あこがれの先輩

いとうみこと

あなたには渡さない

「先輩、数学得意でしたよね? ここが分からなくて⋯⋯教えてもらえませんか?」

 将棋盤から顔を上げるなり柔らかな笑みを浮かべて、彰人先輩は私からノートを受け取った。ざわめく廊下のギャラリーに、私は悠然と視線を送る。

「悔しかったら入っていらっしゃいよ」

 彼女たちの歯軋りがここまで届きそうだ。

 

 ここは囲碁将棋クラブ。活動が行われている三年二組はガチ勢の男子生徒で溢れていて、女子は私と遥香先輩しかいない。彰人先輩が入部する際に、当時の部長が入会試験を導入したらしい。お陰で極端に女子が少ないクラブとなったが、その分落ち着いて活動ができると皆納得しているようだ。

 彰人先輩は私に三角比の難問を教えながら同時に将棋で三人の相手をしている。頭脳明晰、容姿端麗、穏やかな性格でしかも大病院の息子となれば放っておかれるはずがない。遥香先輩もご多分にもれず密かに彰人先輩を慕っていると知って、私は遥香先輩にふたりの仲を取り持ちたいと申し出た。


「まず、私が彰人先輩に取り入るふりをして、先輩にまとわりついている連中の標的になります」

「そんなことしたら菜摘ちゃんに迷惑がかかるじゃない」

「大好きな先輩のためですからどうってことないですよ。ついでにもうすぐ彰人先輩の誕生日ですから欲しいものをそれとなく訊いてみますね。それを機に仲良くなる作戦でいきましょう」

「ありがとう、菜摘ちゃん。恩に着るわ」

 遥香先輩はとびきりの笑顔を浮かべた。


 彰人先輩は、私のことを自分に色目を使わない珍しい女子と認識している。しかも勉強熱心で、かなりの難問を問うてくるある意味趣味の合う相手だと。だからこう訊いてみた。

「彰人先輩、これとこれがどうしても解けなくて。出来ればもっと集中できるところで教えてもらえませんか。先輩だけが頼りなんです」

「あー、これは厄介なやつだな。でも、図書室もカフェも無理なんだ」

「取り巻きですか。私は教えてもらえるならどこでもいいですけど」


 次の日曜日、私は目論見通りに彰人先輩の部屋に入れてもらった。大きな本棚と三人は座れそうな机の他に広々としたベッドがあり、座り心地の良さそうなカウチソファとローテーブル、隅にはミニキッチンや冷蔵庫まであって、今すぐここでひとり暮らしができそうなくらい立派な部屋だった。

「素敵なお部屋ですね」

「そう?」

「はい。でも、見とれてる時間がもったいないです。勉強教えてください!」

 先輩は多くの女子たちをときめかせる甘いマスクを崩してクスリと笑うと、ふたつ並んだ椅子のひとつに腰掛けた。私がコートを脱いでその隣に座ると、先輩が小さく息を飲むのが聞こえた。すかさず笑顔で話しかける。

「よろしくお願いします」

 先輩が目を逸らすのを確認してから、私は持ってきた勉強道具を広げた。今日は地味な制服姿の私とは随分印象が違うはずだ。襟ぐりの開いた薄手のニットワンピは女の子らしい体の線を浮き上がらせているし、髪は巻いてからポニーテールにした。気付かぬ程度のメイクと控え目な甘い香りも纏っている。大抵の男子なら心が揺れる出来栄えのはずだ。私はどこまでもさりげなく体を寄せ、上目遣いで横顔を覗き込んだ。


 その後も何度か会ううちに、私は彼が文房具好きだと気づき、遥香先輩にそのことを伝えた。もちろん家に行っていることは内緒だ。

「特にノートとボールペンが好きみたいですよ」

「ああ、確かに変わったノートを使っているのを見たことあるわ。ありがとう、ちょっと探してみる」

「もう来週ですよね。ギリギリになっちゃってごめんなさい」

「とんでもない。菜摘ちゃんには感謝してる。これで何とかきっかけを作ってみるわね」

「頑張ってください!」

「うん!」


 その土曜日、私はいつものように彰人先輩の部屋にいた。今日は最後の仕上げをしなければいけない。私は慎重にタイミングを計って、彰人先輩の目の前で転びそうなふりをした。咄嗟に手を伸ばし、私の体を支える彰人先輩。目が合って見つめあったその時、彰人先輩の手に力がこもって、私は彼の腕の中に収まった。上出来だ。私は少しの間身を委ね、それから慌てたふりをして彼の腕を振りほどいた。

「ごめん、僕⋯⋯」

「あ、あの、私、こういうのは、えっと」

 あくまでも嫌とは言わない。

「きょ、今日は帰ります」

「待って、僕は⋯⋯」

 皆まで言わせず部屋を出ると急いで帰路についた。これで全てが上手くいくはず。


 数日後、遥香先輩が「好きな人がいるから君の気持ちには応えられない」と彰人先輩に言われたと泣いた。

「先輩、役に立てなくてすみません。今日はふたりでカラオケとか行きませんか。大声で歌えばすっきりしますよ」

「そうだね、そうしよっか」

「あんな人のことは忘れてください。先輩には私がいますから」

「うん、うん、ありがと」

 尚も涙ぐむ先輩をそっとこの腕に抱いて私は呟いた。


「彰人先輩、あなたには渡しませんよ」

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あこがれの先輩 いとうみこと @Ito-Mikoto

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