第8話 「私は、別に見られてもいいけど」
金曜日は部活がない。別に練習が嫌なわけではないけれど、私は少し安心していた。昨日の今日で有朱と顔を合わせるのは、さすがに気まずい。明日にもなれば、お互いに軽い気持ちで和解することもできるだろう。
今日の昼休みも、流愛は私の教室にやってきた。例によって余った椅子を引き寄せ、机に二人分のお弁当箱を乗せる。かなり手狭だけれど、まあ、文句は言えない。
「るーちゃん。この前の紅茶って、まだ残ってる?」
「残ってるよ。とこのためにとっておいたんだから。お菓子も、ちょっとだけなら。……ふふ。約束、覚えてたんだ」
「まあね」
できたら毎日、私の家に来てほしい。水曜日と金曜日は「できる日」なので、その約束が有効なのだった。
待ち遠しい。
別に、紅茶が残っているからではなくて。
流愛が一番喜ぶことは、たぶんこれなのだろうな、という感覚があった。流愛の家に、流愛の目の前に、流愛の中に、私がいること。
きっと、私が一生を流愛の家の中で過ごすことにすれば、彼女はもう安心だろう。自分を殺さず、他人を侵さず、学校生活も普通に送れるようになるはずだ。
そうなったらいいのに。
「――許子ちゃん、許子ちゃん」
ふいに、呼びかける声が届いた。
「
午上さんは、やや遠巻きに話してくれた。見れば、有朱の子どもっぽい目が、扉の陰から視線を送っている。扉の周りに数人の生徒が集まっていた。有朱に直接話しかけられた子が、私に取り次げる人を探して、何人かを当たったのだろう。面倒をかけたようだ。
「そっか」
私はそれだけを言って、流愛を見た。箸を宙に浮かせて、無表情で私を見ている。私といるときは、ほかの子は無視して。
私は午上さんに、穏当な笑みを向けた。
「ごめんね。ちょっと今、手が離せないからって、伝えてくれる?」
「……許子ちゃんが言ってあげればいいじゃん」
午上さんは優しげに言って、有朱を呼ぼうとした。
「有末さ――」
「とこはいま私とお話してるの。だから話せないって言ってるの。ほら、行きなよ。そう言っておいて」
流愛が午上さんを睨みつけながら言う。傍で見ているだけの私でも息がつまりそうになるほどの、むき出し嫌悪だった。
友だちでない相手に対して、流愛は基本的にこんな感じだ。私に向けられるあけすけな好意は、私以外にはそのまま裏返しにされてしまう。
「……わかった」
午上さんが言うのを聞いて、私は流愛に向き直る。流愛は柔らかく笑ってお弁当からウィンナーをつまんだ。
「とこ。約束、覚えててくれた?」
「うん」
「そっか。嬉しい」
ぱくぱくと箸を進めながら、流愛は言う。言葉の通り、機嫌のよさそうに見えた。
水筒で食べたものを飲み下してから、続ける。
「でもね、部活の子にも、もっとはっきり言ってあげないと。たぶん、わかってないんじゃないかな、あの子も」
「……そうかな。別に、るーちゃんの邪魔はしないと思うけど」
「うん。だけど、今回みたいなこともあるかもしれないし。やっぱり、私ととこのこと、知ってもらったほうがいいよ。クラスの子たちには言うのに、部活は特別なの? そんなの、不公平じゃない? それに、とこには私がいるのに、勘違いさせちゃったら可哀想でしょう? だから、やっぱりちゃんと言っておいたほうがいいって」
「そうだね。そうする」
そう言って、私は昼食の処理に取りかかった。おしゃべりに夢中で昼休みのうちに食べ終わりませんでした、なんて状況は避けたい。 トマト、ひじき、てりやき……毎度小分けにされているので、急ごうと思えばすぐだ。
流愛はと言えば、すでにお弁当は食べ終えて、グミの袋を開けていた。
「……それ、デザートなの?」
「いいでしょ。毎回入ってるの」
ほしい? と、いくつか手のひらに並べて差し出してくる。私は丁重に辞退した。昼間からお菓子を頬張って憚らないほど、私は体質に恵まれていない。流愛は長身な上に発育もいいから、気にならないのかもしれないけれど。
いや、別に私も気にしてないけど。
「るーちゃん。スイートポテト、いる?」
「いいの?」
「うん、あげる。お菓子のお礼」
じゃあ、遠慮なく――流愛は私の箸を受け取って、デザートのスイートポテトを口にした。美味しい、と笑って、ぺろりと唇を舐める。
流愛への負債がほんの少し減ったような気がして、私は満足する。
―――――
先日のことがあったので少なからず緊張していたけれど、今日は流愛の家でも変なことを口走ったりもせず、思いのほか普通に過ごすことができた。
二人でテーブルを挟んで、散らかった流愛の机を片付けたり、紅茶を置いて数学の課題をやったり。
とはいえ、流愛の気まぐれな性格を考えれば、まともに勉強が続くはずもなく――
「ねえ、もう休憩しよ? 私、疲れちゃった」
シャーペンをくるくる回しながら、流愛が机の向こうから笑いかける。
「別にいいけど……なんか、全然進まないね」
「うん。なんか私たち、ずっと休憩してるよね」
「流愛が集中しないからじゃん」
「でも、お茶がないと頑張れないよ。とこ、また紅茶淹れて?」
「……自分でやれば?」
「えぇ~。でも、とこが淹れた方がおいしいし……」
甘えるような声音に、私は少し呆れつつも、結局立ち上がる。流愛は満足そうに微笑んで、そのままベッドにごろんと横になった。
紅茶を淹れながらちらりと振り返ると、流愛はスマホをいじっていた。なにか動画でも見ているのか、時折くすくすと笑う声が聞こえる。
「何見てるの?」
「んー? とこと撮った写真とか。ほら、見てみて」
私が戻ると、流愛はベッドの上でスマホを掲げたまま手招きしてくる。まるで、子どもが親を呼ぶみたいな仕草だった。
「椅子に座ればいいのに……」
「え~、ここで見る方が楽じゃん」
テーブルに紅茶を置いて、隣に座った。流愛が自然に距離を詰めてくる。肩が触れ合うくらいに、近く。画面よりも、隣で楽しそうに笑う彼女の横顔の方が気になってしまう。
「ほら、この写真。とこ、めっちゃ笑ってる」
「ああ……本当だ」
自分が感情を露わにしている姿を客観的に眺めるというのは、なんだか気恥ずかしい。自然と生返事になってしまう。
「最近、こういう顔、見てない気がするな~」
「そんな、急に言われても」
「じゃあ、くすぐっちゃおうかな」
流愛が悪戯っぽく指を動かす。私は慌てて身を引いた。
「ちょっ、やめて、るーちゃん!」
「あはは、やめない」
狭いベッドの上、私は逃げ場をなくしてしまう。流愛の指先が軽く私の腰をつつくたびに、変な声が漏れそうになる。
「もう、ほんとに……!」
「ふふっ、やっと笑った」
ふわりと、流愛が私の袖を引く。今度は本当に、ただそっと掴むだけの動作だった。
「もう……制服がしわになる……」
「そうだね。着替えよっかな」
「どうぞ」
私はベッドの上に乗って壁のほうを向いた。白い壁紙は、古さを感じさせるわりには綺麗だ。
「……どうしたの?」
「どうって……。着替えるんでしょ?」
「うん。着替えるけど……それが?」
着替えるけど、それが。
なんなのだろう。
私は頭の中でその問いを咀嚼して、上下左右から眺め回して、再三再四検討して、けっきょく、別になんでもないと結論するほかないことに気づいた。
「……えっと、まあ、そうかもね。じゃあ、見てるけど」
「……とこ、ひょっとして」
「いや、なんでもないでしょ? これくらい。女子同士なんだから。大体、もう何度も見てるし」
「そうだよね?」
言いながら、流愛はベッドから立ち上がってスカートを脱ぎ始めた。スパッツを脱ぐ前に焦点を外して、視界にモザイクをかける。
……なんでこんなことまでしなきゃいけないんだ。
「……ねえ、本当に見てる?」
「ど、どういう質問?」
流愛は前かがみになって、私の顔を覗き込んだ。からかっているのか照れているのか、にやにやとした笑みが貼りついていた。
「私は、別に見られてもいいけど」
「私も、別になにも思わないけど」
だよねー、と言いながら、流愛は私の視界を占領したまま、ブラウスのボタンを外し始めた。グレーに黒のドット模様の下着が覗く。
「……なんか視線がいやらしいんだけど」
「別に、普通に見てるだけだよ」
大体、揃えてもないくせに。よくもそんな自信満々に……。
「本当かな~」
楽しげに笑いつつも、さすがに恥ずかしくなってきたのか、流愛は体を引いて普通に着替え始めた。すらりと伸びた手足に、白い肉が薄くはりついている。同い年とは思えなかった。
シャツを脱いで、クローゼットから部屋着のワンピースを取り出す。ピンク色で、フリルのフードが付いていた。初等部のころは外にも着て来ていたけれど、最近は部屋着になっているようだ。それでもなんだかんだ着続けているあたり、お気に入りなのだろう。
「最近は、切ってないの」
「うん。もう一週間くらいは」
そう言って、ワンピースを頭から被り、袖口から腕を出す。くしゅくしゅになった袖を引っ張ると、左腕の蚯蚓腫れが隠れた。
流愛の答えに、私は安心する。最近の流愛は穏やかだった。このまま行けば、心の病もすっかり癒えるかもしれない。そうなってくれればいいと思う。できれば、友だちの血なんてもう見たくない。
「るーちゃん。いま、幸せ?」
「うん。……なに、心配してくれてるの?」
流愛は私のほうを見て、にんまりと笑った。
「大丈夫だよ。とこがついてるから。とこが一緒にいてくれるなら、おかしくなったりなんてしないよ」
そう言いながら、ベッドに座った私を正面から抱きしめる。ワンピースのピンクが視界を占領した。
「私、とこがいてくれれば、もう何もいらないから。とこが、私の全部なの。優しくて、可愛くて、あったかくて……大好き。これからも、私の精神安定剤になってね。もう、とこがいないと生きていけないよ」
「うん。ありがとう」
私は安心して、流愛の背中を撫でた。みぞおちの辺りが、じんわりと温かくなる。よかった。きっと、これで大丈夫。きっと彼女はこれから、彼女にふさわしい平穏な日常に帰っていくのだろう。そう思うと、抗いがたい安堵感で全身がぐにゃりと弛緩するのを感じた。
流愛がこれから、元の明るさを取り戻してくれたらいい。望むだけの幸せが、流愛に注がれればいい。
そう思った。
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