第2話 蝶々の向かう先は(一)

 今日、四月七日は海坂高校の入学式だった。

 既に役割を果たしたとでも言いたげに頭上ではなく足元に桃色を展開させる桜の花びらだったものを踏み潰し、新入生を品定めするごとく凝視し、歓迎の笑みを浮かべながら花道を作るいかつい先輩方の間をうやうやしくくぐり抜け、数時間の狭苦しい体育館への拘束の果てに、青空広がる校庭に出るともう言いようもない爽快感に包まれた。初春の澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込み、伸びをする。凝り固まった肩がぼきぼきと鳴った。


 新一年生は各クラス四十名の四クラス、合計百六十名の学年で、理系に強い海坂は一組が文系クラス、二・三・四組が理系クラスという分配になっている。二年・三年も同じだ。もちろん男子校のため女子は一人もいない。

 中学までは共学だったため初めての男子校に、緊張半分、好奇心半分で僕は割と今日を楽しみにしていた。どんな雰囲気の場所なのだろうか、と。果たして、授業が始まる前、式典の途中で僕は言葉を失った。

 入学式の終盤、坂男の紅一点・公民教師の藤沢美波先生の担任クラスが発表された時、叫びが上がった。一組の列からは喜びをにじませる声。その他の列からは絶望に打ちひしがれる絶叫。無論、どちらも獣の喚き声で大した違いはない。

 僕の並ぶ三組の一列も前後から阿鼻叫喚の声が飛び交っている。はあ、と息を吐く。

 ……お前ら理系だろ。公民の授業、一切ないだろ。

 とんだカルチャーショック。これが男子校のノリというものか。入学初日にしてちょっと引いた。

 げほ、とむせる。いや、ちょっとばかり慣れない大声を出して喉が驚いただけだ。


 入学式を終えた僕らは各教室で形ばかりのオリエンテーションを終え、十五時過ぎに僕は教室を出た。

 さすがに入学一日目。部活や委員会も早くても明日以降から始まるようで、この短時間で新しい友達を作る機会はなかなかない。僕と同じように一人で教室を後にする者がちらほら見える。

「なあ、校長のさあ、アレ、絶対ヅラだよな」

「え、まじで?なんでわかるんだ、そんなこと」

「俺も好きなんだよ、あのメーカー。黒色が濡れ黒っていうか、ツヤがあって。ははは」

「……ははは」

 あるいは、初対面にしては喋りすぎなのではないかと心配する会話を繰り広げるクラスメイト。緊張して話題を取り間違えたのだろう、相手の方が顔を引きつらせて愛想笑いに興じている。なんという不毛な会話。入学直後、新生活の始まる出会いの季節、同情するがよくあることだ。

「……実は俺も、メーカー悩んでて。よかったら教えてくれないか」

「……!おう、もちろんだとも、親友よ!!今からなんか食いにでも行こうぜ!お前に似合いの一品を選んでやるよ!」

 前言撤回。この不毛な界隈は滅多にない。名前だって知らないだろうに、一気に同士の親友へとステップアップ。奇跡的なマッチング率だ。……あの耳の大きな絆創膏と、似合いのキャップのその下は見ないでおこう。


 クラスメイトの友達作りを横目に眺めつつ、僕はこのような神引きをできる自信がないので、やはり素直に一人で帰路に着くことにする。新しい環境に飛び込むといつもよりも疲労を感じるのは無理もないことだ。こんな日はとっとと家に帰る……のではなく、ゆっくり散歩して帰るに限る。


 散歩は好きだ。何にも追われず、何も追わず、思うがままに歩き回る。見知らぬ町で新たな景色を眺め、予期しようもない場所へ辿り着く。こういう行為でしか得られない栄養があると僕は思う。

 緩やかに左カーブを描く坂を下り、突き当たって女子高を左折し、交差点を越え一つ、二つ。一人暮らしの僕の下宿はこの二つ目の交差点を左に曲がった先にある。今日はここを曲がらず、三つ目まで行ってみようか。そこでふっと何かが通り過ぎた。

 なんだ、ちょうちょか。

 小ぶりで、しかしそれでいて深みのある黒い羽に赤、青、黄色の三色が映える。鮮やかな色の蝶だった。その蝶はパタパタと羽ばたき交差点を右に曲がっていった。僕はそれを尻目に予定通りまっすぐに歩を進めていった。

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