第4章 追跡の影

倉井恭司は、倉庫の奥で耳を塞いだまま、震える息を押し殺していた。観覧車の軋む音が頭の中で鳴り響き、冷たく嘲るような笑い声が耳にこびりついて離れない。外ではサイレンが近づき、無線の声が鋭く響く。「倉井恭司、東側倉庫付近で目撃情報。全員、慎重に接近しろ。」懐中電灯の光が倉庫の入り口を照らし、鉄扉の隙間から細い光の筋が闇を切り裂いた。警官の足音がコンクリートを叩き、埃が舞う。血まみれの手が床に赤い跡を残し、暗闇の中でかすかに光っていた。冷たい汗が額を伝い、目に入って滲みる。だが、動けない。動けば、見つかる。

「自分の身に移り入った殺人鬼が、俺を追ってくる。」

その確信が、頭の中で膨らみ続けていた。X。連続殺人犯。あの冷たい目、薄い笑み、血に染まった手が、俺の体を乗っ取って動き出した。吉杉を刺したのはXだ。そして、今、俺を追い詰めるために、俺の顔で署にいる。俺の声で命令を下し、警察を操り、俺を容疑者に仕立ててる。あの笑い声が、俺の喉から漏れてる。あの冷たい目が、俺の目で俺を見てる。

倉庫の床は冷たく、埃と油の匂いが鼻をつき、喉に引っかかる。頭の奥が軋むように痛み、遊園地の光が視界の端でチラつく。記憶が20代で止まっている。刑事学校を出たばかりの俺。正義を信じ、汗と埃にまみれて街を駆け回った若造。それ以降が、霧に閉ざされたように曖昧だ。50歳の俺がどんな人生を歩んできたのか、どんな顔をしてきたのか、まるで他人事のように遠い。だが、あの記事。「30年前、遊園地観覧車事故。家族4人死亡、生存者1名。倉井恭司、当時22歳。」俺だ。だが、覚えてない。家族を失った?そんな記憶はない。

「知らない…俺の過去じゃない。」

呟くが、声が掠れて闇に吸い込まれる。握り潰した新聞の切り抜きが、床に散らばっている。血まみれの手で触れた記事が、埃の中でかすかに光る。あの写真。血に染まった観覧車。ゴンドラが地面に叩きつけられ、鉄骨が歪んでいる。若い俺が、血まみれの手で呆然と立ち尽くしている。目が虚ろで、口が半開き。バッジを握り潰している。あれは俺なのか?

頭が混乱する。フラッシュバックが現実を侵食する。観覧車の軋む音、ゴンドラが落下する音、家族の叫び声。血に染まった笑顔。地面に叩きつけられる衝撃。だが、それは一瞬だった。次の瞬間、倉庫の闇に戻る。埃まみれの木箱、散らばった写真。

「逃げなきゃ…」

倉井は立ち上がり、倉庫の奥へ這うように進んだ。床のガラス片が靴底で軋み、かすかな音が響く。警官の足音が近づき、懐中電灯の光が鉄扉の隙間から伸びてくる。光が床の血の跡をかすめ、赤い筋が浮かび上がった。

「見つかる…」

倉井は息を殺し、倉庫の裏口へ向かった。半開きの鉄扉が風に揺れ、錆びた蝶番が軋む。外へ出ると、遊園地の敷地が目の前に広がっていた。プロジェクションマッピングの光がまだ揺れ、観覧車のシルエットが闇に浮かぶ。赤、青、黄の光が地面に揺らめき、まるで血の流れのように広がる。遊園地の廃墟が、風に揺れて不気味に軋む。ブースの電飾がチカチカと点滅し、遠くで子供の笑い声が聞こえた気がした。いや、笑い声じゃない。叫び声だ。

「Xが…俺を追ってくる。」

倉井は遊園地の敷地に足を踏み入れ、廃墟の影に身を隠した。観覧車の光が背後に伸び、赤い影を地面に落とす。頭の奥が軋むように痛み、メモの文字が浮かぶ。「お前は俺を観てる。」Xが俺を観てるのか?いや、俺がXを観てるのか?あの冷たい目が、俺を見てる。あの薄い笑みが、俺を嘲笑ってる。

「吉杉…誰だ?」

倉井はポケットを探り、血まみれの手でコートの内側をまさぐった。あのメモと一緒に、もう一枚の紙切れが出てきた。遊園地のスタッフ証だ。埃と血で汚れているが、写真と名前が読める。「吉杉隆一、遊園地イベントスタッフ」と書いてある。50代くらいの男。作業着姿。あの死体と同じ顔だ。だが、知らない。記憶にない。

「Xが…なぜ吉杉を?」

倉井はスタッフ証を握り潰し、頭を整理した。Xが俺の体を乗っ取って吉杉を刺した。だが、なぜ?吉杉はXの標的だったのか?遊園地のスタッフ。イベントの関係者。30年前の事故と関係あるのか?頭が割れるように痛み、フラッシュバックが再び襲う。観覧車の軋む音、叫び声、血に染まった笑顔。だが、吉杉の顔はそこにない。知らない男だ。

遊園地の廃墟を進むと、古いブースの残骸が目に入った。風に揺れる看板が軋み、「30年前の遊園地再現」と書かれたチラシが地面に散らばっている。倉井は一枚を拾い上げ、血まみれの手で埃を払った。チラシには、観覧車の写真と、イベントのスケジュールが書かれている。「閉園前の最後の日々を再現」とある。だが、その下に、小さな文字で何か書き込まれている。「生存者、倉井恭司へのインタビューを予定」と。

「何…?」

倉井の手が震えた。俺へのインタビュー?なぜ?俺が何を?30年前の事故。家族を失った。生存者。だが、覚えてない。そんな記憶はない。刑事学校を出たばかりの俺が、そんな目に遭ったはずがない。

頭の奥が軋むように痛む。フラッシュバックが再び襲う。観覧車の軋む音、ゴンドラが落下する音、家族の叫び声。血に染まった笑顔。地面に叩きつけられる衝撃。そして、遠くで笑う声。冷たく、嘲るような声。だが、その声が、俺の喉から漏れているような感覚がよぎる。

「やめろ…やめてくれ…」

倉井はチラシを握り潰し、遊園地の廃墟を走り出した。観覧車の光が背後に伸び、赤い影が地面を這う。警官の足音が遠くで響き、無線の声が近づいてくる。「倉井恭司、遊園地敷地内に潜伏。全員、慎重に進め!」

倉井は廃墟の奥へ進み、古い観覧車の基部にたどり着いた。錆びた鉄骨が風に揺れ、軋む音が頭の中で反響する。光のゴンドラが地面に揺らめき、まるで血の脈のように脈打つ。

「Xが…俺を追ってくる。」

倉井は観覧車の影に身を隠し、血まみれの手を握り潰した。だが、その手が、まるで他人事のように感じた。20代の俺の手じゃない。50歳の、知らない男の手だ。

そして、遠くで笑う声が聞こえた。冷たく、嘲るような声。

その声が、俺の喉から漏れているような感覚が、再びよぎった。

倉井は目を閉じ、震える手で耳を塞いだ。だが、笑い声は止まらず、観覧車の軋む音と混ざり合い、頭を埋め尽くした。


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