第5話
恐ろしいものは、夜、世界が眠りにつき、静かになると現われる……。
廊下を歩く音にユラは目が覚めた。
「おとうさん……」
「起きてたのか、ユラ」
「……足音がきこえて……」
「起こしてしまったのだね。悪かった」
ユラはゆっくりと身を起こす。
「……どうしたの?」
「いや……シザに言われたことを、ずっと考えていてね」
一週間前のことだ。
養父はユラを別れた若い妻に変化させ、抱いていた。
それをシザに知られ、強く咎められたことを言っているのだろう。
あれからは、静かな夜が続いていた。
「確かに私はお前に、とてもひどいことをしていたと思ったんだ」
「お父さん……」
「別れた妻に変化させて抱くなど……、お前を身代わりにして。
さぞや辛かっただろうね」
ユラは瞳を伏せた。
……もう過ぎたことだから、いいのだ。それに何より、あのことは思い出したくない。
「ううん……」
「お前も、私を責めていいんだよ」
ユラは首を振った。
それよりも夜は、もう静かに眠りたい。穏やかな夢を見ながら。
養父はユラを抱きしめて来た。
それは、決してユラの意志を無視するような乱暴なものではなかったけれど、彼は安堵出来なかった。
「私もシザに言われてひどく反省した。
もっと、お前自身を愛してやるべきだったと」
ユラが顔を上げると、養父の目と視線が合った。
張り付いたような笑みが……悪意のように滲んで広がる。
世界が反転した。
ベッドに押し倒され、養父が圧し掛かって来る。
着ていたシャツに手が掛かり――彼が何をしようとしているのかなど、もう聞かずとも分かる。
養父の手がシャツを脱がし、背に這う。
「ユラ……お前は優しい子だね……。
あんなに酷いことをしたのに、お前は私を許してくれた」
違う。
ユラは小さく首を振った。
許したんじゃない。忘れたかっただけだ。
忘れて、前を向いて生きて行きたかった。
こんな人でも今まで養ってくれたのだから、人の心があるはずだと思いたかった。
「……お前は母親にとても良く似てる。……あの人もとても優しい人だった。私が項垂れているのを見ると、いつも優しい声を掛けてくれたよ……」
ユラは目を見開いた。
「本当はね、私は、あの女などではなく、お前に触れたかったんだよ。
お前が成長して……少しずつあの人の面影が現われて来ることが、とても嬉しかった。
あの人は不幸にも亡くなってしまったが……お前は私の側にずっといてくれる。
まだお前は幼いから、もう少し大人になるのを待っていたかったが……しかしそのことで、お前を苦しめてしまっては意味がない。
ユラ。安心しなさい。私は二度と、お前に姿を変えてくれなどとは言わないよ。
そのかわりお前自身を、心から慈しみ愛してあげよう」
男の手が、身体を這いまわる。
「ユラ、だから、あの男を信じてはいけないよ」
男の言葉が呪いのように耳元で響く。
ユラは首を振った。
紫水晶の瞳から涙が零れる。
この悪夢が現実になったら、またシザを悲しませ、苦しめる。
変化の能力を使って、なにかに化けても、この場から逃れようとした。
駄目だった。集中が出来ず、能力を発動できない。
「シザ、……兄さ……っ」
ユラは押さえつけられながら、何の意味もないことは分かっていたけれど、腕を伸ばした。
「あんな男を呼んではいけない」
あんな男、と養父がシザを呼んだ。
初めて聞く呼び方だった。
彼も養父の息子なのに。
最初からおかしかったのだ。
シザに暴力を振るい、
ユラには暴力を振るわず大切にすること。
自分たちは兄弟だ。
同じはずだった。
「お前は賢いから、分かるね?
どんなに思った所で、お前と奴は兄弟だ。
奴はいずれ、お前以外の誰かを選び、幸せになっていく。
その時にお前に残されるのは、父親である私だけ。
大丈夫だ……私はお前を優しく、手元で愛し続けてあげよう」
自分はそれを分かっていたのに、長い間勇気を出せず、
兄を一人きりで苦しい世界に置き去りにしていた。
これはその報いなのだろうか?
「幸せになりたいのなら、お前は私に願うべきなのだからね」
あまりの恐怖に、抵抗しようとする心と意志は、折れてしまった。
この世には恐ろしい人間がいる。
恐ろしい望みや、考えに捕らわれる人間が。
「このことは、……ユラ? いいかい……シザには言ってはいけないよ。
言えばあの男は、また私の邪魔をしてくるだろう。
お前が黙っていれば私はこうして、お前を優しく愛してやれる……。
私はお前に、暴力など振るったことは一度もないだろう?」
ユラの心を痛めつけながら、男は自信に満ちた声で言った。
現実のことなど何も見えていない、幻想だけに生きている声。
「私がお前をこの世で一番愛しているのだよ……だからこのことは、私とお前だけの秘密だ。いいね……?」
――分かっている。
どんなに想ってもシザは最終的には、ユラ以外の誰かを選ぶ。
それが兄弟だからだ。
シザが大学に通うようになって、急激に彼の世界は広がり、学ぶ知識も広がり、時々会うたびに背は伸びていて、ユラにはその姿が輝くように感じられた。
きっとこれからシザは色んな人に出会い、
たくさんの友情や愛情で結ばれて行くだろう。
確かにその時、ユラには心の拠り所が何もなくなってしまう。
自分は永遠にこの家で、この養父とだけ生きていく。
苦しくてたまらなくなったが、
一人で、涙を流さず、耐えていたシザの姿が脳裏に過った。
(それでも、ぼくは)
ユラの瞳から涙が零れる。
(祈るなら……あのひとに)
例えそれがあの人が離れて行く、その時までだとしてもいい。
幼いあの日にシザを逃がそうとした時、自分にはその勇気があったはずだ、と強く思う。
彼を自由な世界に逃がしてあげられるのなら、あとの痛みや嫌なことは全部自分が兄の姿で引き受けてもいいんだと、そう思った。
シザの姿に変化すると、養父はいつものように殴りつけて来た。
初めて殴られて罵倒される痛みを知った。
シザは長い間、一人であの辛さに耐えていたのだ。
自分はたかだか数日で心が折れたけど。
シザは、あの後ユラのことを許し、心を開いてくれた。
過去のことは水に流して優しい兄になってくれた。
シザに「自分は殴られていたのにお前は一度も苦しめられなかった。どうしてだ」などと言われたことは一度もない。
あの日からずっと、優しく自分に接してくれたのだ。
どうせ幸せになりたいと願うのなら、この悪魔のような男ではなく、綺麗なこころを持つシザに願いたい。
それが叶わないのなら、死んだっていい。
このままこの男に囚われて、一生誰かの身代わりとして凌辱を受けて生きていくくらいなら、死んだ方がマシだ。
死んだあの世には、ユラは出会うことも無かった、優しかったという本当の両親がいてくれる。
身体を蹂躙されながら、ユラの脳裏には自分に微笑いかけてくれるシザの姿だけが浮かんでいた。
シザに血を与えて、この世に生み出してくれた人たち。
(きっと僕を、優しく撫でてくれる)
あの人のように。
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