18 心





 いてもたってもいられず、気付けば日奈は音楽室の前にいた。

 少し待っていると、音楽室から聴こえる音色が止んだ。そして、音楽室のドアがガラッと開く。


「ひ……」


 紘斗、と思わず名前を呼びかけたが、出てきたのは見知らぬ生徒。

 休憩に入ったのか、合唱部員がつぎつぎと音楽室から出てくる。

 部員たちから向けられる視線に気付き、日奈は顔を赤くして俯いた。


「え、佐倉? どうした?」

「あ……」


 少ししてようやく、紘斗が廊下に出てきた。

 待ちわびていたせいか、紘斗の姿を見ると途端に恥ずかしくなり、日奈は言葉を見失う。


「なんかあった?」

「あの……ごめん、急に来て……」

「え、全然いいよ。準備室、入る?」


 やさしく声をかけられ、日奈は促されるまま音楽準備室に入った。

 数週間、毎日のように2人でこもって勉強したこの部屋―――ささやかだけれど大切な時間を思い出し、胸の奥がチクリと痛む。


「どうかしたの? 大丈夫?」

「あ、うん! 大丈夫っていうか、あの……これ、見て欲しくって」


 日奈は紘斗に、スマホを差し出した。

 さっき図書館で見つけた本から読みこんだバーコード。

 それは、職業の詳細説明の動画に飛ぶリンクだった。


「紘斗の……夢って、これじゃないかなって……思って」


 スマホの画面に視線を落としたまま、紘斗はじっと動かない。

 動画では、職業の概要、実際の仕事現場、必要な資格……映像やテロップを交えて、大まかな説明がなされる。


「どう、かな?」


 日奈は不安げに、紘斗の顔を覗き見た。

 すると紘斗は、驚いた様子で顔を上げ、日奈を見つめ返す。


「……佐倉、すげぇ。これだわ、たぶん」

「やっぱり!」


 日奈はほっとして、思わず声を上げた。

 日奈が本の中で見つけた職業の名は、『音楽療法士』だった。


「すごい……よくわかったな」

「職業一覧の本で見つけたの」


 音楽療法士は、病院や福祉施設、教育の現場で、音楽を通じて支援を行う仕事。

 歌を歌ったり、楽器を演奏したり、音楽に合わせて身体を動かしたり……そういう活動を通じて心身を整える、リハビリテーションのような役割も担う。


「音楽療法士は、音楽の知識だけじゃなくて……心理学の知識とか、働く場所によっては医療の知識も必要だって書いてあって。それに、“音楽で人を助ける”っていう……紘斗が言ってた条件に、ぴったりだなって」


 日奈も紘斗の隣に並び、スマホの画面を操作した。

 音楽療法士についての説明が載っているページを見せると、紘斗は「うん、これだ」と頷いた。


「……だからピアノ以外の楽器もできるようになりたくて、ギター買って……学校の勉強もできるようにならなきゃって、思ったんだ」


 記憶を辿るように、紘斗はぽつりぽつりと話す。


「俺、どうやってこの仕事のこと知ったんだろ。てかなんで忘れてたんだ……?」

「……あんまり、馴染みがない仕事だもんね」


 紘斗の疑念が和らぐよう、日奈はできるだけ声のトーンを明るく保ちながら言った。


「でも……どこかで、この職業を知って……やりたいって、思ったんだね」

「……だな」


 紘斗がやわらかく笑ったのを見て、日奈は心のつっかえがひとつ取れたような気持ちになった。


(これは……鹿の想いの痕跡、なのかな)


 『音楽療法士』という夢に関して、AIの自己補正機能が働くとは思えない。

 そうなると、この夢を最初に抱いたのは鹿と考えるのが自然だった。


「すごく……すごい、いい職業だって思ったの。紘斗にぴったりだって」


 は、音楽療法士になることを夢半ばにして諦めたのかもしれない。あるいは、夢を叶えて懸命に働いていたのかもしれない。

 そしてAIにデータが引き継がれる時に、なんらかの理由があってその記憶は消去されたのだろう。


 それでもなお、想いとなって残り続けた夢。

 その想いに突き動かされて、行動した心。

 この心が偽物だなんて、絶対に思えない。

 そう考えるうち、日奈はあることに気付く。


(こころ……?)


 たしかに日奈は、紘斗の中に“心”を感じていた。

 目標のため、突き進む心。

 夢を追い、努力する心。

 他者を想う心。

 人のためにと動ける心。

 紘斗には、“心”がある。


 それなのに―――紘斗の心は、操作されている。

 「自分が何者なのか」を知り、知ったうえで「どう生きるか」を考える権利が紘斗にはない。

 その事実がどうしても、受け入れられなかった。


(わたしは……紘斗を紘斗としか思えない。AIだからって割り切るなんて、できない……)


 このままでいい、とは、思えなかった。

 しかし日奈には、どう行動すればよいかが思いつかなかった。






 休憩時間が終わり、紘斗は練習のため音楽室に戻っていった。

 日奈はそのまま音楽準備室に残り、紘斗に頼まれていた歌詞をノートに書き始めた。

 あれほど悩んで筆が進まなかった歌詞は、驚くほどすんなりと、30分ほどで書き終えた。

 ノートを破り丁寧に折りたたむと、紘斗の鞄のポケットにそっと押し入れた。






 音楽準備室をあとにして、日奈が自宅に帰り着いた頃。

 日奈のスマホに、着信があった。


『ごめん、思わず通話ボタン押してた』

「う、うん」


 通話の相手は、紘斗だった。

 部活を終え、日奈が鞄のポケットに入れた歌詞に気付き、連絡をしてきたのだろう。

 連絡先は交換していたけれど、こうして通話をするのは初めてで、なんだか緊張してしまう。


『びっくりした。……すげぇ、いい歌詞だった』

「……よかった」


 お互いに、つぎの言葉が出てこない。でもそれは、嫌な沈黙ではなかった。

 想いを噛みしめるように、先に言葉を発したのは紘斗だった。


『……うまく言えないけど、俺、佐倉に出会えてよかった』


 通話の向こうの紘斗の声は、少し震えているように感じた。

 溢れそうになる想いを押し込めて、日奈はわざと茶化したように返す。


「お、大袈裟……ってか、別れのセリフみたいに言うのやめて?」

『あはは、そう聞こえたか』


 日奈の声のトーンに合わせて、紘斗も笑う。

 そしてまた、一瞬の沈黙ののち―――


『佐倉が受け入れてくれるなら、どこにも行かないよ』


 穏やかに、しずかに。

 まるで世界の決め事を話すかのように、紘斗は言った。


 紘斗のその言葉は、日奈の心に真っ直ぐに落ちてきた。

 たった一言に込められた、あまりにも多くの想い。

 運命を受け入れながら、運命に抗う―――そんな、決意のようにも聞こえて。


「……っ、ごめ……なんか、……」


 日奈はとうとう、溢れる涙を堪えることができなかった。

 通話の向こうで、紘斗が慌てた様子で声を上げる。


『え、泣いてんの?』

「ひ、紘斗がっ……変なこと言うから……!」

『そんな変なこと言ったかぁ?』


 互いに、核心に触れることはなく。

 でもきっと、想いの方向は同じだった。


「どこにも……行かないで。ずっと、いて」

『……おう。約束する』


 日奈がようやく絞り出した言葉に、紘斗は深く頷いた。


 ―――この言葉も、プログラミングなのかもしれない。

 それにきっと、この約束のことも、紘斗は忘れてしまうだろう。


 それでも、このとき通じ合った想いは、嘘ではない。

 いま互いに抱いているこの想いは、決して嘘にはならないのだ。






 それから少しして、紘斗から音声データが送られてきた。

 日奈が渡した歌詞をつけて、アコースティックギターで弾き語りをする紘斗の歌声が録音されていた。

 その歌を聴き、日奈の想いはちゃんと紘斗に届いていると、確信できた。

 鼓膜を介して、やさしく、穏やかな熱が伝わる。


(明日も……明後日も、紘斗に会いたい)


 止めどなく溢れる涙を拭いもせず、日奈は深く沈み込むように眠った。



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