第6話
ガタン、と揺れが走った。
瞳を開いて、すぐに自分が眠っていたのだと理解した。
慌てる前に額の辺りに優しいキスが落ちる。
「……眠かったら寝ていいよ。もうすぐ着くけど、眠っていたら僕がちゃんと連れて行ってあげるから」
シザが静かな声で言った。
気づけばシザに寄り掛かって眠っていたのをそのままにして、抱き寄せてくれていたらしい。
レストランから出て、車に乗り込んだ所までは覚えているから、本当にうたた寝したという感じのことだろう。
自分は悪夢を見ていたのだ。ユラは肩を竦める。
(……いやだな……どうして今、あんな夢を見たんだろう……)
最近は、養父の夢は見なくなっていたのに。
どうして今日こんなに嬉しくて、幸せな日に……。
◇ ◇ ◇
【バビロニアチャンネル】のタワービルに隣接するもう一つの建物が、CEOドノバン・グリムハルツが所有するホテルだ。
その最上階フロアに彼は居住しているが、忙しい男なのでここではあまり住んではいない。
シザは別の階に、居住フロアを貰っている。
シザもユラも、昔から大きな家には住んでいたが、さすがにここは公私に華やかな生活を送っているセレブの居住地だけあって、豪華さの規格が違った。
とはいえシザもユラも寮生活を送っていたので、必要最小限の広さの生活にも慣れている。
こんな広い部屋を貰っても、結局いつも同じ場所で過ごしてるとシザは言う。
ユラはくすくすと笑った。よく分かる気がする。
「ここがユラの部屋。ユラが好きなものを置けるように、ここはまだあまりものを入れないでおいてもらった」
ベッドとソファと大きな本棚。広々とした作業机にテーブル。広い部屋だけど、本当に家具はそんなものだ。
「ありがとうございます、シザさん」
シザが持って来た、ユラの荷物をソファに置く。
「座ってて。何か淹れて来る。少し話そう」
一度シザは出て行った。
ユラは小さく息を突く。
さっきまでは周囲に人の気配があったから、まだ大丈夫だった。
でもこの家に戻ってシザと二人きりになったら、途端に意識し始めてしまった。
ユラはソファに所在なさげに、腰掛けた。
ここに来て、こんな不安な気持ちになるとは思わなかった。
昨日と言わず一週間前【グレーター・アルテミス】に戻れると決まった一カ月前から、今日のことは本当に楽しみにしていたのだ。
やっとシザに会える。
彼の元に帰れると。
ユラは約束は全て果たすつもりだった。
彼を名前で呼ぶようになり二年前、好きだと言ってもらった、そのことの返事をする。
つまり――二年前から、自分もシザのことが好きでこの二年間、それは全く変わらずここまで来たということ。
――恋人同士になるのだ。
シザが戻って来る。
紅茶のいい香りがした。
対面じゃなく、ユラの隣にシザは腰を下ろした。
「……少し疲れてるみたいだ」
シザはユラの顔を見下ろして、気遣い、大きな手で髪を撫でた。
心に浮かんだ怯えを隠すように、ユラは紅茶のカップに手を伸ばす。
「この一週間【グレーター・アルテミス】に戻れるってずっと浮かれてしまって……」
「そうなんだ」
シザも笑いながら、紅茶を一口飲んだ。
沈黙が落ちる。
何かを話さなくてはダメだ、とユラは焦った。
「きょう、は……シザさんはお仕事だったんですか?」
突然聞かれてシザは碧の目を瞬かせたが、頷いた。
「うん。僕もユラが戻るって聞いてから、この一週間くらい浮かれてたから。
同僚に情緒不安定だって注意されたよ」
「アイザック・ネレスさん……でしたよね。明るいひとみたいで、良かったです」
ユラが微笑む。
「まあ陽気な人だけど。調子がいいのだけはやめてほしいですね。あとお酒を飲むと必ず話が長くなるのも嫌いです。とても鬱陶しいので。
ユラがお酒を飲めるようになった時に一緒に飲めるようになりたいから、今から慣れておきたいと思って付き合っていますけど、やっぱり酒を飲んで口数増える人とはあんまり飲みたくないですね」
お酒を飲めるようになった時に。
ユラは現在、十四歳だ。
(シザさんは今からもう、考えてくれているんだ。
この先のぼくと、一緒にいることを)
『いつかお前以外の誰かを選んで……』
ユラは離れていたがこの二年間、特別配信される【アポクリファ・リーグ】は全て欠かさずに見て来た。
シザは今や【アポクリファ・リーグ】【バビロニアチャンネル】そして【グレーター・アルテミス】の顔になりつつある。
彼のデビュー以来の鮮烈な活躍は絶大な人気をもたらし、ユラも世界各国を旅をしながら演奏活動をしたものの【アポクリファ・リーグ】が放映されていない国でも、配信を見ながら彼のファンになっている人をたくさん見た。
アポクリファ警官、という概念が存在しない地域では【グレーター・アルテミス】の警察制度は非常に羨ましがられるようだ。実際世界的にアポクリファの人口は増加しており、犯罪者の中にも能力者が増えている。
そういう時に非能力者では、太刀打ち出来ないことがあるからだ。
強い能力者であると同時に非常に端正な顔つきのシザは、それはそれは女性ファンも多い。
ユラが【グレーター・アルテミス】に住んでいると聞けば、共演の音楽家の女性などは、シザ・ファルネジアの護る街に暮らせるなんて羨ましいと、こぞってそんな風に言って来る。彼女達はアポクリファではないからだ。
自分がアポクリファだったら今すぐにも【グレーター・アルテミス】に居住地を移すのに、なんて言う女性もいて、こんなに綺麗で音楽の才能もある女性が、そうかそんなにシザのことが好きなのかと思うと、ユラは聞いてるうちに段々とドキドキして来る。
確かに今の時代、特にアポクリファという存在が現われてから、人々はそんなことにこだわってる場合ではなくなったと言わんばかりに、同性愛などには非常に寛容な世の風潮になっている。
芸能人や有名人でも、そういうことをカミングアウトしている人は特に珍しくもないし、知った所で妙に騒がれることもない。
その代わりアポクリファだと公表することは、自動的に国際連盟の国際法に定められたアポクリファ特別措置法に適応されることになるので、かなり渡航や生活に制限を掛けられることもある。
攻撃性の強い力である場合警戒されたりすることもあるので、公表することを嫌がる人もたくさんいた。
【グレーター・アルテミス】は唯一、能力者が能力者であることを恐れ、恥じないでいい街だ。
非アポクリファから見ると【グレーター・アルテミス】の国際連盟におけるその一際特異な存在感は、脅威さえ及ぼされなければ非常に魅力的に見えるらしい。
アポクリファの街に住む、人命救助を使命にした能力者。
普段自分たちの周囲にはいない類いの救助者に憧れを抱く気持ちは、ユラにも分かる。
戦っている時のシザはそれは強くてカッコイイ。
その時ばかりは兄だとか好きな人だとか、そんな考えはどこかに吹っ飛んで、一ファンとしていつもワクワクしてしまっている。
(……こんなぼくで、ほんといいのかな……)
この二年、遠くの国でシザの活躍を眺めながら、何度そう思っただろう。
シザは、ユラが名前で呼んだことをとても喜んでくれたが、ユラはそれにも少し驚いたくらいだったのだ。
もしかしたらそんな約束、忘れられてるかもしれないと思って。
シザは使命感のとても強い人だから、それで弟であるユラとずっと一緒にいてやらねばならないとそう思って、その気持ちを恋と勘違いしている可能性だってあった。
ユラは自分の中の、シザに対する欲望を自覚していた。
依存や、独占欲、そういったもので、
こんなものを見せてシザが果たして喜んでくれるのかは……全くの謎で、確信の無いものだ。
「……ユラ?」
「……え、……わっ! あ!」
突然シザがユラの手に触れて、驚いたユラはカップを落としてしまった。
「わあああっ! ご、ごめんなさいっ!」
「落ち着いて。ユラ、大丈夫だから」
柔らかい絨毯の上にカップは転がったから、割れてはいなかった。
「火傷、してないか?」
シザは落ち着いた様子で、すぐにタオルをユラに差し出した。
「してないです、ごめんなさい……」
「大丈夫だよ。濡れるから、ほら、足を上げて……」
「ぼ、僕が拭きます! 僕が――」
シザがユラの足首を持ち上げるのと、ユラが慌てて、腰を屈めて絨毯を拭こうとしたのはほぼ同時で、二人は鼻先に見つめ合った。
一瞬シザの方がひどく驚いた顔をした。
碧の瞳が見開かれ、しかしすぐに彼の表情は平時に戻り、じっ、とユラの瞳の奥を見据えて来た。
(あ)
思った時には、シザがユラの背に腕を回して、口づけて来ていた。
それは今日、出会ってからの穏やかで優しいシザが一体何だったのかという豹変の仕方だった。
心構えが出来ておらず、色々考えていたユラは完全に混乱した。
「ん、」
垣間見た悪夢が連れて来る、怯えと。
ようやく願いが成就するかもしれないという期待。
同じ血の器。
ひたすらに優しい、兄。
今夜がどんなものになるのか、口付けを受けている今でさえ、ユラには想像もできない。
「――ユラ」
シザはようやく舌まで深く絡めて来た口づけを放して、ユラの頬に手の平を押し当てて来た。
その手の平は、ひどく熱かった。
今の一撃で、すでにユラは圧倒され、恐れていた『答え合わせ』が間違っていなかった安堵、そうなりたかったという紛れもない自分の欲望を、少しの躊躇いもなく満たしてくれたシザに、瞬く間に心が惹かれていく。
陶然としたそれが表情に出ていたのだろうか、シザは自分のシャツに手を伸ばし、迷いもなく脱ぎ捨てて来た。
この二年間の生活で細身だが、しっかりと鍛えられた体つきに変わったシザの上半身の美しさに、ユラは心が震え上がった。
怖いのか、嬉しいのか、自分でもはや分からない感情だ。
「……二年前、空港で別れた時から、……ずっと、ユラにこんな風に触れたかったなんて言ったら、――僕を軽蔑する?」
シザの碧の瞳に、その時一瞬だけ怯えが混じった。
それは自分がさっき抱いたものとよく似ていて、ユラは安堵し、こんなに完璧なひとなのに曝け出す弱さが、愛しくなった。
シザの首筋に、そっと指先で触れる。
「……しません。だって、それをしたら、自分を軽蔑するのと同じだから」
自分でも驚くくらい、静かな声が出た。
不安げだったシザの顔に、安堵と喜びが広がる。
シザは身を屈め、ユラのシャツに手を伸ばして来た。
広げた首筋に唇を這わせる。
ユラはそれだけで、全身が震えた。
ボタンを外して、広げられる。
露わになったユラの肌に、シザの手が確かめるように触れる。
(きもちいい……)
ユラは上を扇ぐようにして喉を仰け反らせた。
身体を撫でられているだけで、こんなに気持ちいい。
こんなことは知らなった。
これ、が気持ちいいなんて。
どうしてこれが『こわいこと』なんて思い込んでいたのか。
それは……――
突然、シザは身を起こしたユラを見上げていた。
それは彼自身予期しなかった動きらしく、シザよりもユラの方が驚いた顔をしていた。
目が合った途端、ユラの顔が青ざめて行くのが見えた。
「あ……」
ユラの唇が震えた。
「……す……すみません、……ごめんなさい……」
ユラは慌てるように、シザの頭を抱えるようにして抱きしめた。
「ちがうんです、……ごめんなさいシザさん……ぼく、本当に……今日、貴方に会えることを楽しみにしていて、」
ユラの瞳から涙が零れた。
怒らないで、ごめんなさい……、
ユラがシザを抱きしめて、優しく髪を撫でて来る。
一瞬の混乱の中にあったシザは自分の頭を撫でるユラの手に、深く息をついた。
それをどう捉えたのかユラがびく、と身体を強張らせる。
「……違うよ、ユラ。失望したんじゃない」
シザが顔をあげて、ユラの濡れた頬に唇を触れさせて来る。
ユラの身体のシャツを呆気なく全部剥いで、それから深く両腕で抱きしめた。
「……シザさん……」
「安心したんだ。……折角初めて身体を繋いでも、そのことがユラの中で怖い記憶と結びついてずっと残るのは絶対嫌だから」
ユラはシザの胸に顔を伏せた。
彼の胸を、零れる涙が濡らす。
「…………さっき、車の中で、うたた寝した時に……昔の夢を見てしまって。
……ごめんなさい……最近は、あまり見なくなってたのに、どうして今日……」
ユラは本当に悲しそうに目を伏せた。
シザはそっとユラの顎を上げさせる。彼にもう一度、口づけた。
今度のキスは、ひどく優しいものだった。
唇を放し、額を寄せて、預ける。
「泣かないで」
シザはユラの裸の背をそっと撫でた。
「ユラ。……大丈夫だから。僕は、……急がないから。
僕が一番怖いのは、貴方を壊してしまうことで、
僕の側が、貴方にとっての苦痛になって、
僕の側からユラが消えてしまうこと。
それが一番、こわい」
ユラは頷いた。
自分だってそうだ。
シザがこれ以上、苦しむ姿は絶対に見たくない。
自分と一緒にいることがシザの苦痛になるのは嫌だ。
彼には笑っていてほしい。
……シザはユラをたった一言で、たった一つの動作で幸せな気持ちに、安堵させてくれる。
それが自分には出来ない。それがユラには悔しかった。
そういう駄目の繰り返しがあって、シザが失望して、自分の側からいなくなってしまうのは嫌だ。
早く普通の恋人同士のようになりたい。
この世界にどんな悩みや、苦しいことがあっても、その人の側では全てを安堵出来るような。
「ユラ、無理に僕に合せようとなんかしなくていい。兄弟だって歩むペースは違って当然なんだから。……おいで」
シザはユラを抱き上げると、寝室の方へ連れて行った。
広いベッドにユラを下ろし抱きしめたまま、二人で寝そべる。
シザも別に、常にユラに欲情しどうにもならなくなるわけではないのだ。
彼を抱きしめて、平気で眠れることもある。
そういう時は多分恋情などは心の深い所に入り込んで、彼を守ってやらねばならない、弟に幸せになって欲しいという、兄としての使命感が表面に出て来ているのだろうと思う。
「……僕もいまだに、時々幼い頃の夢に苦しめられることがある」
「……シザさんも……?」
ユラは小さく、鼻をすすった。
「うん……起きた時に気づくんだ。自分が魘されていたことに。あいつはもうこの世にはいないのにどうしてまだ、苦しめられなきゃいけないんだろうって、怒りで……すごく嫌な気分になる」
シザは柔らかな毛布に、ユラと一緒に包まった。
裸の上半身からお互いの体温が、直接伝わってくる。
「でも過去の記憶は、過去の記憶だ。幼い頃より確実に記憶は薄れて、自分が一つずつ何かを、平気になっていることが分かる。
だからユラも大丈夫になる。何故か分かる?」
「……、」
「この世にあの男はもういなくて、僕は今もユラの側にいるからだよ」
シザはユラの白い額に想いを込めて口づけた。
菫色の瞳が大きく見開かれる。その拍子にまた、大粒の涙が一つだけ零れた。
「こうやって一緒に毎日を暮らして、楽しいことや嬉しいことが重なっていけば、苦しい記憶は薄れていく。
仮に時々思い出して魘されても、目を覚ました時にこんな風にユラが腕の中で眠ってくれていれば、魘されたことなんて僕は一瞬でどうでもよくなる」
「シザさん」
ユラは眼を閉じて泣き出した。
「ぼくは、いつも貴方にそういう優しい言葉とか、……やさしさを、貰ってばかりで」
「ちがう。一番最初に優しさを貰ったのは僕だ。
ユラがあの男から僕を逃がそうとしてくれた。
僕を暗い世界から救い出してくれたのはユラだ。
だから僕も、ユラを必ず悪夢から救い出してみせる」
「シザさん……」
「今、こうして僕の体温を感じているのは、苦しい?」
ユラは大きく首を横に振った。
「それなら大丈夫」
シザは優しい顔で笑ってくれた。
「放っておいてもそのうち、僕のことが欲しくなるよ。
この世で僕ほど、ユラを愛せる人間がいるはずないから」
その言葉を聞いてユラがようやく、少しだけ笑ってくれた。
「やっと笑ってくれた。貴方が笑うと嬉しい」
「……ぼくもです。……シザさん……今日はこのまま一緒に眠ってほしいって言っても、貴方は気を悪くしない……?」
シザはもう一度、両腕を深く回してユラを抱き締めた。
「しませんよ。でも条件があります」
「はい、なんでしょう」
少し緊張した表情を返したユラの首筋に、シザは顔を埋めた。
「撫でて下さい。とても優しく」
数秒後ユラはシザの頭を抱き寄せて、彼の髪を優しく撫でて来てくれた。
ユラの体温、手、声、気配。
まるで離れていた半身が返って来たような安堵を覚える。
「ユラ……僕のこと、好きでいてくれましたか」
「はい。……二年間ずっと」
会いたかったです。
優しく響いたユラの声は、シザの胸をひどく満たした。
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