあった。


 交わした約束も。

 特別なやり取りも。

 近付く距離も。

 日奈にとって大事な瞬間を、紘斗はほとんど、覚えていない。


(まるで、心の大事な部分だけをすり抜けるみたい……)


 紘斗と話すのが、つらかった。

 記憶をなくしてしまう紘斗は、紘斗なのに紘斗じゃないような、誰と話しているのかわからなくなるような……そんな感覚に、日奈は陥っていた。

 何度も記憶の自己補正を行ううちに、いつかすべてを忘れてしまうのではないかという、不安もあった。


 それに、恐ろしくもあった。

 、わからない。

 何気ない話題ひとつで、すべてが終わる可能性だってある。


 いつしか日奈は、紘斗と距離を置いた方がいいのではないかと思うようになった。


(あのノートの切れ端の言葉……あれは、自分に向けて、書いたのかな)


 くしゃくしゃに丸められ、ゴミ箱に捨てられていた『お前はAIだ』の言葉。

 今思えばあれは、紘斗の悲鳴そのものだったのではないかと感じる。

 紘斗自身も、自分がAIだと疑い始めている。

 でもその想いはきっと、自己補正機能により記憶ごと消されていく。


 考えれば考えるほど、苦しくて。

 でも、今の日奈にできることはひとつもなくて。

 同じところをぐるぐる回って、回りながら歩き疲れて。

 日奈の心は、すでに疲弊しきっていた。


 





 放課後、日奈は図書室で借りていた本を抱えて、廊下を歩く。

 この数週間はあまりに怒涛で、ゆっくり本に向かう余裕もなく、返却日になってしまった。


「……お、佐倉」

「あれ……間宮くん」


 図書室の受付にいたのは、同じクラスの―――先日告白されていた―――間宮だった。


「返却お願いします」

「はいよ。佐倉が今日初めてのお客さん」

「あんまり使ってる人いないよね、ここ」

「すぐ近くに図書館あるしな」


 間宮は図書委員らしく、1人で当番の受付をしているらしい。

 図書室は静かで、人の気配はない。日奈は思い切って、口を開く。


「あ、あの……わたし、間宮くんに謝らなきゃいけないことがあって……」


 どう切り出そうか、と迷っていると。


「告白現場見てたってやつ?」

「え! なんで知ってるの?」

「紘斗に聞いた」


 まさかの展開に、日奈は目を丸くした。

 そういえば最近、紘斗と間宮が一緒にいるところを時々見かけていた。

 その時に紘斗も間宮に、告白現場を見てしまったことを謝ったのだろう。


「黙ってればいいのに、バカ正直だよな、2人とも」


 間宮はくすくすと笑いながら、冗談めかして言う。

 間宮が気にしていない様子だったので、日奈はひとまずほっとした。

 間宮は「返却処理できました」と、重ねた本を脇に避けた。

 そして、ふと思いついたように、日奈に尋ねる。


「紘斗とケンカでもしたの?」

「え、なんで?」

「紘斗が落ち込んでたから。最近壁を感じるって」


 その言葉に、日奈の胸がずきんと痛む。

 紘斗とどう接すればいいのか―――悩みの渦中にある日奈の態度は、紘斗にも違和感を感じさせていたようだ。


「そ、そんな話、するんだね」

「あー……てか、俺が聞いたんだよ。『2人は付き合ってんの?』って」


 瞬間、日奈は硬直した。

 あまりにもど真ん中の、高速ストレートな質問。紘斗は一体、どう返事をしたのだろう。


「ごめん。いまのは聞かなかったことにして」


 日奈の反応に「まずい」と思ったのか、間宮は誤魔化すように手を振った。

 日奈も「わ、わかった」と、言葉少なに頷いた。


 そんな話をするほど2人が仲良くなっていることに、日奈は驚いていた。

 そして、紘斗がクラスメイトに溶け込むことを喜ばしく感じている自分に気が付く。


「紘斗のこと嫌いとかなら、しゃーないけど。そうじゃないなら、まぁ……相手してやってよ」

「……うん」


 日奈の喉の奥が、きゅっと締めつけられる。

 間宮の言葉には、紘斗への真っ直ぐな気遣いがにじんでいた。

 こんなふうに言ってもらえるほど、紘斗はクラスメイトに好かれている―――それは日奈にとっても心から嬉しいことのはずなのに。

 それなのに、どうしようもなく、胸が痛んだ。

 少し間を置いて、日奈はそっと尋ねた。


「間宮くん、さ。あの時……告白された時、どう思った? 『AIでもいい』って……言われた時」


 すると間宮は、苦笑しながら答える。


「すげぇなこの子って思ったよ」


 間宮は少し恥ずかしそうに頭を掻き、続ける。


「でも、俺も同じ気持ちっつーか。もし逆に彼女がAIだったとしても、いま俺はあいつと一緒にいたいし。お互いそう思ってるなら、一緒にいてもいいのかなって」


 さらりと口にした言葉なのに、日奈の心にずしんと響いた。

 いま2人の間には、素直で真っ直ぐな、ただ「好き」という想いしかないのだろう。


「あとから傷つくことになるかもしんないけど、そもそも別れる時のこと考えて付き合うやつなんていないだろ?」

「それは……たしかにそう、かも」

「だからその時になってみないとわかんないな。実際『俺はやっぱりAIだった』って言ったら、スパッと振られるかもしんないし」


 間宮は冗談ぽく、けらけらと笑って言う。


「でも、それでいい。いまの……付き合って楽しかった時間が、嘘になるわけじゃない」


 間宮の言葉は、驚くほどすんなりと日奈の胸に沁みた。

 間宮の話を聞いて思い返せば、ここ数日の日奈の心は、悲しみで染まりきっていた。

 紘斗と過ごした楽しい時間を、日奈まで忘れかけていたのだ。

 紘斗が忘れたとしても、一緒に過ごした時間が嘘になるわけじゃないのに―――。






 間宮にお礼を言い、日奈はぼんやりと図書室の本棚を眺めていた。

 少しだけ開いた窓からは、穏やかな秋風が入ってくる。

 同時に、合唱部の歌と伴奏のピアノの音色も、心地よく聴こえてくる。


(新しい曲だ……紘斗が弾いてるのかな)


 合唱部は無事に大会を終え、3年生は引退したと聞いた。

 正式な合唱部ではないものの、新たな伴奏者が見つかるまでは助っ人を続けると、紘斗が話していた。


(合唱部のみんなとは、仲いいのかな。ピアノが弾けることを、あんまりみんなに知られたくないって言ってたけど……伴奏者が見つからなかったら、紘斗が大会に出ることになるのかな)


 そしたらきっと、紘斗のお母さんは大喜びで観に行くんだろうな。

 鈴鹿先生は、どんな風に紘斗に声をかけるんだろう。

 紘斗のことだから、褒められてもきっと照れくさくて逃げちゃうだろうな。


 最近あまり話していないせいか、紘斗と話したいことがどんどん湧いてくる。

 紘斗のことをもっと知りたい―――その気持ちは今も変わらないんだと、日奈はようやく気が付いた。


 その時ふと、本棚におさまった1冊の本の背表紙に目がいく。


「職業……一覧……」


 紘斗と一緒に頭を悩ませた、

 日奈は慌ててその本を、手に取った。表紙には『職業一覧 なりたいものが見つかる本』と書かれている。


(えっと……音楽関係だけど、音楽の知識を教える人ではなくて、音楽で人を助けられる仕事……)


 立ち寄ったコンビニで語られた、紘斗の夢。

 日奈は本の最後にある、索引のページを開いた。


(『あ』行……『お』……あった、『音楽』! ……“音楽家”、“音楽教師”……違う……“音楽雑誌記者”……“音楽評論家”……“音楽プロデューサー”……)


 五十音順に並んだ言葉をひとつずつ追いかけ、下へと降りていく。

 そして、ひとつの項目で視線が止まった。


(これって……)


 日奈は慌ててその項目のページを開いた。

 これしかない―――そう思い日奈は、ページの右下にある動画用のバーコードをスマートウォッチで読みとった。





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