たけあなあけた
池平コショウ
第1話
あの男がまた来ている。ガラスケースにへばり付くように展示物を縦から横から上からせわしなく観察する男だ。
あっ。鞄から何か出した。博物館内は撮影禁止だから私たち学芸員は盗撮にも目を光らせなければならない。
男が取り出したのは小さなノギスだった。精密な寸法が採れるその道具でガラス越しに展示物を計ろうとしている。
ケースの中は奈良時代に作られたとされる重要文化財の「甲駆け(かんがけ)の篠笛」。黒漆の上から血のような赤が掃かれ、金の蒔絵細工で模様が施されている。龍を象ったとも、太陽を描いたとも言われ、諸説あって定説には至っていない。
男は週に一度はやってきて甲駆けの篠笛を一時間以上かけて観察する。ほかの展示物には目もくれない。学芸員の間では「怪奇笛男」とあだ名され、非公式ながら要注意人物と目されていた。
ある日のこと。蛍の光が流れ他の人が出口に向かうなか、男が笛展示室を担当していた私に近づいてきた。
私は後ずさりしながら後ろ手で壁の非常ボタンを探った。
男は口ごもりながら言った。
「笛を吹かせてもらえませんか」
とっさに何を言っているのか分からず聞き返した。
「ほんのちょっとでいいんです。甲駆けの篠笛を吹かせてもらいたいんです」
重要文化財を身元不明な人に貸すなど言語道断だが、男の思い詰めた表情はただならぬ決意をにじませている。隣室の学芸員に「黒森さんを呼んできて」と助けをもとめた。
駆けつけた黒森さんは男を会議室に案内した。万一暴れ出しても展示品を守れるようにという配慮だった。
男は日野定之と名乗った。篠笛の工房をやっているという。甲駆けの篠笛に魅せられ、あこがれの笛の近くにいたいと、この町に住み着いた。
日野さんは訥々と話し始めた。
甲駆けの篠笛は隅々まで観察し尽くした。似たものは今すぐにでも作れる。だが、肝心の音色が分からない。
心を癒す効果があると言い伝えられる音色を複製したいのだ、と日野さんは訴えた。
「篠笛という楽器は竹に穴を開けただけの単純な構造ですが、それだけに作者の意図を超えたことが起きるのです。普通の篠笛も基本になる呂音(りょおん)、オクターブ上の甲音(かんおん)、さらに上の大甲音(だいかんおん)を吹き分けられます。甲駆けの篠笛はさらにその上の大大甲音(だいだいかんおん)が出せるというのです」
「それは超音波ということですか」
黒森さんが食いつく。
「その音、聞こえざるなり。感じるのみ。と言い伝えられています」
「大大甲音が人の心に作用するというわけですね」
「たぶん、そういうことだと思います」
「わかりました。ですが、甲駆けの篠笛で大大甲音を出してもらうわけにはいきません」
重要文化財であっても著名な演奏者に貸し出すことはあった。日本文化をこよなlく愛する黒森さんならきっとケースの鍵を開けたまま、ほんの数分席を外すくらいのことはするだろうと予想していた。
私は「吹かせてあげましょうよ」と目で訴えた。
すると黒森さんがいきなり床に土下座したではないか。
「あの笛はもとの甲駆けの篠笛ではありません。私が割ってしまったのです」
二年前、館内の空調設備を更新した際に設定ミスが起き甲駆けの篠笛をカラカラに乾燥させてしまったのだと黒森さんは打ち明けた。笛は縦にパックリと裂けた。すぐに文化庁に報告し、文化財修復の第一人者が派遣されたが元通りにはできなかった。
日野さんは呆然としていたが、やがてニッコリと笑った。
「現代の大大甲音を作るチャンスをもらったということですね。なにせオリジナルがこの世に存在しないのだから、不正解も正解もなくなった」
黒森さんがハッとして顔を上げた。
「ぜひお願いします。幻の大大甲音をよみがえらせてください。日野さんほどの熱意があればできると思います」
日野さんは黒森さんを引き起こすと強く握手をした。
<了>
たけあなあけた 池平コショウ @sio-
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