第32話 働くという意味

 夕日が照らす教室、桐生仁はひとりノートパソコンに向き合っていた。

 相変わらず話しかけづらいと瑠美菜は思うものの、何とか口を開く。


「桐生くん」

「成海か。どうした」

「桐生くんのおかげで、お母さん手術受けられることになったんだ。海外のお医者さんが来てくれるって」

「そうか。それは良かったな」

「なんか、冷たくない?」

「人気アイドル様と話してると目立つんでな」

「もうっ、からかわないでよ!」

「本当に、よかったな」

「うん!」


 瑠美菜は満面の笑みを見せる。


「だが、これからだぞ。アイドルになったのはスタートに過ぎない。これからが踏ん張りどころだ。ドジっ子」

「もうっ! わかってるよ」


 瑠美菜は頬を膨らませる。

 

 これでようやく、一仕事終えた。


「本当に、よくやった」


 仁は瑠美菜に微笑む。


「胡桃の前以外で初めて笑うところ見た」

「たまのサービスだ。これからもせいぜい、俺の金になるため頑張ってくれ」

「嫌な感じ~」


 他愛のない話をして、瑠美菜は急ぎ足で帰る。

 この後も、アイドルとしての仕事があるのだろう。

 仁はほっとため息を吐いた。





仁は母が入院している病院にやってきた。病室の前の表札には『桐生氷花』という母の名前が書かれてある。ノックをして、中に入る。


 病室にはクーラーの音が響き渡る。


「母さん、調子はどう?」

「まあまあよ」


 母は以前と同じ返事を仁に返す。


「そっか」


 仁は微笑みを母に向ける。


「仁?」


 母は仁を不思議そうに見つめる。


「なに?」

「前より、少し柔らかくなった気がするわ」

「柔らかく?」


 仁は意味が分からず、聞き返す。


「うん。雰囲気がね。何か良いことでもあったの?」


 ああ、と仁は懐かしむように声を出す。


「ちょっとね。最近、仕事が上手くいってね」

「例のアイドルを目指している女の子?」

「うん」


 瑠美菜を無事にアイドルにすることができた。胡桃と一緒にルミナスというユニットで今も絶賛活躍中だ。


 それも、瑠美菜の夢を叶える手伝いができたから。本当の意味でのPBとしての仕事を全うできたから。そのことに仁はいつもの仕事以上に喜びを感じていた。


「そう。それは良かったわ」


 母は自分のことのように安心し、胸を撫でおろす。


「まだまだ駆け出しだから、どうなるかわからないけどね」


 仁は苦笑いを返す。


「きっと大丈夫よ。なんたって仁が付いているんだから」

「それは頼りがいがあるね」

「ふふっ」


 母が笑う。


 母が笑うのは久しぶりに見た。いつもの母は目の光を失い、遠くを眺めるように焦点が合っていない。少し光が戻った瞬間だった。


「きっと、仁の優しさでその子は救われたのよ」

「どうだろう」

「絶対にそうだわ」


 母は言い切る。


「仁は本当に優しい子だもの。それはお母さんが一番よく知ってるわ。いつも近くで見てきたもの。私が調子を崩したときも、毎日、お母さんの心配をして、家事もしてくれたよね」

「当然のことだよ」

「いいえ、それは誰にでもできることじゃないわ。仁はお母さんにだけじゃない。根っこから優しい子なのよ。だから、きっと、これからも仁の優しさで多くの人を救えるわ」

「そうだといいけど」


 瑠美菜の件で自分は少しまたバンカーとして成長できたと思う。それでも、自分が優しい人間だということは理解できなかった。


 母はどうしていつも、自分を優しい人間だというのだろう。


 仁はわからなかった。


 俺はいつも、金のために動いているだけだ。


「ねえ、仁」

「なに?」

「働くってなんだと思う?」


 母は唐突に仁に問う。


「うーん、人が動き、利益を生み出すことかな」


 仁は『働』という漢字を思い浮かべながら母に答える。


「ふふっ、仁らしいわね」

「そうだね。俺はそういう人間だから」


 利益を生むために動く。そのために人が動く。それは当たり前のことで、世の中での常識だ。この答えに誰もが反対しないだろう。少なくとも、仁には一切その答えに迷いがなかった。


「私はね、少し違うと思うの」

「そうなの?」


 母は自分の手を見て、少し寂し気な表情をする。


 昔を思い出し、憂いているのだろう。きっと、母は昔、仁と同じ思考を持って働いていた。でもそれが、今では少し違うと思っている。後悔と罪悪感が織り交ざった感情が母の頭の中を渦巻く。


「働くっていうのは、人を動かすってことだと思うの」

「まあ、そうかもね。特にバンカーは他人を動かし、それで利益を生む。たしかに母さんの言う通りかもしれない」


 そういう考えもあるのかと仁は感心する。仁は普段、あまり人の話を聞かないので、他の人間の考えを理解しようとしない。でも、母の言葉はいつも真摯に受け止めていた。それも、何も疑わず、ただ純粋に受け止めていた。


 母は微笑み、仁を見やる。


「そうね。でも、少し違うわ。違う考え方もあると思うの」

「違う考え方?」


 仁は首を傾げる。


「うん。働くっていうのは、人のために動き、人の心を動かす。そういう意味もあるんじゃないかしら」

「人の心を動かす……」


 仁はいまいち、要領を得なかった。先ほどの考えとどう違うのかわからない。


「仕事は、利益を生み出すことじゃない。人の心を良い方向に動かし、それで成り立つものだとお母さんは思うの。だから、仁。あなたはきっと、その優しさでお友だちの心を良い方向に動かし、勇気を、希望を与えて夢を叶えさせてあげたんじゃないかしら」

「そんな大層なことはしてないよ」


 事実、自分はそこまでできる人間じゃないと思っている。他人を利用することはあっても、他人を勇気づけることなんてできない。


「だからね、働くっていうのは、人に優しくすることだと思うの」

「優しく、か」


 理想論はそうかもしれない。でも、現実はそうもいかない。誰かのために働いていると実感している人間はどれだけいるだろうか。生活のためにただ働いているという人間が大多数だと思う。それが当たり前で、誰かのために働いている実感を持つ人間はそういないのではないだろうか。


「仁、あなたは誰よりも優しい。だから今、立派に働けているのよ。自分では実感がないだろうけど、周りの人はちゃんとそれをわかってくれるわ。人に優しくするって、ただ人に良い格好をすることじゃない。時には厳しくしなければならない。自分の気持ちを我慢しなければならない。ただ単純に事務作業をしているだけだと思うかもしれない。でも、どんな仕事でも、人に優しくしているってことなのよ」

「…………」


 母らしい考え方だ。


 今まで厳しい仕事を乗り越えてきても、そう思える母を仁は心から尊敬した。

 いや、厳しい環境にいたからこそ、改めてそう思う、思いたいという願いがあるのかもしれない。


「仁、こっちにおいで」


 母が仁に手招きをし、仁は母のもとに近づく。


「仁、よく頑張ったね」


 母が仁の頭を撫でる。

 とても落ち着く。手のひらの温かさを感じる。その温もりは仁の心に安らぎを与える。


「恥ずかしいよ」


 仁は頬を染め、離れる。

 母は少し寂しそうに、しかし、すぐに微笑む。


「これからもきっと、あなたには色々な困難が待ち受けていると思うわ。でもね、お母さんが今言ったことを忘れないでほしいの」

「働くことは、人に優しくするってこと?」

「ええ」

「俺に、できるかな」

「仁にはもう充分できていることよ。それを、これからも忘れないでね。お母さんのように、それを忘れたら、きっと、後悔するから。仁には同じ過ちをしてほしくないな」

「……わかった」

「仁ならきっと大丈夫。今回の仕事もそうだわ。仁はその子に優しくできた。だから、仁は成長し、より優しくなれた。だから、雰囲気も少し柔らかくなったんじゃないかしら」

「そうかな」


 仁は苦笑いを返す。


「お父さんも、そんな仁のことをきっと認めてくれるわ」


 母は嬉しそうに言う。


「親父に認めてもらっても嬉しくないよ」

「ふふっ」


 母はなぜか微笑む。

 母には仁の気持ちが、無意識の部分までわかっていた。


 本当は、父に認めてもらいたいこと。父への反抗心はそういうところから来ているということを。

 反抗期というものかしらと母は仁の成長に喜びを覚える。


「それじゃあ、仁。これからも学校と仕事頑張ってね。それと、たまにはお母さんに会いに来てくれると嬉しいな」

「うん。会いにくるよ」


 仁は心が温かい気持ちと、母と別れなければならないという寂しい気持ちで病室を後にした。


 そうして仁は髪を上げ、仕事モードに変わった。


 今でも、母が言っていた働くという意味が、仁にははっきりと理解できなかった。でも、瑠美菜の件を経て、自分が達成感を抱いているのは、母が言った通りだからかもしれない。


 なんでも、お見通しなんだなと、仁はひとりで微笑む。


 仕事に戻るため、仁はスマホで仕事の内容を確認する。すると、一件のメールが届いていた。


 それは、頭取。父からのメッセージだった。

 内容は簡潔だった。


『よくやった』


 ただそれだけだった。

 父も、瑠美菜の件については知っていた。

 それを解決したことも知っていた。

 それで、このメールをよこしたのだ。

 仁はそのメッセージを読み、返信することなくメールを閉じた。


「ふっ」


 仁は大きく歩みを進め、病院を後にした。


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