第2話 ―side.雪澄
通す気があるのかと怒鳴りたくなるような稟議書に目を通し終わり、残っていた缶の中身を一気に呷る。
そのまま苛立ちに任せて缶を握り潰せば「ひぇ」と貫田が情けない声を上げた。
「ちょ、物にあたるのやめてくださいよ? ていうか、飲み過ぎですって」
呆れた声で言って、ここ数時間で生まれた数本の空き缶を貫田が回収していく。
「もー、本当に体に悪いんで、奥さんにお願いしてお弁当でも作ってもらってくださいよ」
「……無理強いしたくない」
「変なところで意地っ張りだし」
はあ、とため息をついた貫田を睨む。
以前、一度だけ百合子さんがお弁当を作ってくれたことがあった。
しかも会社まで届けに来てくれたらしい。その時ほど、延びた会議に怒りを覚えたことはない。
百合子さんがそんなサプライズを、と驚いたものだが、実際は貫田の入れ知恵だったようだ。いつの間に百合子さんと接点を。本人は偶然道端で会って話しただけだと言っていたが、今度改めて問い詰めておかなくては。
兎にも角にも、無駄に延ばされた会議に疲弊しながら帰ってきた俺に、ちょこんと鎮座した弁当箱は神からの恵みに等しかった。
その日はそれ以降、自分でも笑ってしまうほど上機嫌で、全ての残務を翌日の自分に預けて定時で帰宅した俺は、すぐに百合子さんを抱きしめてお礼を言った。それはもう何度も。百合子さんがお弁当を作って来てくれて、どれだけ嬉しかったを、言葉の限り尽くしたのだ。
お弁当おいしかった。会社で待っててくれてよかったのに。また作って欲しいな。今度は俺が迎えにいくまで待っててね。そう、想いを込めて。次への期待を仄かに乗せて。
百合子さんも微笑みながら頷いてくれていたはずだ。――いや、本当にそうだったか?
「……」
今思えば、どちらかというと困り顔だったような気もする。頷いたわけじゃなくて、首を傾げただけだったのかもしれない。
「……わかんねー」
「何がっすか」
「……」
面倒そうに相槌を打たれて、少し悩む。
貫田に相談するのは癪だ。だけど、百合子さんとのことを話せるのはこいつしか居ないし……。
む、と唇を引き結んで貫田を見れば、貫田は「なんですかその顔」と笑った。
「……百合子さん、最近体調悪いみたいで」
「ああ……」
あんまり構ってくれない。とは、流石に理性が勝って口にしなかったが、貫田には正しく伝わったようで、どうしようもない子を見るような眼差しで返される。
「じゃあ、我儘言えませんね。けど、それで坊ちゃんまで体壊してたらしょうもないでしょ。エナドリ禁止にしていいですか?」
「しない……」
「駄々っ子……」
仕事だけは完璧なんすから、と書類を回収する貫田。と、執務室の扉がノックされ、現れたのは間宮だった。
「失礼致します。蓮月さん、お帰りは何時ごろにいたしましょうか」
「帰り……」
送迎車の手配か、と回らない頭で考える。
「もう帰ったほうがいいんじゃないすか」
「そうだな……帰るか」
疲れたし。クソみたいな稟議書を読まされてやる気も奪われたし。
「急で悪いが、今から手配頼めるか?」
「はい、すぐに」
急と言っても、相手は蓮月家で雇っている専属の運転手だ。おそらく十分もしないうちに準備は整うだろう。
そう思って、気分を切り替えるために立ち上がる。疲れた顔のまま百合子さんに会いたくない。
「少し外の風に当たってくる」
「承知いたしました」
立ち上がって、貫田と間宮の横を通り過ぎ、外に出ようとする。刹那、貫田がニヤリと笑って俺を見た。
「ちゃんと奥さんに癒されてもらってくださいよ」
「言われなくても」
間宮もいるんだった、と思い至ったのは脊髄反射で軽口を叩いた後だった。
……まあいいか。彼女もこのくらいなら気にしないだろう。
百合子さんがそこに居るだけで、疲れなんて一瞬で飛ぶ。だから心配される必要はない。
心配なのは百合子さんの方だ。
貫田にも言った通り、最近はなんとなく、気分が沈んでいるような気がして。
眠っていることも多いし、やっぱり家にずっと居るのもそれはそれで疲労が溜まるのかもしれない。……でも、せっかく捕まえた百合子さんを、外に出すのは怖くて。
優しい人だ。きっと少し話すだけでみんな百合子さんに惹かれてしまう。かつての俺がそうだったように。
こんな身勝手な理由で百合子さんの行動を制限してるなんて知られたら、百合子さんはどう思うんだろう。
怖がられるかな。優しいから幻滅はしない。でも、困ったように、諦めたように微笑むのかもしれない。
「……諦めて欲しくないなあ」
静かな廊下でポツリと零す。
百合子さんも早く同じ場所まで堕ちてきてくれたらいいのに。
どうせ手放すつもりなんて無いんだから。
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