第19話

 妹を相手に、加藤さんや大家さんを守りきる自信は僕にはなかった。ふたりを無事逃がせたことでこれで対等とまではいかないまでも、一対一にはなった。

 我ながら情けない話だったが、勝てる可能性は限りなく低かった。


 十年前、高校生だった僕と中学生だった妹の身体能力は、妹の方が僕よりはるかに高かった。

 一五〇センチほどの小さく華奢な体の一体どこにそんな力があるのかと思うほどだった。

 それは今でも変わらないだろう。オリンピック代表の女子選手とスポーツ経験がまるでない男が同じリングに立っているようなものだ。


 おまけに妹は何人もの子どもを使った解剖実験で人体の構造を知り尽くしている。

 腕だろうが脚だろうが首だろうが素手で骨を折ることくらい簡単にできてしまうだろう。

 金的やみぞおちに代表される急所も知り尽くしているはずだった。

 急所は人体にいくらでもある。頭部だけでも、顔面、こめかみ、額、目だけでなく、耳の後ろにある隆起した骨は乳様突起と呼ばれ、刺されると運動機能が麻痺する。

 顎は先端を強打されると脳震盪を起こし、側面を強打されると脳が揺れて内出血や血栓などを引き起こす。

 首は切られれば大量に出血するだけでなく、喉頭隆起、つまりは喉仏を打たれると呼吸困難に陥る。

 頸椎への強い衝撃は頸髄損傷により麻痺などの症状が起きる。そんな部位が人間の体には至るところにあるのだ。


 僕の手には先ほど妹から手渡されたカッターナイフがあったが、業務用の大きなものではなく、文房具の小さなもので少々頼りなかった。だがないよりはずっとましだ。

 妹はゆっくりと階段を降りてきた。


「お兄ちゃん、変わっちゃったんだね。もうわたしの味方はしてくれないんだ?」


 すべては、僕たち兄妹が小学生の頃、近所に住んでいたカズタカが始まりだった。妹は僕を守ろうとして彼をたったひとりで溺死させた。

 カズタカから始まり、ヒデキへと続いた妹の殺人は、その後も僕や妹の身の回りにいた目障りな存在を事故に見せかけて殺していく形で続いていった。


 僕たち兄妹の小学校の卒業アルバムは、集合写真の上の方に何人もの死者の顔写真が並ぶ異様なものになっていた。

 妹は中学生になってもそれを続け、やがて事故死として処理されてしまうような殺人では物足りなくなり、近所に住む子どもたちの体を生きたまま解剖し始めた。


 父も母も姉も、もちろん僕も、妹の狂気には早い段階から気付いていた。三人は少しずつ妹と距離を取るようになり、僕はいつか妹が家族まで手にかけるのではないかと危惧するようになった。

 だから、家族の中で僕だけが妹に寄り添うことにした。


 妹がひとりでしたことを、僕はふたりでしたことにすることにした。

 最初は何を言っているの? という顔をされたが、毎日のように刷り込みを続けるうちに妹はそれを信じ、それが真実だと思いこむようになった。


 今、僕の目の前にいる美しくもかわいらしい姿をした怪物は、僕たち家族が、僕が産み出した産物だ。

 僕にはこの身に代えてもこの怪物を止める責任があった。


「お前は僕を殺しに来たんだろう? 僕のこの手足を切り落として、内臓を引きずり出したいんだろう?」


 それが十年前、妹が僕にしたかったことだ。

 僕は妹の共犯者のふりをするうちに殺された子どもたちが実験台に過ぎないことを知った。ひとりまたひとりと殺していくうちに、妹は切断や解剖の腕を上げていった。


――もうすぐお兄ちゃんの誕生日だよね。あと何人か殺したら、お兄ちゃんのこともバースデーケーキにしてあげるからね。


 妹が実験場と呼んでいた廃屋に連れ出すのは、必ず誕生日を間近に控えた子どもたちだった。

 胴体をケーキに見立て、切断した手足や取り出した臓器を使って生クリームのようにデコレーションし、苺の代わりに生首を載せる。妹はそれをバースデーケーキと呼び、生ものとして子どもたちの家に配送した。

 バースデーケーキの写真を何枚も見せられ、自分も近々そうなることを知った僕は、妹を警察に売るしかなかった。もっと早くそうするべきだったが、僕にはできなかった。


「そうだよ。そのためにいっぱい練習した。実験したよ。でも、さっき逃げた女の子とオバサンの方が先かな」


 だからどいてね、と妹は凄むわけでもなく、ショッピングにでも出かけるような明るく楽しそうな声で言った。

 更正してくれていることを願っていた。

 一緒に生きていくためにお金を貯め、一緒に出来る仕事を見つけておいた。

 だが、妹は何も変わってはいなかった。より一層たちが悪くなっていた。医療少年院を出てきてはいけなかった。

 僕がしてきたことはすべて無駄だった。


「追いかけられないだろ、もう」


「タクシー呼ぶから大丈夫だよ」


 スマホ貸して、と妹は僕に向かって手を伸ばした。


「どこに行ったかわかるのか? 僕はあの子の家を知らないんだよ」


「GPSがあるでしょ。子どもが今どこにいるか親が確認できるアプリ。わたしのときは、お兄ちゃんがいつもわたしがどこにいるかわかるようにしてた」


 だから廃屋で子どもたちをバースデーケーキにしていることに気付くことが出来た。そこに警察を向かわせることができた。


「恋人ならお互いの居場所くらいいつもわかるようにしてるよね?」


「あの子は僕の恋人でも何でもないよ。職場のただの同僚。たまに現場が一緒になることがあるだけ」


「どうしてそんな女がお兄ちゃんの部屋に来るの? おかしいよね?」


「あの子はお前の信奉者だったんだ。僕がお前の兄なこととか、お前が医療少年院を出所してることを知って、お前が僕を訪ねてくるんじゃないかって。お前に会いたくて僕についてきただけだよ」


 加藤さんが妹を殺すつもりだったことは、妹には黙っておくことにした。


「あのオバサンは戻ってくるんだよね?」


 妹は大家さんに僕の部屋の鍵を開けてもらっている。誤魔化すことは無理だろう。


「あのオバサンはあの女を家に送っていったんでしょ? お兄ちゃんが知らなくてもあのオバサンから聞き出せばいいだけだよね? いくら泣いても叫んでも、あの女の居場所を喋るまで拷問はやめない。喋ってくれたら楽に死なせてあげるけど」


 どうやら妹は今ここで僕を殺すつもりはないようだった。大家さん、加藤さん、そして僕、というように殺す順番が決まってしまったようだったからだ。妹は殺す順番を必ず守るだろう。


「どうしてそんなに人を殺したいんだ?」


 だから僕はふと疑問に思ったことを口にした。

 時間を少しでも稼ぎたかった。あまり時間をかければ大家さんが帰ってきてしまう。それまでにどうにかしなければいけない。

 その方法を考える時間が今は必要だった。

 考えろ、考えろ。僕は自分に必死に言い聞かせた。


 そして僕は思い付いた。至極簡単で誰にでも思い付くような方法だったが、それしかないと思えた。


 僕にも死んでほしいとか殺したいとか思う人間は何人もいたが、僕は誰ひとり殺したことはない。

 子どもの頃はそういう相手は全部妹が勝手に殺してしまった。

 身の回りに数人程度しかいなかったそういう相手は、妹の逮捕からの十年で日本全国に無数に増えた。

 ネット上に何万人、何十万人といる名前も顔もわからないようなそんな連中の住所や氏名が仮にわかったとしても、殺すという選択を僕が選ぶことはない。

 一人一人殺して回ったりしていたら、それだけで人生が終わってしまう。

 どうせ生きなくてはいけないなら、僕はもっと有意義に生きたかった。


 今は二一世紀だ。戦国時代でも、戦時中でもない。

 ここは日本で、ウクライナやイスラエルでもない。この国のほとんどの人間が誰ひとり人を殺すことなく人生を終えていく時代に、なぜそんなに人を殺したいと思うのだろう。


「お兄ちゃんは人を殺したことがないからわからないんだよ」


 その言葉で僕はようやく理解した。

 妹にとって殺人は、酒や煙草やコーヒーといった嗜好品と同じなのだ。

 一度もその味を知らなければ、あるいは味を知っても口にあわなければ、二度目はない。

 口に合えば、嗜好品は一生嗜むものとなる。

 妹は生きている限り、人を殺し続けるのだろう。

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