第2話 便利さと不気味さの間で揺れる真琴



朝の光が窓から差し込み、真琴の顔を照らした。一睡もできなかった夜を過ごした彼女は、重い瞼を開けて天井を見つめた。時計は7時を指していた。


「予約投稿…」


昨夜の出来事が鮮明に脳裏によみがえる。5つの予言がすべて的中し、そして新たな予言が届いたこと。真琴はスマホに手を伸ばし、通知履歴をチェックした。予想通り、「予約投稿」からの通知は消えていた。


「証拠がない…」


溜息をつきながらも、真琴は今日の「予言」を思い出した。最初は10時に佐伯からの誘い。美咲が言ったように、その予言を覆すことができれば、すべては単なる偶然か、自分の予測可能な行動パターンを利用したいたずらに過ぎないことが証明できる。


真琴は例年より早く出社することにした。佐伯を避けるためではなく、むしろ積極的に会い、予言が現実になる前に状況を変えるためだ。


オフィスに到着したのは8時30分。フロアにはまだ数人しか出社していなかった。


「おはようございます、大倉さん。珍しく早いですね」


受付の石川さんが笑顔で声をかけた。


「ええ、ちょっと早めに片付けたい仕事があって」


真琴は自分のデスクに向かいながら、周囲を見回した。佐伯の姿はまだない。彼はいつも9時ちょうどに出社する几帳面なタイプだった。


コンピューターの電源を入れ、メールをチェックしながら、真琴は14時15分の「クライアントミーティングで企画が却下される」という二つ目の予言について考えた。午後からスケジュールされている大手化粧品ブランド「ベルナ」とのミーティングのことだろう。真琴は数週間かけて準備した企画案を、再度確認した。


「これなら問題ないはず…」


だが、念のため、プレゼン資料に微調整を加えることにした。より具体的な数字、競合他社の成功事例、そして予測される効果をわかりやすくグラフ化する。予言を覆すための保険だ。


9時ちょうど、佐伯が颯爽とオフィスに入ってきた。真琴は彼の姿を認めると、わざと目が合うように手を振った。


「おはようございます、佐伯くん」


「あ、おはようございます、大倉さん。今日も早いんですね」


二人は軽く会話を交わし、それぞれの業務に戻った。真琴はほっとしながらも、時計をチラチラと見ていた。10時まであと1時間。


時間はゆっくりと過ぎていった。真琴はクライアントのSNS分析に集中しようとするも、頭の片隅では予言のことが気になってしかたなかった。


9時55分、佐伯が彼女のデスクに近づいてきた。


「大倉さん、ちょっとよろしいですか?」


真琴は心臓が跳ね上がるのを感じた。「まだ10時じゃない」と思いながらも、冷静を装った。


「何かあった?」


「あの、実は…」佐伯は少し躊躇したように見えた。「明日の映画のチケットがあるんですが、もしよければ一緒に…」


真琴は一瞬驚いた。予言では「10時」のはずだったが、5分早い。これなら覆せる。そして何より大事なのは、佐伯の誘いを受けることだ。


「いいわよ。何の映画?」


佐伯の顔が明るくなった。「本当ですか? 新しいホラー映画なんですけど…」


「楽しみにしてるわ」


真琴は満足げに微笑んだ。これで一つ目の予言を覆すことができた。この調子で他の予言も…


チリンチリン。


真琴のスマートフォンが鳴った。画面を見ると、見知らぬ番号からの着信だった。


「すみません、ちょっと出ます」


佐伯に軽く会釈し、真琴は電話に出た。


「もしもし、小野寺です」


「あ、小野寺さん。松井産業の松井です。昨日お電話しましたが…」


「はい、覚えてます」


「実は、明日のミーティングを今日に変更できないかと思いまして。10時30分はご都合いかがでしょうか?」


真琴は咄嗟に予定表を確認した。「大丈夫です」と答えると、松井は安堵の声を漏らした。


「では、10時30分に御社にお邪魔します」


電話を切り、真琴が再び佐伯を見ると、彼は少し不安そうな表情をしていた。


「あの、大倉さん…やっぱり迷惑だったらキャンセルでも…」


真琴は混乱した。「え? でも、さっき…」


「いえ、考えてみたら唐突でしたよね。それに、大倉さんはホラー映画、苦手だと聞いたことがあって…」


真琴は言葉を失った。「ちょっと待って、私、さっき承諾したわよね?」


佐伯は困惑した表情で首を傾げた。「えっ? いえ、まだ何も…」


「…そう」


真琴は時計を見た。ちょうど10時だった。そして、彼女は気づいた。実際には彼女は佐伯の誘いを受けていなかったのだ。電話に夢中になっている間に、現実と予言がぼやけてしまった。


「ごめんなさい、佐伯くん。今日は難しいわ。また今度ね」


言葉が口から出る前に、真琴は自分が何を言っているのか理解できなかった。まるで体が勝手に動き、口が自動的に言葉を発しているようだった。


佐伯は少し落胆した様子だったが、すぐに明るい表情に戻った。「わかりました。では、また今度」


彼が去った後、真琴は震える手でスマホを握りしめた。一つ目の予言は的中した。いや、それ以上に不気味なのは、彼女が無意識のうちに予言通りの行動をとってしまったことだ。


「どうなってるの…?」


10時30分、松井が来社した。急遽設定されたミーティングだったが、真琴は冷静さを装って対応した。松井産業の新規マーケティング戦略について話し合い、真琴は簡単なプレゼンを行った。会話はスムーズに進み、松井は真琴の提案に大きな関心を示した。


「小野寺さん、素晴らしい提案をありがとうございます。ぜひ御社にお願いしたいと思います」


予想外の成功に、真琴は少し安堵した。少なくとも仕事面では順調だ。松井との契約は大きな実績になる。


しかし、時計が14時に近づくにつれ、真琴の緊張は再び高まった。「ベルナ」とのミーティングが迫っていた。予言では、企画が却下されるという。


真琴は準備した資料を再確認し、自信を持って会議室に向かった。クライアント側からは、マーケティング部長の高橋と、若手社員の川村が出席していた。


「お待たせしました」真琴は笑顔で挨拶した。「今日は新しいキャンペーン企画をご提案します」


プレゼンが始まり、真琴は熱意を込めて説明した。SNSを活用した新商品発表の戦略、インフルエンサー起用のメリット、予測される反響について。スライドは完璧で、説明も滞りなく進んだ。


高橋は真剣な表情で聞き入り、時折うなずいていた。川村はメモを取りながら、時々質問を挟んできた。すべて順調に見えた。


プレゼンが終わり、高橋が口を開いた。「大倉さん、非常によくまとまった提案ですね」


真琴は胸をなでおろした。予言は外れたようだ。


「ただ…」高橋は言葉を続けた。「実は昨日、本社から予算削減の通達があって…」


真琴の心臓が沈んだ。


「この企画自体は素晴らしいのですが、今回は見送らせていただきたいと思います」


時計は14時15分を指していた。


「予算削減…」真琴はかろうじて声を絞り出した。「いつ頃になれば…?」


「来年度には状況も変わると思いますので、その時にまた相談させてください」


会議は厳粛な雰囲気で終了した。真琴は自分のデスクに戻り、椅子に崩れるように座った。二つ目の予言も的中した。そして、彼女が努力しても結果は変わらなかった。


午後の残りの時間、真琴は茫然自失の状態で過ごした。同僚の声も、オフィスの音も、遠くから聞こえてくるように感じられた。


18時を過ぎても、真琴は帰る気力が湧かなかった。デスクワークに没頭していると、少なくとも不安を忘れられる。そのまま残業を続けることにした。


オフィスは徐々に静まり返り、残っているのは真琴だけになった。静寂の中、彼女はキーボードを打つ音だけを聞いていた。


18時30分ちょうど、その静寂を破るように、奥のプリンターが動き出した。


キュルキュルという音に真琴は飛び上がった。誰もいないはずのオフィスで、プリンターが勝手に印刷を始めたのだ。


恐る恐る立ち上がり、プリンターに近づく。用紙が次々と排出されていた。真琴が震える手で一枚取り上げると、そこには何も印刷されていなかった。真っ白な紙だ。


次のページも、そのまた次のページも、すべて白紙だった。プリンターが止まると、真琴は蒼白の顔で周囲を見回した。誰かのいたずらかもしれない。だが、オフィスには彼女しかいない。


三つ目の予言も的中した。


真琴は慌ててデスクに戻り、荷物をまとめた。もうこれ以上オフィスにいたくなかった。帰宅時に雨に降られるという予言があるが、それならコンビニで傘を買えばいい。少なくともそれは回避できるはずだ。


「冷静に考えて…」


真琴は自分に言い聞かせた。確かに不思議な出来事だが、合理的な説明があるはずだ。佐伯からの誘いは偶然かもしれない。クライアントの予算削減も、マーケティング業界ではよくあることだ。プリンターの誤作動も、技術的な問題に過ぎない。


そう考えると、少し気持ちが落ち着いた。真琴はカバンを肩にかけ、エレベーターに向かった。


夜の街に出ると、まだ雨は降っていなかった。真琴は最寄りのコンビニに立ち寄り、折りたたみ傘を購入した。これで四つ目の予言も回避できる。


「予言なんて、信じない」


真琴はそう呟きながら、駅に向かって歩き始めた。夜風が心地よく、星空が広がっていた。天気予報では雨の予報はなかったはずだ。


駅に着き、電車を待っていると、スマホに美咲からのLINEが届いた。


『その後どう? 予言は当たった?』


真琴は少し考えてから返信した。


『三つは的中した。でも、雨は降ってないわ』


美咲からの返信は早かった。


『怖いね…でも全部当たるわけじゃないなら、やっぱり偶然じゃない?』


真琴もそう考えたかった。もしそうなら、最後の予言—23時15分のノック—も回避できるかもしれない。


電車に乗り込み、真琴は窓の外を見つめた。駅を出てからしばらくすると、突然空が暗くなり、雨粒が窓を叩き始めた。


「まさか…」


電車が目的の駅に到着し、真琴が降りると、外は本格的な土砂降りになっていた。そんな中、コンビニで買ったばかりの傘を開こうとしたが、傘の骨が折れていて開かなかった。


「なんで…?」


真琴は呆然と傘を見つめた。新品のはずなのに、完全に壊れていた。駅から自宅までの道のりを、彼女は雨に打たれながら走るしかなかった。


四つ目の予言も的中した。


ずぶ濡れで自宅に到着した真琴は、すぐにシャワーを浴びて着替えた。体は温まったが、心の中の冷たさは消えなかった。予言から逃れられないという恐怖が、彼女を包み込んでいた。


時計は22時を指していた。あと1時間15分で、最後の予言の時間だ。


真琴はリビングのソファに座り、テレビをつけた。音を大きめにして、外の音が聞こえないようにした。美咲に電話をかけようか迷ったが、何を話せばいいのか分からなかった。


「気にしすぎよ」


そう自分に言い聞かせながらも、真琴は時折玄関に視線を向けた。時計の針が進むにつれ、彼女の緊張は高まっていった。


22時30分、真琴はふと思いついた。もし23時15分に誰かが来るなら、それを待ち構えるのではなく、自ら外に出てしまえばいいのではないか。予言の状況そのものを避けることができるはずだ。


真琴は急いでジャケットを羽織り、鍵を手に取った。外はまだ雨が降っていたが、もう気にならなかった。どこでもいい、とにかく家を出よう。


しかし、ドアノブに手をかけたその瞬間、真琴の体が急に動かなくなった。手が震え、足が竦んで一歩も踏み出せない。まるで何か見えない力に阻まれているようだった。


「なんで…動けない…」


真琴は必死に体を操ろうとしたが、無駄だった。玄関から離れて戻ることはできても、外に出ることはできなかった。


諦めて、真琴はソファに戻った。テレビの音を更に大きくし、スマホで音楽も流し始めた。外からの音を遮断するためのあらゆる試みだ。


23時、真琴のスマホが震えた。画面を見ると、予想通りの通知だった。


【予約投稿】明日の投稿を予約しました


震える指で通知をタップすると、三日目の予言が表示された。


『小野寺真琴、明日の予定:

・11:30 松井産業との契約書にサインする

・15:00 美咲から「彼氏ができた」と報告を受ける

・19:45 残業中、オフィスのPCに「助けて」というメッセージが表示される

・21:20 帰宅途中、知らない女性に「あなたも見えるの?」と話しかけられる

・23:30 自宅の鏡に映る影が動く』


真琴は息を呑んだ。内容が徐々に不気味になっていく。特に最後の二つは、完全にホラー映画の領域だ。


しかし、今考えるべきは目の前の予言—23時15分のノックだ。


時計は23時10分を指していた。真琴はリビングの中央に立ち、玄関ドアから最も遠い位置を取った。音楽とテレビの音が部屋に満ちていたが、心臓の鼓動の方が大きく感じられた。


23時14分。


真琴は息を止めた。


23時15分ちょうど、ドアをノックする音が聞こえた。


コンコン。


テレビと音楽の音をかき消すように、はっきりとした二つのノック。真琴は凍りついたように動けなかった。


「ド、ドアホン…そう、ドアホンを確認すれば…」


震える足で玄関に向かい、ドアホンのモニターを覗き込んだ。


画面には誰も映っていなかった。


もう一度ノックの音。今度はもっと強く、せっかちに。


真琴は勇気を振り絞り、インターホンのマイクを押した。「誰…ですか?」


応答はなかった。


冷や汗が背中を伝った。真琴はドアを開けるべきか迷った。開けなければ、この恐怖はいつまでも続く。だが、開けて何かがいたら…


真琴はゆっくりと鍵を回し、チェーンをかけたままドアを少しだけ開けた。


廊下には誰もいなかった。


安堵のため息をつきかけたその時、真琴の携帯電話が振動した。見知らぬ番号からのメッセージだ。


開くと、一行のテキストだけが表示されていた。


『開けてくれてありがとう。これで、明日も続く』


背後から冷たい風を感じ、真琴は振り返った。リビングのドアが少し開いていて、そこから何かが覗いているように見えた。しかし、振り返ると何もない。


真琴は急いでアパートのドアを閉め、鍵をかけた。背中をドアにもたれかかり、床に崩れ落ちそうになった。


すべての予言が的中した。そして明日も、また新たな予言が彼女を待ち受けている。


真琴は携帯を見つめた。「予約投稿」というアプリは、彼女の人生を支配し始めていた。恐怖だけではない。不思議と、次の予言を知りたいという奇妙な期待感も芽生えていた。


窓の外では、雨がいつの間にか止んでいた。月明かりが部屋を照らし、真琴の影が壁に長く伸びていた。彼女には気づかなかったが、その影は彼女が動いていないのに、わずかに揺れていた。

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