第5話 前世とずれていく展開

 デビュー審査前、最後のレッスン日――

 スタジオの空気は張り詰めていた。壁一面の鏡が反射するのは、汗に濡れた顔と険しい表情。重い呼吸とスニーカーの擦れる音だけが響き、誰一人として気を抜く余裕はなかった。

「ストップ!」

 鋭い声が飛ぶ。音楽が途切れ、全員の動きが一斉に止まった。トレーナーの腕組みした姿が鏡越しに映る。その眉間には深い皺が刻まれ、厳しい視線がひとりひとりを射抜いた。

「……お前たちは今のパフォーマンスでデビューできると思うのか? アイドルらしい華がまったくない。このレベルじゃ、観客に見せられないな。ひとりずつやってみろ、リーダーから」

「はい!」

 名指しされた律音が奥歯を噛みしめながら頷き、リスタートの構えを取る。しかし、もう一度やっても、トレーナーは無言のまま腕を組んだまま。やがて、ため息混じりに言い放った。

「違う違う、リズムが先走ってる。緊張してるのか? 本番でそんな言い訳ができると思うか?」

 静寂が支配する中、律音が小さく「いえ、思いません……」と返事をする。誰もが自分の番が回ってくるのを恐れ、息を殺していた。

「次、凌介!」

「はい!」

 今度は、緊張で強張った顔をした凌介が踊り始めた。トレーナーが凝視する中、凌介は曲の終わりまで踊り切る。

 トレーナーは不思議そうに首を傾げた。

「凌介はメインボーカルだったよな? それなのに、なんで歌声がまったく聞こえないんだ。本番は生歌だぞ。踊りながらでもちゃんと歌わないと駄目だろ」

「すみません」

 凌介は恥ずかしそうに俯いた。デビュー曲『Dawn's Promise』は動作の激しいダンスだというのに、高音で歌うパートも多い。しっかり踊りながら歌うことの難しさを理解しているほかのメンバーたちは、言い返せずにいる凌介をそっと見つめた。

 その後に空翔と龍之介も踊ったが、「空翔は表情管理が下手過ぎる。曲の途中で気を抜くな」「龍之介は……後半で息切れしてる。スタミナ不足だな」と散々な評価だった。

 メンバーの中で叱責されなかったのは、澪だけだった。

「うん……澪は及第点だろう」

 澪のパフォーマンスを見て、トレーナーは満足そうに頷く。

「最後、透真!」

 名前を呼ばれた透真の肩がびくりと跳ねる。トレーナーの視線は冷静そのもので、まるで透真の心を見透かしているようだった。

 以前、屋上で澪に指摘された部分を意識して踊る。鏡の中の自分は、練習初日と比べて別人のように踊れていた。

 ――まだまだ足りてないけど、一歩目は踏み出せた気がする。

 透真は確かな手応えを感じていた。だが、トレーナーは透真の実力に満足しなかったようだった。

「初めに比べればよくなってるが……一生懸命にやりました、感がある。もっと余裕を持って踊れるようにしないと」

「はい……」

 淡々とした口調の中に滲む苛立ちに、透真は拳をぎゅっと握った。わかっている。自分でも、澪のように完璧には踊れていないことは。でも、どうすれば彼のパフォーマンスに近づけるのか、その答えが見えなかった。

 鏡の中の自分は汗だくで、髪が頬に張りついている。周りのメンバーも皆、疲労で肩を上下させていた。だけど、誰も弱音を吐こうとはしない。ここで食らいつかなければ、夢に手が届くことはないから。

 「もう一回やるぞ。音楽かけて」

 トレーナーの声が響く。心臓の鼓動が、音楽のイントロと重なる。最後のレッスン。ここで全てを出し切らなければ――。

「もっと揃えろ。バラバラ過ぎる」

 何度も繰り返し練習するうちに、トレーナーから合格点をもらえるパートも増えていく。だが、あるひとつのセクションだけはいくら踊ってもうまくいかない。

 「あー……このブリッジの振り付け、難しいのはわかるが腕の動きがめちゃくちゃだぞ。リーダー、テスト当日までにどうにかしないと」

「はい。みんなで相談します」

 トレーナーの言葉に、律音は重々しく頷いた。

 レッスンは終了。メンバーたちはトレーナーに「ありがとうございました!」と頭を下げ、スタジオを出ていくトレーナーを見送る。

「とりあえず、みんな集合してくれ」

 律音が疲れた声でメンバーを招集した。透真たちは汗を拭いながら、ぞろぞろとスタジオの中心に集まった。

「デビューがかかった最終テストまで、あと数日しかない。正直言って、今の俺たちがブリッジの振り付けを完璧にこなすのは無理だ。振り付けをもっと簡単なものに変えたほうがいいと、俺は思う……何か意見があったら、言ってくれ」

 律音の提案に、メンバーたちは顔を見合わせた。最終テストまであと数日。振り付けを変更して、はたして本番までに間に合うのだろうか……。そんな不安な気持ちが、メンバーたちの顔に表れていた。

 デビュー曲『Dawn's Promise』のブリッジ部分は、穏やかなメロディーに合わせて複雑で難しい腕の動きがあるのが特徴だ。まともに踊れていないのだから、律音の言う通り振り付けの難易度を下げるのが現実的だった。

 ――そもそも、この振り付けって、俺が前に見たものとまったく違うんだよな……。

 透真はライブコンサートで目にした『Dawn's Promise』の振り付けを思い出しながら、ふとつぶやく。

「……演技を取り入れた振り付けにするのはどうかな?」

 透真の発言に、全員の視線が集まる。空翔が透真を促すように聞く。

「どういう振り付けにするの?」

「2人だけがセンターに出てきて、歌詞に沿った動きをするんだよ。ずっと激しく踊るもいいけど、観客からしたら俺たちの表情がはっきり見えるほうが楽しいと思うんだ」

 透真はライブで見た振り付けを思い返しながら、ブリッジ部分の振りを踊った。

「『俺たちが負った傷、流した涙は』でひとりが俯いてる。それを見たもうひとりが、涙を拭う演技をするんだ――その間、他のメンバーはしゃがんで待機してればいい。次の『前途を照らす星』でみんな立ち上がれば、自然にサビの振りに繋がるだろ?」

 実演しながら説明すると、律音が「なるほど」と小さくつぶやいた。

「観客視点で考えた意見か……」

「いいんじゃないか? こっちのほうが楽しそうだ」

 感心したように微笑む澪。驚いたように目を見開く凌介。その反応に、透真はほっと息をつく。

 しかし、その後に透真は衝撃的な言葉を聞いた――

「……今のって、Serilionのライブバージョンの振り付けだよね?」

 内緒話をするように、耳元で囁かれた言葉。

 透真がハッと顔を上げると、空翔が物知り顔でこちらを見ていた。

「俺も不思議だったんだよねー。これまでのはMV用の振り付けだったじゃん。あの振り付けはMVだけだったはずなのに、なんでだろうなーって思ってたんだ!」

「え……」

 どうしてそんなことを知っているんだ。まるで前に見たことがあるみたいに――透真は空翔に思わず聞き返しそうになって、唇を噛み締めた。

 確かに、これまで自分たちが踊っていたブリッジの振り付けは元々MV用の振り付けだった。Serilionのファンなら覚えていても不思議はない。だが、この世界線ではまだSerilionのMVは撮影されていないから、知りようがないのだ……前の世界から転生してきた自分以外は。

 透真の心臓が大きく跳ねる。

 ――もしかして、こいつも俺と同じ転生者……?

 疑惑が確信になろうとしていた瞬間、律音が喋り出したので、透真は空翔から視線を逸らした。

「誰がこの振りをやる?」

「言い出しっぺだから、トーマ! で、トーマの涙を澪が拭えばいいよ!」

「うわ、いいじゃん。いい画になりそう~」

 空翔のアイデアに、龍之介が賛同する。透真は驚愕して口をあんぐりと開けた。

 ――あの有名なカップルパートを、俺と澪くんが!? なんでそうなるんだよ?

 空翔が本当に転生者で、前世の記憶を持っているのなら、このブリッジパートを律音と凌介が担当していたことを知らないはずがない。律音と凌介という仲の良いふたりが絡むからこそ、ファンが大喜びするパートだったのだ。

「お、俺には荷が重過ぎるんじゃないかなあ~……?」

「そんなことないって。ほら、さっそく練習あるのみ!」

 空翔に半ば無理矢理押し出されるようにして、透真は澪の目の前へ立った。澪は拒絶する素振りもなく、「やってみろ」と目で語りかけてくる。

 ――まだ見ぬ世界中のSeraphsよ、すまない……俺はオタクとして超えてはならない一線を超えそうだ……。

 偶然にもブリッジの歌詞に呼応する感情に陥っていたせいで、透真は自然と振り付けのように項垂れた。そんな透真を見た澪は、一瞬ためらったように指先を浮かせた。だが次の瞬間、迷いを断ち切るように透真の頬に触れる。指が熱い。肌の上を滑る感触が、思ったよりも優しくて――息が詰まる。

 透真は無理やり視線を逸らした。けれど澪の指は、まだ触れている……。鼓動が大きく跳ね、思わず後ずさりしそうになるのを堪えた。

「おおー、いい感じ」

 律音がふたりを見て、満足げに頷いた。

 ――ゆ、指が。澪くんの指が、俺の頬をなで、撫でて……無理、推し過剰摂取で死んじゃう‼

 気絶しそうな透真に誰も気づくことはなく、新しい振り付けの振り入れは順調に進み始めていた……。


 ***


「みんな、しっかり準備してきたわよね? それじゃあ今からデビューを決める最終テストを始めます」

 Serilionの所属事務所の女社長が、にこやかに笑いながら言った。

 ――いよいよ、デビューを賭けた最終テストが始まる。

 透真は大きく息を吸った。指先まで緊張でこわばる。これまでの努力が、この瞬間に試されるのだ。

 いつも練習に使っているダンススタジオが、今日は少し違って見えた。スタジオ内の照明が熱を帯びて、肌にじんわりとした汗が滲む。

 6人が緊張で息を詰めていると、デビュー曲である『Dawn's Promise』の音源が流れ始めた。

『影が疑念を囁く……。凍りつき、恐怖の中に閉じ込められた俺たち』

 出だしはまずまず。みんな緊張した面持ちだったが、練習の成果もあり笑顔を観客に見せるのも忘れていなかった。

『俺たちが負った傷――』

 問題のブリッジパート。そこまでは順調に踊れていた透真だったが、身を屈めようとしたところで、足を滑らせてしまう。

 ――まずい! ここで転んだら、サビの振り付けに間に合わない……!

 透真は青褪めて震えた。だが、その瞬間に澪が即座に駆け寄ってきた。倒れかけた透真の身体を両手で受け止めて、透真の頬を指でなぞる。

『流した涙は……前途を照らす星』

 澪はアクシデントをまるで振り付けの一部のように処理した。あまりにも完璧な対応をした澪を、信じられない思いで透真は見上げる。その視線に応えるように、澪は透真に優しく微笑みかけた。

 澪の鋭い瞳が、僅かに心配の色を滲ませて透真を見下ろしている。触れられた腕から熱が伝わり、鼓動が跳ねる。

「……あ、ありがとう」

 サビに移る一瞬前に透真が小さく礼を言うと、澪はそっと手を離した。もう何事もなかったかのように、振り向いて踊りの隊列に戻る。

『空に触れよう、突き抜けよう、隠れる必要はない――』

 壁一面に張られた鏡が、6人の必死な表情と流れる汗を反射している。音楽が鳴り響く中、透真は全身に神経を巡らせながらステップを踏んでいた。審査員席に座る大人たちは、腕を組んで微動だにしない。彼らの視線が、透真たちを試すかのように突き刺さる。曲の終盤、凌介の息遣いが荒くなるのが聞こえた。それでも彼は、最後の高音をしっかりと響かせた。

 曲の終わりまで、透真たち6人は集中力を切らすことなく踊り続けた――。

「……みんな、お疲れ様。それでは、最終テストの結果を発表します――」

 息が詰まるほどの沈黙の中、事務所の社長がゆっくりと口を開く。

「――おめでとう。君たち6人のSerilion、デビューが決まりました!」

 一瞬、時間が止まったような感覚に陥った。だが、次の瞬間、抑えきれない歓声が弾けた。

「うわあっ……やったあ!!」

「マジで、マジで俺たち、本当にデビューできるの!?」

「よかった……!」

 空翔、龍之介、凌介がそれぞれに喜びの言葉を叫ぶ。透真も無我夢中で拳を突き上げる。ずっと夢に見ていた瞬間だった。全身が熱くなり、胸の奥がじんと痺れる。

 ――これで、澪くんと……千景澪と、同じアイドルになれる。隣に並んで、同じステージに立つことができるんだ。

「……これくらいで喜んでどうするんだ?」

 そんな中、冷静な声が熱狂を引き裂いた。律音だった。彼はひとりだけ歓喜の渦に加わらず、腕を組み、社長をまっすぐ見つめている。

「この事務所は俺たちをデビューさせるために作られた小さな会社だ。デビューさせて資金を回収するまで、俺たちを稼がせようとするのは当たり前だ。ここからが本番なのに、そんなことで気を緩めてどうする?」

 その場の空気が、ひやりと冷えた。さっきまでの興奮が、少しだけ薄れていく。社長は痛いところを突かれたのか、苦笑いをして律音を見つめていた。

「まあまあ。せっかくのデビュー決定なんだし、素直に喜ぼうよ」

 凌介が苦笑しながら律音の肩を軽く叩く。

「……これからが大変なのに……」

 律音はそれ以上は言わなかったが、その瞳には強い決意が宿っていた。律音は本気でSerilionの行く末を考えている。その気持ちは痛いほど伝わってきた。だからなのか、誰も律音を非難はしなかった。

 それから――興奮が冷めやらぬまま談笑していると、透真は澪の姿が見えないことに気がついた。

 スタジオを出てみると、自動販売機の横にあるベンチに澪が座っているのを見つけた。

「澪くん、さっきはありがとう。俺が転びかけた時、助けてくれたでしょ」

「ああ……別に、あれくらい。スタジオの床って滑るもんな」

「うん……」

 デビューが決まったというのに、澪の表情は暗い。そういえば、さっきも澪は喜んでいなかった……。

「……澪くんも、デビュー決定ぐらいじゃ喜べないって思ってる?」

 律音の話したことを思い返しながら、透真は尋ねた。

「いや……そういうわけじゃない。デビューできるのは嬉しい。ただ、これからはデビューできなかった奴らの分まで頑張らないといけないと思うと、少し……」

「しんどい?」

「……うん」

 澪は小さく頷き、寂しそうな瞳で床を見下ろした。透真は推しが沈んでいる様子を見て慌ててしまい、わざとらしいほど明るい声音で叫んだ。

「澪くんは誰よりも輝くアイドルになれるよ! 絶対!」

 まるで根拠のない言葉だったが、透真はこれが事実だと知っている。

 自信満々に叫んだ透真を見て、澪は少し呆れたように口元を緩めた。

「まあ、透真よりは輝けるかもな」

「励ましたのにディスられたんだけど!?」

「冗談だよ。透真の頑張りはちゃんとわかってる」

「えっ……」

 透真が絶句していると、澪は飼い犬を褒めるようにして透真の髪の毛をわしゃわしゃと撫でた。澪がこんな風に親しみを込めた仕草をしたことはなかったので、透真の顔はたちまちに真っ赤に染まる。

「あの……澪くん。君は顔面国宝の自覚を持ってください。頼むから」

 ――じゃないと、こっちの心臓が持たないって!!

「俺の顔が好きなのか? じゃあもっと褒めてやるよ。よーしよし……」

「うわああああ……!」

 いつになく楽しそうな澪に頭を撫で繰り回されながら、透真は絶叫した。

 Serilionのメンバーたちの、幸せな一日が過ぎていった――。

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