第5章 再現された過去
倉井恭司は、観覧車の基部に身を隠し、息を殺していた。錆びた鉄骨が風に揺れ、軋む音が頭の中で反響する。プロジェクションマッピングの光が地面に揺らめき、赤いゴンドラがまるで血の脈のように脈打つ。遊園地の廃墟が闇に沈み、遠くでサイレンが鳴り響く。無線の声が断続的に聞こえ、「倉井恭司、遊園地敷地内に潜伏。全員、慎重に進め」と鋭く響く。血まみれの手がコートの中で震え、冷たい汗が背中を伝う。だが、動けない。動けば、見つかる。
「自分の身に移り入った殺人鬼が、俺を追ってくる。」
その確信が、頭の中で膨らみ続けていた。X。連続殺人犯。あの冷たい目、薄い笑み、血に染まった手が、俺の体を乗っ取って動き出した。吉杉を刺したのはXだ。そして、今、俺を追い詰めるために、俺の顔で署にいる。俺の声で命令を下し、警察を操り、俺を容疑者に仕立ててる。あの笑い声が、俺の喉から漏れてる。あの冷たい目が、俺の目で俺を見てる。
頭の奥が軋むように痛む。遊園地の光が視界の端でチラつき、観覧車の軋む音が耳にこびりついて離れない。記憶が20代で止まっている。刑事学校を出たばかりの俺。正義を信じ、汗と埃にまみれて街を駆け回った若造。それ以降が、霧に閉ざされたように曖昧だ。50歳の俺がどんな人生を歩んできたのか、どんな顔をしてきたのか、まるで他人事のように遠い。あのチラシ。「生存者、倉井恭司へのインタビューを予定。」俺だ。だが、覚えてない。30年前の観覧車事故。家族を失った。そんな記憶はない。
「知らない…俺の過去じゃない。」
呟くが、声が掠れて遊園地の闇に吸い込まれる。握り潰したチラシが、血まみれの手の中で震えている。あのスタッフ証。「吉杉隆一、遊園地イベントスタッフ。」あの死体と同じ顔。だが、知らない。Xが吉杉を刺した理由は?遊園地の再現と関係あるのか?頭が混乱する。フラッシュバックが現実を侵食する。観覧車の軋む音、ゴンドラが落下する音、家族の叫び声。血に染まった笑顔。だが、吉杉の顔はそこにない。
「Xの動機…何かある。」
倉井は深呼吸し、頭を整理した。遊園地の廃墟を進み、古いブースの残骸に近づいた。風に揺れる看板が軋み、地面に散らばるチラシが埃にまみれている。もう一枚を拾い上げ、血まみれの手で埃を払った。チラシには、観覧車の写真とイベントのスケジュールが書かれている。「閉園前の最後の日々を再現」とある。その下に、小さな文字で「30年前の事故を振り返る展示」と追記されている。倉井の目が止まった。事故。展示。
「何…?」
倉井はブースの残骸に近づき、崩れたテントの下を探った。埃まみれの展示パネルが地面に倒れている。血まみれの手で持ち上げると、パネルの表面に観覧車の写真が貼られていた。血に染まったゴンドラ。地面に叩きつけられた鉄骨。そして、その横に立つ若い男。20代の俺。血まみれの手で呆然と立ち尽くしている。目が虚ろで、口が半開き。バッジを握り潰している。あの新聞の切り抜きと同じ写真だ。
パネルの下に、説明文が書かれている。「30年前、遊園地観覧車事故。老朽化したゴンドラが落下し、家族4人死亡。生存者、倉井恭司(当時22歳)は重傷を負ったが奇跡的に生還。事件後、記憶に影響を及ぼす後遺症が報告された。」
倉井の手が震えた。俺だ。だが、覚えてない。家族を失った?重傷?記憶に影響?そんな記憶はない。刑事学校を出たばかりの俺が、そんな目に遭ったはずがない。だが、パネルの写真は俺だ。あの血まみれの手は、俺の手だ。
「知らない…俺の過去じゃない。」
呟くが、声が掠れて震える。頭の奥が軋むように痛み、フラッシュバックが再び襲う。観覧車の軋む音、ゴンドラが落下する音、家族の叫び声。血に染まった笑顔。地面に叩きつけられる衝撃。子供の手が、血の中で震えている。女の声が、叫びながら俺を呼ぶ。「恭司!助けて!」だが、その顔が浮かばない。知らない。覚えてない。
「やめろ…やめてくれ…」
倉井は頭を振った。パネルを地面に叩きつけ、血まみれの手で顔を覆った。フラッシュバックが現実を侵食する。目の前のブースが、血に染まった観覧車の残骸に重なって見えた。だが、それは一瞬だった。次の瞬間、遊園地の廃墟に戻る。埃まみれのブース、散らばったチラシ。
「吉杉…事故と関係あるのか?」
倉井はスタッフ証を握り潰し、頭を整理した。吉杉隆一。遊園地イベントスタッフ。Xが俺の体を乗っ取って吉杉を刺した。だが、なぜ?吉杉は事故を知ってるのか?30年前の関係者なのか?展示のスタッフとして、俺の過去を暴こうとしたのか?頭が割れるように痛む。メモの文字が浮かぶ。「お前は俺を観てる。」Xが俺を観てるのか?いや、俺がXを観てるのか?あの冷たい目が、俺を見てる。あの薄い笑みが、俺を嘲笑ってる。
遊園地の廃墟を進むと、古い事務所の残骸が目に入った。風に揺れる扉が軋み、ガラスが割れて地面に散らばっている。倉井は近づき、扉を押し開けた。埃まみれの机と椅子が倒れ、書類が散乱している。血まみれの手で書類を拾い上げ、目を凝らした。スタッフの名簿だ。「吉杉隆一、イベントスタッフ、50歳。備考: 30年前の事故関係者へのインタビュー担当」と書かれている。
「何…?」
倉井の手が震えた。吉杉は事故関係者へのインタビュー担当。俺へのインタビューを予定していた。俺の過去を知ってるのか?Xが吉杉を刺した理由は、それか?俺の記憶を暴かれるのを防ぐためか?頭の奥が軋むように痛む。フラッシュバックが再び襲う。観覧車の軋む音、叫び声、血に染まった笑顔。そして、遠くで笑う声。冷たく、嘲るような声。
「Xが…俺を追ってくる。」
倉井は名簿を握り潰し、事務所の奥へ進んだ。埃まみれの棚に、古いファイルが積まれている。血まみれの手で一冊を引き抜くと、「遊園地事故記録」と書かれた表紙が目に入った。開くと、黄ばんだ紙に手書きのメモが挟まっている。「倉井恭司、生存者。事故後、記憶障害の兆候。家族の死を認めず、別人格の存在を疑う報告あり。」
「別人格…?」
倉井の息が止まった。記憶障害。別人格。そんな報告はない。覚えてない。だが、頭の奥で何かが疼く。観覧車の軋む音が、耳の中で大きくなった。叫び声が、家族の声が、血に染まった笑顔が、頭を埋め尽くす。そして、あの笑い声。冷たく、嘲るような声。
「やめろ…やめてくれ…」
倉井はファイルを床に叩きつけ、事務所の奥へ這うように進んだ。血まみれの手が床に赤い跡を残し、暗闇の中でかすかに光る。外でサイレンが近づき、無線の声が響く。「倉井恭司、遊園地敷地内に潜伏。観覧車付近を重点捜索!」
倉井は事務所の裏口へ向かい、血まみれの手で扉を押し開けた。遊園地の光が背後に伸び、赤い影が地面を這う。観覧車の軋む音が、頭の中で鳴り続けていた。
そして、遠くで笑う声が聞こえた。冷たく、嘲るような声。
その声が、俺の喉から漏れているような感覚が、再びよぎった。
倉井は目を閉じ、震える手で耳を塞いだ。だが、笑い声は止まらず、観覧車の軋む音と混ざり合い、頭を埋め尽くした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます