第7話 「とこも可愛いよ」

「とこ、おはよ」

「うん……。おはよ、るーちゃん」


 翌朝。いつものようにマンションの下まで迎えにきた流愛と、いつものように並んで通学路を歩く。普段なら、人の少ない間は手を繋いでくるのだけれど、今日はその限りではなかった。


 ……気まずい。


 今日の流愛はやけに遠慮がちだ。直球な愛情表現は鳴りを潜め、口数も少ない。どころか、目が合うたびに恥ずかしそうに微笑む始末で、まあ、なんとも奥ゆかしい限りではあるけれど……。


 ふと隣を見ると、流愛もこちらを見ていた。視線がぶつかると、流愛はぱっと目を逸らしてしまう。

 なにか話さなきゃ。そう思うのに、喉が上手く動かない。なにを言おうかと考えるたびに、昨日の会話が思い起こされて、顔が熱くなってしまう。きっと、流愛も同じだろう。そわそわと袖口を弄る指先が、落ち着かない様子を物語っていた。


 それでも、私は意を決して口を開く。


「……昨日は、楽しかったね」


 流愛の肩がぴくりと揺れた。


「うん……楽しかった」

「……うん」


 沈黙。会話はそこで終わってしまう。


 ……どうしよう。


 思えば、流愛との接しかたなんて、考えたこともなかった。いつも彼女ほうから私を求めて、私はそれに応えるだけ。献身的と言えば聞こえはいいけれど、なんだか私が一方的に楽をしてばかりのようにも思える。


 ここはひとつ、私のほうから歩み寄らなくては。

 ろくに考えもまとまらないまま、ほとんど衝動に駆られるままに口を開いた。


「……その、なにか、してほしいこととか、ない?」

「え?」


 流愛は虚を突かれたような顔になる。私も、自分で驚いていた。

 なんで?

 自分からなにかしなくちゃと、そう思って口にしたのに、どうして流愛からの要求を要求(?)してるんだ?


 しかし、私の本意など知る由もない流愛は、そのことに驚いたわけではなかった。


「なんでわかったの?」


 と、目を丸くして言う。本当にしてほしいことがあったらしい。いや、考えてみれば当たり前か。私たちは、ずっとそういう関係だったのだから。私が流愛から聞きたいことがあったように、流愛も私に言いたいことがあったとしても、驚くようなことではない。


「るーちゃんのことならなんでもわかるんだよ、私は」


 そう言うと、流愛も


「ふふ、そっか。そうだよね」


 と笑って、私と目を合わせてくれた。ようやく調子が戻ってきた。流愛は笑みを浮かべたまま、言う。


「とこ、部活が終わるのって、何時?」

「いつもは六時ごろだけど……」


 言いながら、私は流愛の次の言葉をなんとなく予想していた。


「迎えに行ってもいい? これからは、一緒に帰ろう」

「うん。そうしよう」


 私は笑って、いつものように流愛の願いを受け入れた。


――――――


 その日の部活動は、三年生の先輩のひとりが欠席だった。体調不良とのことだ。謝罪のメッセージに励ましの返信を送りつつ、私たちはぐだぐだと身の入らない練習を始める。パートリーダーでもあり、練習をおもに仕切っていたのもその先輩だったので、彼女がいないとどうにもしまらないのだ。

 そうでなくても、メンバーが欠けるとなんどなく気が散ってしまう。練習はひとつのパートとしてするものだと、なんとなく思っているのかもしれない。そんなわけで、一時間も練習すると、あとは解散を待つだけというようなムードになってしまっていた。


鴻野こうの先輩、練習しなくていいんですか」


 末結がべったりと頬杖をついて言う。ポニーテールの枝毛を弄りながら、鴻野の先輩はぞんざいに口を開いた。


「そんなの、しなきゃだめに決まってるでしょう」

「じゃ~練習しましょうよ。なにやってるんですか」

「末結ちゃんと同じことだよ」


 先輩たちがこうだと、唯一の一年生である有朱もそんな感じになってしまう。つまり、楽器をその辺に置いて、机の上にぐでっと伸びた感じに。


「ゆい先輩、練習しなくていいんですか」

「そんなの、しなきゃだめに決まってるでしょう。……これ、私たちもやるの?」


 気の抜けた会話に、つけっぱなしのメトロノームが重なっていた。これがいまの私にできる、最大限練習っぽい行動である。

 有朱は机ごしに腕を伸ばして、私の肩に手を置いた。


「じゃ~練習しましょうよ。なにやってるんですか」

「有朱と同じことだよ」


 しょうもない……。


 私は窓の外に目を向けた。綺麗な夕焼け空。今日は解散までこんな具合だろう。まあ、いい。明後日からがんばろう。


「ゆい先輩、最近ちょっとお疲れじゃないですか?」


 ふいに、有朱がそんなことを言った。


「……え?」

「いや、なんか、元気ないなーって」


 有朱は私の肩に手を乗せたまま、私のほうをじっと見上げる。珍しく、無表情。いつものような何気ない口調だけれど、その瞳に、なにか気持ちが引っかかるような感じがして、私は目をそらした。


「そんなことないよ」

「本当に?」

「本当だって。たぶん、練習する気にならないせいで、そう見えるだけ」


 そう言って笑ってみせる。けれど、有朱はまだ納得していないようで、唇をすぼめながら、私の肩をぽんぽんと叩いた。


 「……なに?」

 「なんでもないです。ただ、こうしてたら、ちょっとは元気出るかなーって思って」


 冗談めかして言うくせに、その手は意外と真剣だった。ほんの少しだけ、力がこもっている。


 私は曖昧に笑って、もう一度窓の外へ目を向けた。

 三年C組の空。見飽きてこそいるけれど、いつまでも慣れない感じがする。たぶん、部活動限定の、特別な空だからだろう。


「先輩、なにかあったら、私にも言ってくださいね。話すだけでも、楽になったりしますから」


 有朱は微笑んでそう言った。夕日の赤が差して、外の風景よりずっと綺麗だった。


「うん。そうする」


 なんだか胸の奥を握られるような感覚を覚えながら、私はまた有朱の眼を見た。

 微笑みが、いっそう深くなる。


「そうだ、帰りにコンビニ寄っていきません? 気分転換しましょうよ、明日のためにも!」


 有朱は立ち上がって言った。いつでも元気そうな子だ。この子からしたら、私なんていつも疲れているように見えるのかもしれない。


「ああ……。ごめんね、今日からは友だちと帰るから」

「えっ」


 肩透かしを食らったような顔になる有朱に、私はあわてて付け加える。


「ほら、末結と行ってきなよ。ねえ、末結なら、一緒に行けるでしょ?」


 私は末結のほうを振り返る。彼女は少し困ったように眉を寄せて、私を見ていた。


「許子……」


 どこか諌めるような響きの声音で私を呼ぶ。なにを考えているのだろう。


「今日からって。えっと……先輩。それって、毎日、ですか」


 微妙な笑みを浮かべながら、有朱は遠慮がちにそう聞いた。


「うん。ごめんね。用があったら、ミーティングのあととかにお願いしていい?」

「じゃ、じゃあ、私とは……」


 声が少し震えている。有朱とは、なんだろう。

 末結がどことなく硬い口調で聞いた。


「許子、友だちって、誰」

「るーちゃん……ああ、義河さん」


 私が答えると、末結は一瞬だけ唇を噛んで、けれどすぐに明るい表情を浮かべた。


「そっか。義河さんに誘われたの?」

「うん。迎えに行くから、一緒に帰りたいって」

「そうなんだ。でも、有朱ちゃんも許子と帰りたいだろうからさ。たまには、有朱ちゃんと帰る日も作ってあげてね」


 私は、言葉に詰まった。言うべきことは決まっている。わかった、そうする、今度一緒に帰ろうね。そう言う以外に、なにがある? けれど、私の頭はその理屈を受け入れられない。それをかき消すように、だんだんと真っ白に塗り替えられていく。


「あ……あのっ。いいんです、ゆい先輩が、私じゃ嫌なら。先輩、私なんかより仲良い人がいるんですよね? なら、その人と帰ってください。私はいいんです。先輩に、なにもしてあげられないですし……そんな、絶対一緒じゃなきゃ嫌ってわけじゃ、ないですから」

「有朱ちゃん!」


 末結は立ち上がって、有朱のほうに回った。後ろから腰に手を回して、明るく言う。


「今日は、私と鴻野先輩と帰ろっか。許子だって、有朱ちゃんと帰りたくないわけじゃないって。ね、先輩。いいですよね」

「いーよ。コンビニと言わず、ファミレスでも。安いやつなら奢るよ」

「きゃー、鴻野先輩、愛してます!」

「安い愛だね……」


 鴻野先輩は呆れたような笑みを作る。末結は有朱を抱きしめたまま、耳元に口を寄せて、いたずらっぽく言った。


「それに、許子の前じゃ言いにくいこと、いろいろあるでしょ」

「なっ、なにがですが!?」


 有朱は見る間に顔を真っ赤にした。末結はくすくすと笑いながら有朱の拘束を解き、自分の楽器のほうに戻っていく。有朱は手のひらでぱたぱたと自分の顔をあおいで、私と目が合うと少し気まずそうに会釈をした。


 私はちょっと笑いかけて、楽器に視線を落とした。

 あとで、末結にはお礼を言っておこう。有朱にも、謝らなくてはならない。


 思い出して、私はメトロノームを止めた。


――――――


 女の子を夜道にひとりで待たせておくのは好ましくない。ミーティングが終わったあと、私はなるだけ急いで流愛との待ち合わせ場所に向かった。


 学校の最寄り駅に併設されたモールの、入口の前。


 徒歩通学の私たちにとっては、単に通り過ぎるだけの風景のひとつだけれど、待ち合わせの目印にはちょうどよかった。


 流愛は私服に着替えている。スウェットのパーカーに、ほとんど隠れる丈のミニスカート。腰まで届く黒い髪が、白い肌とのコントラストを際立たせている。


 可愛い。よりも先に、危ないと思ってしまった。


 私が駆け寄ると、流愛はすぐに気づいて手を振ってくれた。


「おまたせ、るーちゃん」

「ううん、全然。位置情報見ながら来たから、ほとんど待ってないよ」

「そっか。よかった」


 私は流愛と並んで、帰り道を歩いた。駅の近くは密集するお店の灯りに満たされて明るかったけれど、帰路を辿っていくうちに周囲はどんどんほの暗くなってくる。


 夜道を流愛と歩くのは新鮮だった。流愛のカジュアルな服装は、この時間の街によく馴染む。制服を脱いで、学校から出ると、流愛はこんなにも生き生きして見えるのだ。


 それが、少し辛い。


 やっぱり流愛の服装が危なっかしく思えて、私はちょっと身を寄せた。 流愛は気づいたように私を見上げると、ふっと笑った。


「どうしたの?」

「……別に」

「ほんと?」

「……ちょっと寒いかなって」


 言い訳じみた言葉を紡ぎながら、私は流愛の隣を歩く。彼女は少し目を細め、私の袖を軽く引いた。


「じゃあ、もっとこっち来て?」


 からかうような声音に、私は抵抗もできずに歩幅を合わせる。街頭の下を通るたび、二人分の影が私たちの隣を抜けていく。


「とこって、たまに過保護だよね」

「え、なんの話?」

「へえ、とぼけるんだ」


 流愛はスカートの裾をつまんでひらひらと揺らした。


「――ちょっとそういうことっ……!」

「あははっ! 大丈夫だって、これくらい」

「……大丈夫でもやめて」


 確かに、この程度のことでどぎまぎしていては、過保護と言われても仕方ないかもしれない。うるさい母親みたいなことを言っていると、自分でも思う。


「……でも、とこがそうやって心配してくれるの、ちょっと嬉しいかも」


 流愛はそう言いながら、私の腕に自分の腕を絡める。ぴたりと密着する距離に、思わず足が止まりかけた。


「るーちゃん?」

「寒いんでしょ? じゃあ、もっとくっついて歩こう」


 私は返事に詰まる。自分で言ったことなので、いまさら違うとも言いづらい。流愛は満足そうに微笑んで、しなやかな指先を私の袖口に遊ばせる。


「ねぇ、とこ」

「なに」

「さっきさ、待ち合わせのとき、『可愛い』って思ったでしょ?」


 一瞬、息が詰まる。


 けれど、すぐになんでもないことだと思い直した。


「うん。るーちゃん、いつもお洒落だよね。羨ましいよ。可愛いし」

「ありがと。……それだけ?」


 思わず流愛の目を見る。いたずらっぽい笑みを浮かべて、べったりと私に体を寄せている。


 なんだか、自分の考えが酷く汚いように思えて、私は慎重に言葉を選んだ。


「うん、それだけだよ。でも、ちょっと怖いかも。もう暗いし……」


 るーちゃん、可愛いから。


 とは、言いたくなかった。


 流愛はくすくすと笑い、楽しそうに言う。


「とこも可愛いよ。そういうところ、すごく可愛い」

「ど、どういうところ?」

「うーん……純粋なところ、かな」


 そう言うと、ぐっと私のほうに体重をかけてきた。足取りがその方向に押されて、私は立ち止まる。


「とこのそういうところを好きになる子、いっぱいいると思うよ。とこは気づかないかもしれないけど……ううん、気づかないからこそ、かな」


 流愛は、私の腰に手を回して、あごを肩に乗せた。私が抱きかえすと、流愛はくすぐったそうに笑う。


「……どうしたの?」

「いや……たぶん、危ないのはとこのほうじゃないかなって」


 流愛は私の腕の中で、わずかに身を捩った。まるで少しでも深く抱き合おうとするかのように。私も、背中に回した腕に、もう少しだけ力を込めた。


「でも、大丈夫だからね。そういうのは、全部私が見てるから。とこは安心して、変わらないままでいてね」


 スカートごしに、流愛の素肌を感じる。夜と、パーカーと、黒髪との微妙な色合いが、はっきりと見て取れた。


「うん。ありがとう」


 安心して、変わらないままでいる。


 それは、私が一番求めていたことかもしれなかった。

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