第2話

遅い。いくら何でも遅すぎる。もう十分は待った。もしかして、何かあったのか? 不穏当な雰囲気を感じ取りつつ、僕は綾子の向かった方へ歩を進めた。すると案の定、綾子はトイレ付近で柄の悪い三人組に囲まれていた。僕は近くの観葉植物に身を潜め、様子を伺う。

「可愛い子ちゃん、もしかして一人?」

「ねえねえ、俺たちと遊ぼうよ」

綾子は目線を下に向けて、項垂れている。

「嫌って言わないってことは、いいってことでオッケーかな?」

連中は綾子が喋れず、助けを呼べないことに漬け込もうとしている。連中の方に視線を見やる。連中は筋骨隆々な体躯に、和彫りの刺青を入れていた。戦闘になれば、ひ弱な僕に勝ち目はないだろう。今すぐにでも助けたいが、足がすくんで動かない。どうする、綾子を見捨てるのか。もし仮に見捨てたとして、おそらく命までは取られないだろう。ああいう手合いは女の躯に蹂躙の限りを尽くし、飽きたら捨てるに違いない。その後に回収に行けば、僕に危害が加えられることはないだろう。

男の手が、綾子の手をがっしりと掴む。

「いい子だから、こっちに来ましょうねー」

そう言って、男は綾子を男子トイレに連れ込もうとしている。綾子は地面に踏ん張って、必死に抵抗していた。

「や、やめろ!」

思わず姿を見せてしまった。綾子と目線が合う。助けて、と必死に懇願しているように、僕の目にはそう映った。

「君、誰? もしかして彼氏くん?」

連中の一人が僕に誰何する。

「ぼ、僕は、その……」

三人の連中がこちらに歩を進めてくる。無意識のうちに、後ずさりしてしまう。連中は威圧的な態度で、僕の目前に立ち塞がった。

「関係ないならさ、突っ込まないでくれる?」

「いや、関係ないわけじゃ……」

「じゃあ、君、彼女の何なの?」

「そ、それは……」

つい口ごもる。僕は綾子にとっての何なんなんだ。兄とは言ってもあくまで義理だ。血の繋がりなんてない。助ける義理も、ないような気がしてくる。恐怖が、過去の記憶とリンクする。あれは、僕たちがまだ幼かった頃ーー


両親は冷たかった。父親は、気に入らないことがあればすぐに暴力を振るうような無頼漢だった。母親は僕たちに見向きもせず、毎夜別の男と寝るような尻軽女だった。幼い頃の不適切な養育環境が原因で、綾子は声が出せなくなった。毎日のように振るわれる暴力。次第に綾子は抵抗をやめ、すべてを受容するようになった。そんな折、両親が交通事故に巻き込まれ、僕たちは二人だけの生活を勝ち得たのだった。それでも、綾子は声を失ったままだった。理不尽だと思った。無辜で善良なる綾子が、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。二度と綾子を不幸にはさせない。そう当時の僕は決意した。


今になって思い出す。どうして僕は、綾子を邪険にしていたんだ。綾子はたった一人の仲間で、妹で、大切な家族だったんだ。今にも綾子は男子トイレに連れ去られそうになっている。

「待てよ!」

自分でも驚くような声量で、連中を呼び止める。

「綾子は俺の妹だ! 手を離せ!」

僕は綾子を連れ去ろうとしていた男に向かって、全速力の突進を食らわせた。男は勢い余って床に倒れ伏す。

「あ? やんのかコラ」

指をポキポキと鳴らしながら、残った二人の男が向かってくる。

「僕の後ろに回れ!」

僕は綾子を背後に隠すと、男たちの前に立ちはだかった。

「オラッ!」

男のうち一人が、僕の頭部めがけて俊速の横フックを繰り出した。がつんとクリーンヒット。ズキズキと側頭部が悲鳴を上げる。だが、綾子のことを思えば耐えられる。父親から受けた暴力に比べれば、こんなものかすり傷同然だ。

「へっ、効かねえよ!」

お返しに、真正面から拳に力を込めたボディーブローを叩き込んでやる。男は弱々しくうずくまり、腹部を強く押さえた。

「この野郎!」

二人の男が左右から挟み込むように、強烈なフックを放つ。二度と同じ手は食らわない。僕は屈み込んで避けつつ、下肢を弾機のようにして、下方からアッパーを叩き込んだ。男二人はよろめくようにして、ふらふらと後ずさる。

「へへ、捉えたぜ」

背後から声がする。視線をやると、綾子が羽交い締めにされていた。

「抵抗すればどうなるか、わかってるよな」

「ちっ、卑怯な真似を」

「俺たちを怒らせたらどうなるか、教えてやるよ!」

腹部に拳がめり込む。肺腑が圧迫され、息が強制的に吐き出される。

「うっ」

「まだまだ!」

空を切る右ストレート。顔面を抉り取るように突き抜けた。鼻から鮮血が流れてくる。

「こんなもんじゃねえよ!」

膂力のこもった右フックと左フックが、幾度となく繰り返される。顎、耳、側頭部。あらゆる器官を強烈に乱打され、膝が笑って砕けた。

「はあはあ……」

男は殴り疲れたのか、ぜえぜえと肩で息をしている。

「……ははっ、そんなもんかよ」

俺は不死鳥のように立ち上がり、挑発してみせる。

「さあ、もっと殴ってみろよ! 全然痛くも痒くもねえんだよ!」

「この野郎! 舐めやがって!」

一人の男が肩をいからせ、殴りかかろうとしたとき、もう一人の男が止めに入った。

「おい、もうやめとけ」

気がつくと周囲はギャラリーに囲まれ、喧々諤々の様相を呈していた。人々は皆一様にスマホを掲げ、我先にと写真を撮りあっている。

「どうした? もう終わりかよ」

「ちっ、こいつ、バケモンかよ」

男は俺に向けて唾棄すると、踵を返してその場を去っていった。しばらくすると、救急隊のような人が現れ、俺は担架に乗せられた。そこで、俺の意識は完全に途切れることとなった。

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