第4話
シザにとってユラに自分の想いを伝えることは、
想いを『恋』という形にするのと同じくらい困難で、苛むものだった。
血が繋がっていないとはいえ、戸籍上の近親者によって、ユラもシザも幼い頃から苦しめられて来た。
特に感受性の強いユラは身内という言葉そのものに、非常に強い警戒と怯えを抱くようになっているだろう。
シザが恋を自覚するのは、彼の勝手だった。
胸に秘めるだけならば、どれだけ想ってもそれは許される。
でも相手に理解してほしいと願った途端、一層慎重にならなければならなかった。
言葉に出しただけでもユラを苦しめることになるかもしれない。
養父であるダリオ・ゴールドが死んだ今、ユラが頼れるのは二つの血を同じくするシザだけだ。
シザはユラの聖域にならなければならない。
『お兄ちゃん』
『ごめんね』
幼いユラが自分に与えてくれた慈悲と愛情に、報いる。
あの時ユラが取った行動は、それまでの自分の穏やかで幸せな生活と、完全に決別する覚悟が無ければ出来ないことだった。
……しかもユラは本来とても臆病で怖がりで、繊細な少年だ。
庭に落ちた鳥の巣の、壊れた卵を近づいて調べることすら出来なかったのだから。
それでも養父からの暴力に苦しんでいたシザを、全てを投げ打って、彼は逃がして救おうとしてくれた。
その恩には報いなければならない。
それが出来ないのなら、
(自分は、咎人で、
……この手で殺した、あいつと一緒の人種になる)
ユラだけは守り抜かなくてはならないのだ。
◇ ◇ ◇
シザは、ユラに救われた時から彼のことが好きだったから、そのことは長い時を掛けて、彼には伝わってはいると思った。
決して悪意ではなかったが時々、この世で一番大切な人だと思って彼を抱きしめることがある。それは兄弟という以上の想いがあったので、そういう意味では自分からの好意は伝わっていたはずだ。
それでもユラの態度が自分に優しいままだったことは、シザを勇気づけた。
もし二人で暮らす途上で、自分の抱く好意に対してユラが困惑したり怯えたりするのを感じた時は、必ずそこで想いは消し去り、兄に徹しようとも覚悟していたから。
――――『たすけて』――――
頼りにしてくれたことは嬉しかった。
そして事件が起こり【グレーター・アルテミス】に逃げ込んだ。
【グレーター・アルテミス】での半年の暮らしの中で、シザはユラを弟として大切にした。
幼い頃のように抱えて眠ってやった。
シザ自身の恋情は完全に封じ込んで、優しい兄という役目に徹した。
ユラが望むならばそうすることも可能なのだと、彼に分かってほしかったからだ。
そしてユラがいよいよプロのピアニストとして活動を始める、出発する前日にシザはそう、話したのだ。
『絶対にユラの心を踏み躙ったりしない』
シザは別に、博打を打ったわけではなかった。
ユラから自分に向けられる感情の中に、自分の恋愛感情を否定しない気配を、時々感じ取ることがあった。
だからシザに必要なのは想いを口にする少しの勇気だけだった。
「ユラはこの世の誰を選んで幸せになってもいい。
でも想いを伝えられずに、それを理由に選択肢に入れてもらえないのは嫌だ。
だから離れる前に知っていてほしい。
僕はユラが好きだ。ユラが許してくれるなら、僕の恋人になってほしい」
ユラはシザの目をじっと見上げてくれていた。優しい瞳だった。
「……ぼくも、」
答えようとしたユラの唇を、指先で止める。
「答えは一年後に聞く。
そういう約束にしよう? もし……僕のことを、恋人として……見てもいいと思ってくれるなら一年後、僕のことは名前で呼んで欲しい。
さすがに……恋人に『兄さん』って呼ばれるのは、気が咎めるから」
シザは苦笑するように小さく笑ったが、ユラは笑わなかった。
彼は小さく頷いて約束してくれた。
予定より長くなった、二年間の空白。
自分はこの間、いい兄を演じることが出来たと思う。
時々ユラのことを想うと会いたくて触れたくてどうしようもなくなることはあったけれど、日々の仕事に忙殺され、ユラが戻ってきた時に彼を『【アポクリファ・リーグ】のランキングほどほどの男の恋人』になんてさせたくないと強く願えば、出来の悪い同僚に対して振るう鞭も、自然と真剣で厳しくなる。
アイザック・ネレスに対してビシバシと鞭を振るっていれば、シザはとりあえずは気が紛れた。
『あと一年、音楽と真剣に向き合ってみる』
そう言ったユラを、シザは遠くから支えて応援した。
【今後どうするか二人で話し合うこと】
【シザの問いに、ユラが返事をすること】
【シザを名前で呼ぶこと】
三つの約束を果たすためにユラは戻って来てくれた。
「……ありがとう」
空港から、予約していたレストランに向かい、少しだけぎこちなく思うことも新鮮に感じながら、話を交わしていると不意にシザが言った。
ユラは顔を上げる。
「……名前で呼んでくれて。……嬉しかった」
ユラは赤面した。
「メールとか電話だと、ユラは昨日までずっと兄さん呼びだったから。……少しだけ不安だったんだ」
「……練習したんです」
「え?」
「この二年間、実は練習したんです。シザさんって呼べるように、貴方のことを他人に話す時も『兄さん』じゃなくてシザさんって名前で呼ぶようにして。
慣れました。
……ぼく、……シザさんと、同じ血でこの世に生まれたこと、後悔してないです」
シザはユラを見た。
「そうじゃなければ、……貴方の側にいることは出来なかったし、こんなにも大切にしてもらえなかったと思うから。……だから貴方と同じ血が流れるこの身体も、嫌わないでいられる。それにシザさんが兄さんだっていうことから、無理に目を背けているわけじゃないんです。
普通の、他人との恋愛だったらもっと不確かで不安に思うこと、いっぱいあったと思うし……。
そういう不安は同じ血と、一緒に過ごして来た時間が和らげてくれるから」
ちら……とユラはシザを見上げる。
彼は、優しい表情でユラを見てくれていた。
「……あの……」
「ううん……嬉しくて。僕の血はユラを不安にさせるだけかなと思ってたから」
ユラは慌てて首を横に振った。
綺麗に盛りつけられたテーブルの上に腕を伸ばし、シザは対面に座るユラの頬に触れた。
碧の瞳を見上げて視線を交わすと、シザの瞳は雄弁で、ユラは見つめられてドキドキした。
好きだという、その気持ちが溢れている。
ユラはシザの美しい瞳の直視に堪えられず、思わず眼を閉じてしまった。
くす……、と音がして手が離れる。
目を開くとシザが椅子に座り直して微笑っていた。
(こういうとき)
ユラはシザが触れた自分の頬の辺りを押さえて、少し心を落ち着けるようにして、目の前の美味しそうな料理に改めて向き直った。
(シザさんは『兄』の顔をする)
ユラは、シザに恋をしている今も間違いなくその顔も好きだ。
安心するし、見守られていることを感じる。
恋人などとは別の意味で、この世で唯一自分と同じ血を引くという感覚は、この人は自分のものだし、自分はこの人のものだとも安堵させてくれることがあるから。
◇ ◇ ◇
シザはとても勇敢なひとだった。
ユラは幼い頃から特別な宿縁で結ばれたこの兄を、いつしか愛するようになっていた。
その頃シザは養父の暴力の直接的な痛みと、何故自分がこのような不幸な運命に囚われたのかという不条理さと、そこから抜け出せずにいる自分の無力さにひどく苦しんでいたようだ。
(でも このひとは一度も泣いた所をぼくに見せたことがない)
シザとユラは幼い頃は不仲だった。
シザは自分と同じ血を持ちながら、この暴力の檻から逃れられているユラを妬ましく、同時に疎ましく思ったのだろう。
ユラは自我が芽生えた頃からシザのことが好きだった。
この世で唯一、自分と血が繋がってる。
本当は弟として彼ともっと一緒にいたかったし、可愛がってもらいたかった。
でもその頃にはすでに養父の暴力が始まっていて、ユラは近づくことが出来なかった。
シザが泣いていたら絶対に優しく頭を撫でてあげるんだと、そんな風に心に決めていたけれど、彼は決してこの訳の分からない暴力に対して、泣いて屈しようとしなかった。
ユラはある日突然、能力に目覚めた。
その日もシザは暴力を振るわれていて、若い養母は「貴方は危ないから部屋に戻っていなさい」と不思議な言葉を言って、ユラを自室に連れて行った。
その頃ダリオ・ゴールドは、ユラにはとても優しい養父で、抱き上げて撫でてくれることもたくさんあった。
ユラはそういう時どうかどうかシザにも、こんな風に優しく触れてあげてほしいと、養父の顔を見上げながら祈っていた。
その日も一回から聞こえてくる殴打音や怒鳴り声が怖くて、とても辛かった。
シザがこのまま死んでしまったらどうしようと、涙を零してソファに伏せて泣いていた。
ふと、しばらくして目を覚ますと殴打音が止み、屋敷は静かになっていた。
そっと様子を見に行こうと、自室の扉に近づいた時、近くの鏡に自分の顔が映った。
ユラは驚いた。
そこに映っていたのは紛れもなく、自分ではなく兄だったのである。
鏡に近づいて、驚いた顔のまま、そっと鏡の中のシザに触れてみる。
自分自身の頬に触れてみると、紛れもなくそれは彼の手だった。
アポクリファとしての能力を開花させたユラは、すぐにこの能力がどういうものか理解をした。
覚醒型のアポクリファは自分の能力に戸惑う者も多いと言われているが、ユラはこの能力がすぐに好きになった。
動物にもなれるということが分かったから庭に来る猫に変化をして、シザの側に行けるようになったからだ。
ユラに対しては強い警戒と、近づくなという空気を見せるシザだが、猫の姿でそっと側に寄りそうと、抱き上げて撫でてくれた。
涙を零して耐え忍んでいる姿に、ユラはやはりシザでも苦しくて、泣くことがあるのだと気づけた。
そうさせてくれた能力には感謝しているのだ。
どうすれば彼を救えるのかを考えるようになった。
シザの側にいようとしたけれど、その頃のシザはユラに心を開いてはいなかった。
ユラですら、彼は必要としなかったのだ。
ただ一人心を氷のように固く凍らせることで自分自身を守っていたのだと、これは後にシザ自身から聞かされた。
『ユラに優しくされてたら、きっと毎日泣いてた』
ユラがシザを逃がしたあと、お互いの心が通じ合って側にいるようになると、シザは暴力を振るわれた日は、よく夜、眠る時にユラを抱きしめて泣くようになった。
自分に弱さを見せてくれるようになったシザがユラはひどく愛しくて、多分その時にはもう彼に恋をしていたのだろうと思う。
そんな強さなど何もないのに、この世の怖いものや苦しいもの、何もかもからシザだけは守ってあげたいなどと、祈っていたから。
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