緘黙少女は伝えたい

夜凪 叶

第1話

ゆさゆさ。体が左右に揺さぶられる。重い瞼を擦りながら、僕、荻野祐介は上半身を起こす。

「おはよう、綾子」

綾子はおとがいを引っ込めて、こくんと頷く。綾子が無言で僕の手を引っ張る。

「朝食だね」

綾子は真顔で頭を上下させる。僕はもそもそと体を起こし、鷹揚とした動きでベッドから降りた。


僕は寝室を抜けて、居間に向かう。背柱の高い椅子を手前に引き、食卓につく。そうして、二人きりの食事を摂った。僕たちが二人きりなのには理由がある。僕たちの両親は既に他界していた。タンクローリーの横転事故に巻き込まれ、一瞬だったらしい。最後に見たのは、集中治療室での無惨な姿だった。だから、綾子は僕にとって唯一の肉親だ。それは、綾子にとっても同じ。そのことを僕は些か疎ましく思っていた。

食後、僕が手持ち無沙汰にしていると、綾子はノートと鉛筆を取り出し、何かを綴り出した。つらつらと文字を書き連ねている。しばらくして書き終えると、僕の眼前に差し出してきた。

『今日、一緒に出かけない?』

こんなことを綾子が言い出したのは初めてだった。僕はどこか訝しげに問いかける。

「綾子、どこか行きたいところでもあるのか?」

綾子はぶんぶんとかぶりを振ると、再びノートに綴り出した。綾子と話すときはいつもそうだ。綾子は声を上げることなく、すべてをノートに書き記す。両親が存命していたときから、そうだった。

『祐介と出かけたい』

「え、俺と?」

綾子はつむじが見えるぐらいに、頭を何度も上下させる。俺は首を捻って、唸るように勘案する。正直、綾子のことは鬱陶しいとさえ考えている。だが、それをおくびにも出さないのが兄の務めだとも思う。

「わかった、行こう」

綾子の表情がぱっと明るくなる。綾子は、まるで宝くじ一等が当選したかのような、純然たる笑みを浮かべていた。内心、嘆息を漏らす。綾子には気取られないように。綾子はるんるん気分で、鉛筆を持つ手を動かす。開かれたページには、驚愕の事実が記されていた。

『祐介とのデート楽しみ』

「で、デート!?」

これは、デートになるのだろうか。僕は内心焦りを感じながら、出立の準備を始めた。綾子は妹とはいえ、血縁関係にあるわけではない。いわゆる義理の妹だ。だから時折、異性として意識してしまう時分がある。義理の妹である綾子とのデート。得体の知れない不安が、胸中に去来していた。


自宅を出立し、歓楽街に繰り出す。夏真っ盛りの都会には熱気がこもり、陽光が街一面を燦然と照らしていた。しばらく喧騒に満ちた盛り場を回っていると、背後から綾子が裾を引っ張ってきた。

振り向くと、綾子は映画館を指差していた。

「映画、観たいのか?」

そう問いかけると、綾子はおずおずと頷く様子を見せた。

「わかった、じゃあ行こう」

僕は綾子の手を引っ張って、映画館の中に入った。

「どれが観たい?」

チケット販売機の前で、綾子に呼びかける。綾子が無言で指差したのは、今話題のB級映画だった。

「テレビでやってたもんな」

こくこくと頷く綾子。チケットを二枚分購入して、上映室の席に腰を落ち着ける。目の前に広大な銀幕が広がっている。しばらくして、上映が始まった。幕末の侍が現代にタイムスリップする映画だった。コメディタッチな作風と、B級の割には凝った演出に情感が動かされる。エンドロールが流れる間、しばらく放心状態になっていた。上映が終わり、映画館を後にする。

「面白かったな」

肯定するように頷く綾子。綾子は鞄からノートと鉛筆を取り出し、するすると鉛筆を滑らせる。

『自由に回っていい?』

「ああ、いいよ」

その後は、映画館に併設されたショッピングモールを適当にぶらついた。綾子はショーウィンドウに飾られたマネキンにご執心のようだ。マネキンはフリルのついた華美なドレスを着ていた。

「これが欲しいのか?」

綾子は目をキラキラと輝かせて、マネキンに魅入っている。

「買ってやるよ」

綾子は忽然とした表情で、こちらを見つめてきた。

「すいませーん、これ買いたいんですけど」

僕は手近な店員を呼び出すと、代金を支払い、豪奢なドレスを買ってやった。亡くなった両親は、ささやかながら遺産を残してくれた。だから僕たちは、爪に火を灯すような生活に身を落とさず、庶民の充実した暮らしを実現できているわけだ。

ブティックを出て、あてもなく彷徨うようにそこここを歩き回る。心なしか、綾子は満足げな表情を浮かべ、悦楽に浸っているようだった。


しばらく回っていると、ショッピングセンターの天窓から夕陽が差し込んできた。

「そろそろ帰るぞー」

綾子は頑なにその場を動かない。

「どうした、もう帰るぞ?」

ふと綾子を見やると、両手で鼠蹊部を押さえ、ぷるぷると全身を震わせていた。大腿部を擦り合わせ、もじもじとのたくっている。

「ああ、トイレか」

綾子は涙目でこくこくと頷く。

「行ってこい、ここで待ってるから」

僕が言い終わるや否や、綾子は脇目も振らず、トイレに向けて一直線に走り出す。僕は嘆息を漏らしつつ、身近にあるベンチに腰を下ろした。

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