気付いてしまった想い
第1話
ガチャリ。オートロックが解除される音が聞こえて、意識が急速に覚醒する。
視界に飛び込んできた景色の暗さに全身から血の気が引き、申し訳程度にかけていたブランケットを跳ね除けて起き上がったのと、雪澄さんがリビングに入ってきたのはほとんど同時だった。
「ただいま」
「お帰りなさい、ごめんなさい、私……!」
「急に起きたら危ないよ」
ソファーから下りかけた私の隣に座って、雪澄さんの手が私の頬を撫でる。そのまま優しく抱き寄せられて、安心と共にじくりとした痛みが心に滲んだ。
「お昼寝してたの? 百合子さん」
櫛を入れるように指先で髪をときながら、雪澄さんが優しく尋ねる。
「ごめんなさい……」
「なんで謝るの? 全然いいのに」
「でも、ご飯も作れてなくて」
「デリバリー頼む?」
ちゅ、とおでこにキスを落としてから、雪澄さんは立ち上がって電気を点けにいった。そのままキッチンに向かった雪澄さんは、冷蔵庫を覗いて「ふむ」と相槌を打つ。
「適当に作るのもありか……」
「私作るよ!」
流石に、仕事終わりの雪澄さんにそこまでさせられない。
だけど雪澄さんは、カウンター越しにふわりと微笑んだ。
「俺が作ってあげたいだけだから。百合子さんはお茶でも飲んで待ってて」
「雪澄さん……」
どうしてそんなに優しいの。
妻としての役目を果たせていない私のことなんて、どんなに詰っても咎められることはないのに。
「じゃあ、私はお風呂を掃除してくるね」
「百合子さん」
「……これくらいはさせてほしいな」
心配そうな顔で引き留めた雪澄さんにお願いすれば、納得した様子では無かったものの「……ありがとう」と退いてくれた。
なんで起きれなかったんだろう。お昼ご飯を食べた後から記憶があやふやで、まさかこんなに寝こけてしまうと思っていなかったから、目覚ましもかけていなかった。
後で繰り返しのアラームを設定しておこう。そう反省しながら、私は浴室へと向かった。
「百合子さん、最近体調悪そうだね」
相変わらず雪澄さんは手際がいい。
三十分もかからずに完成した彩り豊かな食卓に感動していると、向かいに座った雪澄さんから断言が飛んできた。
ぎくりとしながら「そうかな?」と流してみる。
「最近寝ちゃうのは……ごめんなさい。私が緩んでるだけだから……。雪澄さんの方が疲れてるのに、ごめんね」
「俺の方が疲れてるなんて思ったことないし、思わなくていいよ。家事も無理しなくていいから」
「それは……」
それしか私に、期待してないから?
出かけた言葉を飲み込んで、眉を下げて微笑む。
じっとこちらを見つめる澄んだ瞳に弱い心を暴かれてしまいそうで、私は自然を装って視線を落とした。
◇
綺麗で、優秀で、真面目そうな、そんな人だった。
意志の強い瞳はどこか雪澄さんと似ていた。自分の信念を持っている、目指すべき道を理解している人の眼だ。
その眼で見つめられると、輪郭がぼやけそうになる。
流されて生きてきただけの自分は、空っぽのような気がして。私という存在は、強すぎる視線の前では簡単に溶けてしまうから。
「……なに考えてるの?」
低く掠れた声が耳を撫で、ぴくりと背中を震わせる。
「あ……」
思わず漏れた吐息まじりの呟きに、私の腰を抱いていた雪澄さんの指先にグッと力が込められた。
現在時刻は朝の八時。お見送りの途中だった、と散らばりかけた思考を集めてどうにか思い出す。
雪澄さんの顔は見れなかった。じりじりと灼けつくような視線は、感じていたけれど。
「な、何も……少しだけ眠くて……」
「……そっか」
独り言のように返事をした雪澄さんが、顔を傾ける。
そのまま、早朝の爽やかさには似つかわしくないような深さで唇を塞がれて、私は驚きに目を瞠った。
「ん……っ」
こんなの、いってきますのキスじゃない。
潜り込んできた舌が咥内を隅から隅まで荒らして、覚えこまされた快感を引きずり出すように上顎を擦られる。
やがて膝から力が抜け、かくりと落ちた時、そのままへたり込む私を、少しだけ息を切らしながら雪澄さんは見下ろした。
「俺と居る時に、別の奴のことなんか考えないで」
そんなこと一言も言ってないのに、見透かすように言って、雪澄さんは私の頬を撫でる。
最後に親指の腹で私の唇を拭った雪澄さんは、呆然とする私を置いて、背中を向けた。
あれ以降、お弁当は一度も作れていない。
あの日、空のお弁当箱をぶら下げて帰ってきた雪澄さんは予想通り喜んでくれていた。それと、折角来てくれたのに会えなくてごめん、とも。
だけど優しい雪澄さんの本心を信じきれなくて、本当に喜んでくれてるのか、あれだけ貫田さんが背中を押してくれたのに、また迷ってしまった。
おままごと。そう形容した間宮さんの言葉が、あまりにもしっくり来すぎてしまって。
なんだか色々と、自惚れすぎていた気もする。
この政略結婚に愛があるだなんて。
よく考えてみれば、どうして雪澄さんが私を選んでくれたのか、その理由を私は一つも知らない。――きっと、理由なんて無いんだと思う。
本当に、奇跡的な偶然で、私がお見合いの相手に選ばれただけ。それか、順番が早かったのかもしれない。私より先に彼に会った人がいればきっとその人が選ばれている。考えれば考えるほど、そうとしか思えなかった。
そこまで考えて、胸が痛くなって、ようやく気づく。
私はいつの間にか――すっかり好きになってしまったみたいだ。雪澄さんのことを。
多分もう、戻って来れないほどに。
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