過去と今をつなぐ歌~Twinkle Memories~

君山洋太朗

過去と今をつなぐ歌

十月初旬の土曜日、スーパーの青果コーナーで、高橋優香は季節の変わり目を感じていた。夕食の献立に悩みながら商品を手に取ると、背後から声がかかった。


「優香さん、これ見て!」


パート仲間の彩乃がスマホを掲げていた。画面には若者たちのダンス動画が流れている。耳に飛び込んできたのは、忘れたはずの、忘れようとしていたメロディだった。


「Twinkle Memories」—十八年前、「星野ゆうか」として歌ったデビュー曲。


「この曲、TikTokで流行ってるんだって。なんか懐かしい感じがして、わたし好きかも」


彩乃の声が遠のく。優香の視界に映るのは、画面の中の若者たちとコメント欄。「平成の埋もれた名曲」「歌ってた子、今何してるの?」という文字。


「…どうしたの? 顔色悪いよ?」


「あ、ううん。なんでもない。ちょっと寒気がしただけ」


優香は無理に笑顔を作った。三十六歳になった今、誰が彼女を「星野ゆうか」と結びつけるだろう。それなのに、なぜ心臓がこんなにも早く鼓動しているのか。


* * *


帰宅後、夕食の支度をしながら、優香は頭から離れない旋律に悩まされていた。


「もう昔の話なのに」


十八年前、高校を卒業したばかりの彼女は、東京の芸能事務所のオーディションに合格し、「星野ゆうか」としてデビューした。「日本レコード大賞を目指せ」と言われ、希望に胸を膨らませていた。


だが、時代はすでにグループアイドルへと移行していた。ソロアイドルの居場所は急速に狭まっていた。


デビュー曲が思うように売れず、テレビ出演も減り、一年後には事務所の方針転換により、引退を余儀なくされた。夢破れた彼女は故郷に戻り、「星野ゆうか」を捨て、ただの優香としての人生を歩み始めた。


そして、今の生活がある。夫の健吾と娘の美咲。普通の、しかし愛に満ちた家族。


「ママ、宿題終わったよ」


リビングから美咲の声が聞こえ、優香は我に返った。


「よくできたわね。もうすぐご飯だからね」


夕食時、家族の会話に混じりながらも、優香の心は別の場所にあった。健吾にも美咲にも、かつて「星野ゆうか」だったことは告げていない。結婚前、健吾に打ち明けようとしたこともあったが、「そんな過去はもう関係ない」と自分に言い聞かせ、なかったことにした。


しかし今、その過去が彼女を追いかけてきている。


* * *


「ママ、見て! テレビで昔のアイドルが歌ってる!」


それから五日後の夕方、美咲の声に優香は凍りついた。テレビでは「令和に蘇る平成の名曲特集」と題し、彼女のデビュー曲が流れていた。


「このアイドルソング、実は隠れた名曲として再評価されているんです。歌っていたのは、星野ゆうかさん。デビューから一年で引退されましたが、この曲は時代を超えて若者に支持されています」


MCの言葉に、優香は息をするのも忘れた。「夕食の準備してくるわね」と言いながら、慌てて台所に逃げた。壁に背を預け、震える両手で顔を覆う。


「どうなってるの、これ…」


かつての自分が映る映像。初々しい笑顔で歌う十八歳の星野ゆうか。今の自分とはあまりにも違う。だが、鏡に映る顔には、確かに面影を感じる。


翌朝、スマホを開くと通知が数件。ネットニュースに「元アイドル・星野ゆうかは今どこに?」という記事が出ていた。優香は震える指でスマホを閉じた。「家族にバレるかもしれない」—その恐怖が、体の芯まで浸透していく。


* * *


休日の朝、美咲が朝食テーブルに着いた。健吾がつけたテレビから流れ出した「Twinkle Memories」に、優香は一瞬にして血の気が引いた。画面に映る若い頃の自分。健吾がテレビに目を向ける。優香は凍り付く。


画面の中の「星野ゆうか」と、目の前の「高橋優香」。健吾は気づくだろうか。


健吾が口を開いた。


「へえ、こんな曲あったんだな」


特に疑問を抱いていない様子に、優香は安堵しつつも苦い気持ちになった。それほどまでに、現在の自分と過去の自分は乖離しているのだ。


夫に、娘に、過去を打ち明けるべきか。それとも、このまま隠し通すべきか。


キッチンに立ち、優香は窓の外に広がる平凡な住宅街を見つめた。十八年前、夢を諦めて帰ってきたこの町。その選択は間違っていなかった。彼女は自分に言い聞かせる。


しかし心の奥底では、あの日の輝きを、あの日の自分を、ほんの少しだけ恋しく思う気持ちがあることも、否定できなかった。


* * *


数日後、夕食の準備をしていると、スマホが鳴った。知らない番号だった。迷いながら出ると、懐かしい声が飛び込んできた。


「優香、久しぶりだな。杉本だ」


かつての担当プロデューサー・杉本だった。十八年前、彼女にデビューの機会を与え、そして「もう売れない」と告げた人物。


「杉本さん…どうして」


「ニュース、見たか? 今、すごいことになってるぞ」


杉本の声は、かつての頃より少し低くなったが、変わらぬ熱量を感じた。


「お前の歌が時代を超えて評価されてる。今なら再デビューの道もある」


「今さら、私なんて……」


言葉につまる優香に、杉本は畳みかけた。


「本当にもう歌に未練はないのか?」


* * *


通話を終えた後、優香はリビングのソファに腰を下ろした。再デビュー。その言葉が頭の中をぐるぐると回る。


「ただいま~」


健吾の声に我に返る。夫は優香の顔を見て眉をひそめた。


「どうしたんだ? 何かあったのか?」


「...ううん、なんでもない」


嘘をつく自分が許せなかった。健吾と出会い、結婚し、美咲が生まれた。そこに「星野ゆうか」の居場所はないと決めたはずだった。けれど、本当にそうだろうか。


夜、家族が寝静まった後、優香はクローゼットの奥から小さな箱を取り出した。中には十八歳の自分のCDと、デビュー当時の雑誌の切り抜き。「星野ゆうか」という存在の証だった。


ジャケットの自分は、まだ何も知らない。成功への希望に満ちていた。あの頃の自分に、今の人生を伝えることができるなら、どう思うだろう。幸せだと思うのだろうか、それとも…。


優香の心は揺れていた。普通の主婦として生きてきた今、再び歌うことに意味はあるのか? そして何より、家族にどう伝えればいいのか?


鏡に映る顔を見つめながら、優香は口を開いた。


「星の…煌めき…」


かすれた声で歌い始める。十八年前のメロディが、少しずつ体に戻ってくる。


再デビュー。その言葉は、彼女の中で眠っていた何かを揺り起こしていた。途絶えた夢。捨てたはずの自分。


家族を失うことへの恐怖と、もう一度舞台に立ちたいという欲望。相反する感情が胸の中でぶつかり合う。


* * *


次の日、優香はこっそりカラオケボックスに足を運んだ。案内された個室に滑り込みドアを閉めた瞬間、それまで張り詰めていた空気が一気に抜けた。


リモコンを手に取り、検索窓に「Twinkle Memories」と入力する。曲が始まるまでの数秒間、心臓の鼓動が耳に響いた。


マイクを握る手に、わずかな震えていた。イントロが流れ始め、十八年前の記憶が鮮明によみがえる。ステージに立つ緊張感。ファンの歓声。そして最後のコンサート。すべてが昨日のことのように感じられた。


声を出すまでに、優香は一瞬躊躇した。しかし、メロディが彼女を導くように、言葉が自然と紡ぎ出される。


かつてのアイドル時代とは違う声だった。張りのある少女の歌声ではなく、母として生きてきた年月が滲む、大人の歌声。しかし、曲を重ねるごとに、眠っていた何かが目覚めていくのを感じた。


「……まだ歌えるんだ、私」


歌い終えた後、モニターに映る自分の姿を見て、優香は静かに微笑んだ。そこには、「星野ゆうか」の面影が確かにあった。


* * *


帰宅後、健吾に打ち明けるべきか迷った。夕食を準備しながら、何度も話し始めようとして、言葉を飲み込む。


(どう説明すればいいの? 十八年も黙っていたことを)


健吾はテレビを見ながら、時折優香の方を見ていた。「何か言いたいことがあるなら、聞くよ」と言いたげな眼差し。それに気づきながらも、優香は結局何も言えずに過ごした。


その夜、家族が寝静まった後、優香はパソコンを開いた。好奇心から、「星野ゆうか」の名前を検索してみる。すると、思いがけない投稿が目に飛び込んできた。


ネットの掲示板で「星野ゆうかの現在」が盛んに議論されていた。当時の同級生から「星野優香」の名前が浮上し、地方在住の可能性があるという書き込みまで出回っていた。


画面を食い入るように見つめる優香の頭に、次々と思いが浮かんだ。


(見つかってしまえば、美咲の学校生活にも影響が出るかもしれない)


(健吾の会社での評判は?)


優香は静かにパソコンを閉じ、リビングのソファに腰掛けた。部屋の隅には、家族三人の笑顔の写真が飾られている。


「この平穏な日常を、自分の手で壊してもいいのだろうか」


しかし同時に、「いつかバレてしまう」という確信も強まっていた。


* * *


次の日の夕食時、優香は異常なほど静かだった。健吾が心配そうに声をかける。


「どうしたんだ? 最近元気がないけど」


美咲が宿題を終え、自分の部屋に引っ込んだ後、優香はついに決心した。リビングのテーブルに向かい合って座る健吾に、彼女はそっと告げた。


「あなたに話さなければいけないことがあるの」


優香はすべてを打ち明けた。十八歳でデビューしたこと。わずか一年で撃沈したこと。そして、その挫折からどうしても立ち直れず、過去を封印したまま、彼と出会い、結婚したこと。杉本からの連絡。カラオケでの出来事。そしてネット上での騒動。


驚きつつも、健吾は冷静に話を聞いた。「だから、いつも歌が上手だったんだな」と、意外なことを言って微笑む。そして、「どうしたいの?」と優しく問いかけた。


その質問に、優香は答えられなかった。本当は自分でも分からなかったからだ。再び歌いたいという欲望と、家族との穏やかな生活を守りたいという願い。二つの気持ちの間で揺れていた。


* * *


その夜、優香は娘の部屋を覗いた。美咲はスマホで何かを見ながら、イヤホンをつけて小さく体を揺らしていた。彼女が近づくと、美咲は嬉しそうに画面を見せてくれた。


「ママ、見て! この歌、すごくいいんだよ。『Twinkle Memories』!」


画面には、若き日の優香が映っていた。白いドレスに身を包み、キラキラとしたステージで歌う姿。美咲はイヤホンを外して言った。


「この人、なんだかママに似てるね!」と無邪気に笑う。


目の前の娘は、何も知らずに「過去の母親」を応援していた。そのあまりの皮肉に、笑いそうになる。同時に、温かいものが胸に広がった。


「そう? 似てるかな」


そう答えながら、優香は決断した。隠し続けることは、もはや不可能だ。そして何より、もう隠す必要はないのかもしれない。健吾は受け入れてくれた。美咲だって、きっと。


翌朝、優香は杉本に電話した。震える声で告げる。


「再デビューのことを、考えてみたいと思います」


電話を切った後、窓の外に広がる空を見上げた。雲の隙間から見える青空が、まるで新しい扉のように感じられた。


「星野ゆうか」として生きること。「高橋優香」として生きること。それは別々の人生ではなく、一人の女性の人生の異なる側面なのだと、彼女はようやく理解した。


優香の瞳に、朝日が反射して煌めいた。かつてのステージのスポットライトのように。


* * *


その日、YouTubeに一本の動画が投稿された。「星野ゆうか」名義による「Twinkle Memories」のセルフカバー。画面上の画像はアイドル時代の星野ゆうかだが、流れる歌声は十八年の時を経た深みを湛えていた。


優香は公開ボタンを押した後、しばらくパソコンの前に座り続けた。三十分、一時間と時が過ぎ、コメントが少しずつ増えていくのを見て、彼女の胸は締め付けられるような思いに満たされた。


「この歌声、昔よりも優しくて、でも心に響く」


「今だからこそ聴ける味わいがある」


見知らぬ誰かの言葉が、彼女の内側で眠っていた何かを少しずつ解き放っていった。


「こんなに覚えていてくれる人がいるなんて」


優香は画面を見つめながら、目に涙が浮かぶのを感じた。十八年前、彼女が「消えた」とき、自分の存在はすぐに忘れ去られると思っていた。だからこそ、過去を封印し、ただの優香として生きてきたのだ。しかし、そのコメントの一つ一つが、彼女の選択が間違っていなかったことを教えてくれているようだった。


翌日、杉本から電話がかかってきた。


「見たよ、すごくよかった」


「反響も上々だ。音楽番組に出演しないか?」


その誘いに、優香は一瞬だけ心が揺れた。スポットライトの下、大勢の観客の前で歌う自分の姿が脳裏に浮かんだ。けれど、それはもう彼女のものではない景色だった。


「ううん、もうステージには立たない」


彼女は微笑みながら答えた。


「でも、歌うことは続けたい」


* * *


それから、優香は時々YouTubeにセルフカバーを投稿するようになった。かつての「星野ゆうか」の声に頼るのではなく、今の「高橋優香」としての声で歌った。


「実は、君が歌っているとき、一番生き生きしているように見えるんだ」


ある日、健吾はそう告げた。優香は夫の言葉に胸が熱くなるのを感じた。


視聴者からのコメントも増えた。年齢層は様々で、かつてのファンだけでなく、若い世代も彼女の歌に共感を示してくれた。時には「昔の星野ゆうかが好きだった」という年配のファンからメッセージが届くこともあり、彼女は丁寧に返信を心がけた。


美咲には徐々に真実を伝えていった。彼女は最初、信じられないという表情を浮かべたが、すぐに興奮して母の話に耳を傾けた。「ママってアイドルだったの? すごい!」と目を輝かせる娘の姿に、優香は安堵の息をついた。


ある晩、美咲がリビングにやってきて、優香の肩に頭を乗せながら言った。


「ママの歌、大好き! もっと歌って!」


娘の言葉に、優香は静かに微笑んだ。かつての夢を追いかけていた十代の自分が、今の光景を見たらどう思うだろう。一瞬のスターダムを経て、結婚、出産、そして再び歌へと還ってきた彼女の人生。


「わたしがアイドルだった頃、そして今——歌は、ずっとわたしの一部だったんだ」


その晩、優香は久しぶりに夢を見た。ステージに立つ夢ではなく、小さな部屋で歌う夢。そこには健吾と美咲がいて、彼女の歌に耳を傾けている。その光景は、スポットライトの下で大勢に囲まれていた頃よりも、ずっと温かく、ずっと確かなものに思えた。


明け方、目を覚ました優香は、胸に満ちる静かな充足感を感じていた。これが彼女の選んだ道。アイドルとしての「星野ゆうか」と、一人の女性・母親としての「高橋優香」。それらは対立するものではなく、彼女という一人の人間を形作る大切な要素なのだと、今なら理解できた。


窓から差し込む朝日が、部屋を優しく照らしていた。新しい一日の始まり。彼女は静かに、今日も歌おうと思った。

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