第20話

「お前、なんで医療少年院を出てこられたんだ?」


 出てこられるはずがなかった。出所の許可を出した医師だか院長だかの目は節穴だったのだろうか。


「お兄ちゃんは、わたしがスクールカーストのトップにいつもいたことを忘れたの?」


 もちろん覚えていた。僕たち家族以外には内に秘めた狂気を気付かせないほど、優等生で人気者だった。

 妹が逮捕されたとき、学校関係者も近所の人たちも、マスコミの取材で口を揃えて言った言葉がある。

 そんなことをする子じゃない、何かの間違いであってほしい。

 犯人は別にいるんじゃないかと冤罪を疑う者もいた。

 医療少年院でも学校のようにうまく振る舞ったとでも言いたいのだろうか。


「今お兄ちゃんが考えてることは大体合ってるよ。でもそれだけじゃだめ。大事なのは、ああいうところにも、さっきの女みたいなわたしの信奉者はいるってこと」


 いなかったら作ればいいだけだし増やせばいいだけだと妹は言った。

 なるほど、と思った。院内に協力者を作れば出所しやすくなるということだ。

 自分と同じ年頃の子どもたちをまとめあげることも、大人たちを手玉に取ることも妹にとってはどちらも容易いことなのだ。


「お医者さんも一番偉い人もオジサンだったから簡単だったよ。セックスさせてあげたら泣いて喜んでたし」


 妹が時折お腹をさする仕草をしているのが気になっていた。

 腹でもいたいのかと思っていたが、違う。

 あまり目立たないが、妹の腹は少し膨らんでいるように見えた。

 妹は妊娠しているのだ。

 気づいた?と妹は嬉しそうに笑った。


「どのオジサンの子どもかわからなかったから、オジサンたちみんなにあなたの子どもを外の病院で産みたいって言ったの。みんな奥さんや子どもがいる人たちだったから、別に認知はしてくれなくていいって言ってあげたし、外にはお兄ちゃんがいるから養育費もいらないって言ってあげた。そしたらすぐに出られるように手配してくれたよ」


 お腹の中の子どもには罪はない。だけど、僕は今ここで妹を止めなければいけない。妊娠してくれていたのは丁度良い助け船になった。


「あれ……?」


 妹の体は僕の目の前でふらつき、糸が切れた人形のように倒れた。


「気持ち悪い……頭が痛い……わたし、どうしたんだろ……?つわり……?」


 妹は自分の体に起きている異変が何か気づいていなかった。

 ふらつき、意識の低下、頭痛、吐き気、


「熱中症だよ」


 妹の体に出ている症状すべてが、それを物語っていた。


 大家さんが帰ってくるまでに妹をどうにか無力化する方法なんて、どれだけ考えたところで思いつかなかった。

 僕たち二人の立ち位置に気づいたとき、僕はそれに賭けるしかないと思った。

 たまたまだったが、僕はずっと日陰になる場所にいて、妹は日向にいた。僕たち兄妹の関係性そのものだった。

 ちょうど昼過ぎの気温が一番高くなる時間帯だった。この夏は四十度近くにまで上がる日がざらにあり、この日の予想最高気温は三八度だった。

 仕事柄毎日のように喪服を着るため、僕は天気や気温をいつも気にしていた。


 熱中症のリスクは男性よりも女性のほうが高い。

 女性は男性に比べて水分をためる役目を果たす筋肉が少ないからだ。月経時に出血などで水分を失うと容易に脱水症になるそうだ。以前観たテレビで言っていた。

 妊婦はさらに熱中症になりやすいとも言っていた。妊娠中は体温が高めになる上、母体は胎児を育てるために通常より多くの水分を必要とする。そのため脱水症状がおこりやすくなり、熱中症をひきおこす。


「わたし、死ぬの……?」


「このままここに放っておけばそういうことになるだろうね」


 大家さんが戻ってくる頃には、救急車を呼んでも手遅れになっているだろう。


「助けてくれないの……?」


 今救急車を呼べば助かるかもしれない。救急車が来るまでに応急処置も必要だ。

 妹を助けられるかどうかは、いかに早く体温を下げることができるかにかかっている。涼しい場所へ避難させ、体を冷やし水分補給させれば、妹は助かるだろう。

 だが、僕はそうするつもりはなかった。


「助けたら、お前はまた人を殺すだろ?」


 だから助けない。助けてはいけない。

 事故に見せかけて殺す。

 妹が小学生の頃、邪魔な人間を排除するためにしていたことだ。妹にお似合いの死に方だと思った。


「本当は、お母さんも、お姉ちゃんも、生きてるんだよね? もちろん、お父さんも。行方がわからないとか、全部嘘、なんでしょ?」


 母と姉が心中自殺したというのは、妹の言う通り嘘だった。父もちゃんと生きている。どこにいるかも僕は知っていた。日本国内に居場所を失くした三人は海外に移住していた。


「さあね」


「いじわるだなぁ。わたし、たぶん、もうすぐ死んじゃうのに」


 徐々に死に近づいていく妹に、僕は何一つ真実を教えるつもりはなかった。

 それが僕が妹に与えるこのできる唯一の罰だ。

 本当は僕も三人と一緒に行くことになっていた。けれど、家族の誰かがこの国に残り、妹を待ち続けるべきだと思った僕は、ひとり土壇場で海外行きをやめていた。

 そんなことを話せば、妹は喜んでしまうだろう。だから僕は妹に何一つ真実を話さないことにした。


「ねえ、お兄ちゃん」


「何だ?」


「死ぬのって怖いんだね」


「当たり前だろ」


「世界中のいろんな犯罪者の人たちが、裁判で話したり刑務所で書いた本とかで、死は救済なんだって言ってるのを読んだの。なんとなくそうなのかな、そうなんだろなって思ってたんだけど、死はちっとも救済なんかじゃないんだね」


 ただただ怖いことなんだね、と妹は涙を流しながら言った。

 妹も、加藤さんと何も変わらない女の子だった。歴史に名を残す犯罪者たちの信奉者に過ぎなかったのだ。


「赤ちゃん、産みたかったなぁ」


 悲しそうに言う妹に、


「好きでもない男の子どもなんだろ? そんな子ども、お前は愛せないだろ」


 僕は冷たく返した。たとえお腹の子が好きな男の子どもであっても、妹はたぶん愛せない。愛し方を知らないから。


「でも、わたしが赤ちゃんを産んだら、お兄ちゃんは一緒に育ててくれるでしょ?」


 その問いに僕は答えなかった。

 妹にとって、お腹の子は僕の気を引く道具に過ぎないことがわかったからだ。


 僕は妹とお腹の中にいる子どもが死んでいくのをずっと見ていた。

 呼吸が止まり、心臓が止まるのを確認した後、大家さんが帰ってくるのを待って、救急車を呼んでもらった。



 妹の通夜や葬儀は翌日と翌々日に密葬で行うことになった。

 海外に住む両親や姉、それから僕を引き取ってくれた養父母には、葬儀は僕が喪主として行うことを電話で告げたが、葬儀には来ないように言った。密葬が妹にはふさわしいと思ったのだ。


 僕は喪主であると同時に依頼人になることにした。「嘲ル者」には加藤さんを指名した。

 葬儀を終え遺骨をアパートに持ち帰ると、僕は妹の死をしっかり笑い続けてくれた加藤さんを誘ってタクシーで海に向かった。


 彼女はあの日、僕の住むアパートで起きたことをほとんど覚えていなかった。もう少しで妹に殺されるところだったことや、僕や大家さんに命を救われたことをだ。

 妹の信奉者であることを僕に明かし、神にも等しい存在である妹を超えるために殺そうとしていたことさえ覚えていなかった。


 メイさんのことは本当に残念でした、まさか熱中症で亡くなるなんてと、彼女はその死をあくまで僕の知人として悲しんでいた。

 台風が近づいてきてますよ、海ってもうクラゲが出るんじゃないですか、加藤さんはそんな心配事を口をして、スマホで台風10号の進路予想図を開いて僕に見せてきた。


「別に泳ぎに行くわけじゃないから」


 加藤さんとふたりで海が見たいだけだよ、と僕は言い、隣に座る彼女の手を握った。彼女は手を払いのけたりはしなかった。多少は僕に好意を持ってくれていたのかもしれない。


「それに、台風が近づいてるからいいんじゃないか」


 加藤さんは僕の言葉の意味を図りかねた様子で、変な先輩、と言った。


 台風10号による死亡者や怪我人、行方不明者は、八月三一日現在、六人が死亡、一ニ七人が怪我をし、一人の行方がわからなくなっている。

 加藤さんは、ニ八日の夜、ひとりで海に入り波にさらわれて死亡した。

 そういうことになっている。

 僕が事故に見せかけて彼女を殺したのはわざわざ言うまでもないだろう。


 彼女の死因に溺死を選んだのは、熱中症で倒れ脱水症状を起こして死んだ妹に代わって、彼女にはたらふく水を飲ませてあげたいと思ったからだ。ただし海水だったが。

 妹の死を見届けたとき、僕の中で何かが弾けた。何かの種か、あるいは果実か。卵かサナギか。それが何なのかは僕にはわからない。たぶん知る必要もないのだろう。


 僕はこの日から今の姓を捨て、夏目弘幸として再び生きることにした。

 もちろん、戸籍上は養父母の姓である佐野のままだったが、この日以降佐野姓の名で呼ばれても、それが自分の名だと気付くのが遅れるようになった。

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