彼よ子よ、あこがれよ

御愛

あこがれ

 彼が死んだのは去年の八月だった。


『子どもは何人欲しい?』


『二人……かな。私もそうだったし、一人だと寂しいと思うから』


『僕も、二人くらいかな。まだ気が早いかもしれないけど、名前も決めてあるんだ』


『うそ、私も考えてた』


『それじゃあ、一人ずつ決める?』


『ううん、名前は二人とも、話し合って決めよ。大事なことだもん』


『そっか……そうだよね』


 汗に濡れるのも厭わずに、彼の唇が自らの首元に吸い付く感触が、時折り思い出されるかのように記憶の形を伴って現れる。


 それは二度と再現されることのない、過去の遺物として風化し続けるものだった。


『ちょっと出掛けてくるよ』


『行ってらっしゃい。気をつけてね』


『駅前のコンビニに行ってくるだけだから』


 濡れた現場を残して、彼が私たちの小さな城を出て行ってそれっきりで、私はひとり、そのまま待ちぼうけを喰らっている。


 三月。ふと外を見れば雪が降っていた。


 あと少しもすれば降り積もるかというくらいの勢いであり、その真っ白い物体は徐々に世界を侵食しつつある。


 そのまま全てを覆って隠してくれれば良いのに。


 そうすれば、見たくないものを見ずに済むのに。



£££


 

 日の沈みかけた頃に、私はふと立ち上がった。


 ジーンズと長袖を覆うだけのジャージを纏い、最低限の装備で、私はアパートから飛び出した。


 雪の降りつつある街並みを睥睨して、錆の浮かんだ手すりを軽く撫でつつ、階段を降りていく。


 そのざらついた感触が妙に心にさわった気がして、無性に腹が立った。


 そして、町行く人間の顔を見ることにも、余程のこと精神をすり減らした。


 彼を亡くして半年以上が経った今でも、私は過去を引きずっている。

 

 だからだろうか。私の不幸を知らずに生きている他人の笑顔が、どれもこれも歪んで見えた。


 ふと、道行くひと組の家族に通りすがった。


 両親が男の子を真ん中にして手を繋ぎ、笑い合いながら自分の目の前を過ぎ去っていく。


 その笑い声は自分の全てを嘲笑っているかのようで、まるでお前の夢など叶うことなどないと宣告を下されたような気がした。


 声は周囲に反響して、私の脳を蝕む。


 ———ふと、意識を取り戻すと、肩に軽い重みを感じた。


 手で振り払ってみるとそれはザクザクとした感触があり、触れた瞬間に雪であると分かった。


 どうやら雪降る道の真ん中で、暫く立ちすくんで居たらしい。


 正気を取り戻した私は、凍え切った体に構わず、目的地を目指して歩き続けた。


 歩く間に脳裏をよぎるのは、数々の思い出達だった。もしくはそれに伴う後悔の念か、あるいは見出そうとするたびにその姿を消す希望の形か。


 家族が欲しかったのだ。


 彼は私が愛した人で、その子どもが欲しかったのだ。


 二人の子どもを作って、四人の家族となるはずだったのだ。


 一人では、どうしようもないではないか。


 全ての前提条件が覆った当時、私に最初からやり直す気力は残っていなかった。


 でも、今は—————



 ただ私は幽鬼のように、ふらふらと歩き続ける。


 視界の端に、石造りの柵から生え出すようにして道路側に飛び出ている卒塔婆そとばが写った。


 近づくと、夜の月に照らされて乱立する石の造形達が私を出迎えてくれた。


 その内の一つに、私の目は吸い寄せられる。


 それは奇妙な墓所であり、手前に二本、小さな長方形の石が生えており、その後ろ中央で、親のようにどんと構えている本命の墓石が立っているのだった。


 しかしそれを、私は当然のように眺めていた。


『男の子だったら空。女の子だったら碧。俺はそうしたいな』


「……二人で決めようって言ったじゃん」


 手前の二本の石には、それぞれ"空"と"碧"の文字が刻まれている。


 それはつい先日、私が管理人に頼み込んで、作ってもらったものだった。


「あなたと話し合う前に死んじゃうんだもん。私が一人で決められるわけ、ないじゃん」


 産まれるはずだった二人の子どもは、彼が死んだ時共に死んでしまったのだ。


「ごめんね、空、碧。産んであげられなくて」


 私は謝罪を口にした。


 吾子たちは、産まれる前に死んでしまったのだ。例え私と彼の空想の存在でも、その存在と共に生きる道を選ぶことが出来なかった私は、何らかの気持ちを表明せずにはいられなかった。


 私はきっといつか、別の人と空と碧ではない子どもを産むのだろう。


 だからこそ決別の意味を込めて、彼らの墓を作った。


 今度こそ、前を向くために。

 

「さよなら。私の————」


 彼吾子かれとのわがこは、産まれることを許されなかったのだ。


 だからこそずっと、それは吾子彼あこがれのまま。記憶は閉じることなく、褪せ続けるだけなのだ。


「————」


 しかしかつてのあこがれは、まだ燻りつつ胸の奥にあった。


 それはきっと、新しいあこがれを見つけたとして、消えるものではないのだろう。


 見たこともない我が子の笑い声が、私の胸を締め付ける限り。

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