第4話
雪澄さんに栄養のある食事を届けたい。そんな決意は、彼が働くオフィスを前にしてほんの少しだけ萎んでいた。
「何階建て……?」
背の高いビル群に囲まれても、一際目立つ大きなビル。
外を歩くのはスーツ姿の男性かおしゃれで上品なブラウス姿の女性ばかりで、休日感満載の私は見るからに浮いていた。
その証拠に、道ゆく人から時々飛んでくる視線が気まずい。
前もって貫田さんに連絡しておけばよかったな……。もし貫田さんが居なかったら今日は諦めて大人しく帰ろう。
ふう、と息を整えてから自動ドアを潜る。
出迎えてくれたこれまた綺麗な受付のお姉さんに緊張しながら、私は恐る恐る話しかけた。
「あの……」
「はい」
「秘書課の貫田さんはいらっしゃいますか?」
訊ねると、お姉さんの表情が一瞬訝しげに変わる。だけどすぐ、何かに気づいたように、大きな瞳がパチリと瞬かれた。
「もしかして、蓮月執行役員の奥様ですか?」
その言葉に、他の受付のお姉さん方の視線も一斉にこちらを向く。
ドギマギしながらこくりと頷けば「貫田から聞いております」とお姉さんは微笑んでくれた。
「ただ今お繋ぎいたしますね。少々お待ちください」
「あ、ありがとうございます……!」
よかった、どうにか貫田さんに会えそうだ。
しかしほっとしたのも束の間、お姉さんの表情はみるみるうちに固くなっていった。
「はい……はい……承知いたしました」
通話を終えたお姉さんが申し訳なさそうに私を見る。釣られて、私も自然と眉を下げてしまった。
「申し訳ございません。貫田と蓮月執行役員は午前中の外出が延びているようで、まだお戻りになられていないそうです」
「そう、ですか……」
「よければ別室で待たれますか?」
「いえ、そこまでは……!」
お仕事の都合なら仕方ない。私は慌てて首を振った。
「貫田宛てのお客様というのはこちらの方ですか」
今日のところは一旦退散しよう。そう思い、開きかけた私の口を、凛と冷たい声が閉ざす。
お姉さんと揃って振り向くと、細いヒールを打ち鳴らしながら、一人の女性がこちらへ向かってくるところだった。
ほんの少し釣り気味の大きな瞳に、天使の輪が浮かぶ前下がりのボブヘア。ネイビーのスーツを着こなした美人な女性だ。
背は私より少し低い。けれど纏うオーラが鋭く、私は萎縮してしまった。
「貫田に来客予定は無かったはずですが、どういったご用件でしょう」
明らかに私を疑っている眼だ。思わず言葉に詰まる私を庇ってくれたのは、受付のお姉さんだった。
「間宮さん。こちら、蓮月執行役員の奥様です」
「蓮月さんの……?」
整った眉がぴくりと動く。
私が口を開くよりも先に、間宮さんと呼ばれたその人の真っ直ぐな視線が、おどおどする私を貫いた。
「それは大変失礼いたしました。ここは私が引き継ぎます。貴女は休憩に入っていいですよ」
いつの間にかお昼の開始時刻を過ぎていたらしい。
受付のお姉さんが、心配そうな顔で私を見る。だけどそれ以上何も言うことは出来なかったのか「……承知いたしました」と頭を下げて口を噤んだ。
「では、……」
私を見上げた間宮さんがはたと動きを止める。
考え込むような仕草に首を傾げてから、私はハッとした。
「あ、百合子と申します。よろしくお願いします……!」
「間宮光です。百合子様、どうぞこちらへ」
「あっでもあの、間宮さんもお昼の時間ですよね?」
「私のことは気にして頂かなくて結構です。多少自由が利きますので」
「は、はい……」
バッサリ斬られて、これ以上は余計なこと言わない方がいいんだな。そう思って、なんだか連行されるような気分で間宮さんの後ろをついていく。
「どうぞ」
案内された応接室はこぢんまりとした、けれど上等な調度品に囲まれた、気品あふれる一室だった。
革張りのソファに座らされて、私はごくりと唾を飲む。
「それで、本日はどういったご用件でしょうか」
単刀直入に切り出された質問に、私はしどろもどろになりながら口を開いた。
「えっと、雪澄さ……夫に、届け物がありまして……」
「届け物?」
訝しげに眉を顰める様子からして、私と貫田さんのサプライズ計画については認知していないらしい。
だけど誤魔化せるような雰囲気でもなくて、気まずさに身を縮めながら、私は持っていた保冷バッグをテーブルの上に置いた。
「……これは?」
「あの、お弁当、です……」
「……」
間宮さんの瞳が、無感動な眼差しでテーブルの上のお弁当を見る。
なんだかほんの少し、鬱陶しがられているような気もして、私は慌てて手を伸ばした。
「あっ、でもまだ外出中とのことですし……! 今日はお邪魔になってしまいますよね、持って帰ります!」
しかし、回収しようと動かした指先は「いえ」という間宮さんの声に制されてしまう。
「こちらはお預かりしておきます。蓮月執行役員にはきちんとお渡ししますので、ご安心を」
「え……あ、ありがとうございます」
渡してくれるんだ……。ちょっと拍子抜けしながら、それならと腕を下ろす。
保冷バッグを手元に引き寄せた間宮さんは伏し目がちのまま、淡々と続けた。
「これは余計なお世話かもしれませんが」
「え?」
「蓮月さんはとてもお忙しい方です。日々、会社のために様々なことを考え、行動してくださってます」
「はい……」
こくりと頷く。彼の忙しさは側から見ても、分かりすぎるほどに明白だったから。
――でも、分かっている、つもりになっていただけなのかもしれない。
「百合子様とのご結婚も、その一つですよ」
「え……」
にこりともしない瞳に、呆然とする私の顔が映し出される。
「蓮月さんは、次期社長となるお方です。現在もすでに役員ですし、今後のことを考えても妻帯していた方が動きやすく、体裁もいい」
まるで、それだけが理由で、それ以外の情など何もないのだと突きつけるような。
「……貴女のおままごとに付き合ってる暇、無いんです。あの方には」
間宮さんが立ち上がる。
線を引かれるように冷たい視線で見下ろされて、私の唇は縫い付けられたように動かなかった。
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