第6話 「好き。好き。大好き」
流愛の家に招かれたことはもう何度もあった。
初等部のころも、何人かの友だちと一緒に訪ねたことがあったけれど、やはりいまの彼女との思い出として記憶されているのは、あの家で二人きりですごした時間だった。
日が高いうちに学校を出るのは、毎回不思議な気分になる。午後の日差しが目にしみる。寝不足なのだろう。家も道路も街路樹も、真昼の陽光の中でくっきりと鮮明に輪郭を主張している。
「とこが家にくるの、久しぶりだよね。嬉しい」
前を歩く流愛が、顔だけで振り向きながら言った。 道はもうすっかり覚えてしまっていたけれど、私は流愛のあとについて通りを歩いていく。
「今日は、いつまで居られる? いっぱいお話したいよね」
「そうだね。私はいつも部活で遅いし、るーちゃんの家が許してくれるだけ居られると思う」
私が言うと、流愛の笑顔に陰りがさした。しまった。急いで言い訳を思案する。
「そっかあ。それくらいの時間、私と一緒の日以外は毎日、吹部の子たちと一緒なんだもんね?」
「そうだけど……でも、練習してるだけだよ。毎日大変だし、みんなが仲いいわけじゃないし……るーちゃんみたいな子はいないよ」
「でも、この前は楽しそうだったよね」
まるでそれを喜ぶかのような口調と表情で、流愛は言う。どきどきと心拍が上がってくる。血が集まったかのように目が熱くなり、反対に口の中は渇いていった。
「……ごめん」
「なんで謝るの」
流愛は足を止めて、体ごと向き直って、私の手をとった。
「とこが嬉しいなら、私も嬉しいよ。だから、我慢なんてしないで、とこの自由にしてほしいな」
「……じゃあ、できるだけるーちゃんと一緒にいたいかな。それで、私と同じくらい喜んでくれたら、嬉しいんだけど」
私の言葉に、流愛は息を呑んだ。
「もちろん」
ふにゃ、と流愛はとけるように顔をほころばせる。うん。いまのセリフは、我ながらよかった。
私も流愛と同じ気持ちだ。流愛が嬉しいなら、私も嬉しい。ひょっとしたら、私たちは本当に幸せな友だちなのかもしれない。そんなことを思ってみた。
流愛は私の手をとったまま、ふたたび歩き始める。細い路地をいくつか抜けると、風景は植え込みが目に付く住宅街に変わっていった。大きくて綺麗で、似たような家々の間を歩いていく。初めて来たときは、迷路のように思ったものだ。道はどれも同じように見えるし、フェンスの間の脇道もいくつか渡ることになる。いまでも、流愛の家以外の場所に迷わずに行くのは難しいと思う。
やがて、一軒分の広さの空き地に行き着く。なにかの区画の角になっているらしく、その空き地に張られたロープと直角になる位置に、流愛の家の玄関はあった。
ここに来るたび、私は行き止まりに着いたような気持ちになる。私はこの辺りには流愛の家くらいしか行くところがないし、この場所から先に直接繋がる道はない。なぜか空き地になっている土地の、その向こう側に続く街並みは、目には見えてもこちらとは別の世界だった。
だから、行き止まり。
ここで終わり。
「着いたよ。ほら、上がって」
流愛は駆け足で私の手を引いて、玄関の鍵を開けた。流愛の両親は共働きで、早くとも午後八時までは家に一人なのだという。
玄関に入ると、流愛の匂いがした。
当たり前だけれど。
「今日はね、ちゃんと準備してたんだよ。とこと約束してたから」
流愛はそう言ってスリッパを揃え、私に手渡した。綺麗な家。うちの母は専業主婦だけれど、わが家がこんなに清潔だったことは、おそらく入居して以来一度もないだろう。
「準備?」
「お菓子とか、紅茶とか。前に見に行ったところで、いろいろ買ってきたの」
いつだったか、二人で駅の地下にお菓子を見に行ったことがあった。そのとき、いつか食べてみたいねと話していたのを覚えていたのだろう。
「すごいね、るーちゃん。本当にやるとは思わなかった」
「えへへ、やると決めたらやるよ。とこが喜んでくれるならね」
二階の流愛の部屋に通される。私の手をとってソファに座らせると、流愛は少し待ってて、と言ってキッチンに向かった。小さなティーテーブルの上に、可愛らしいカップとお皿が並べられる。テーブルの下からお菓子の箱を出して、クッキーやフィナンシェを盛りつけていく。
「もうちょっと待っててね。紅茶も淹れてくる」
ふたたびキッチンへと駆けていく流愛を見送って、私は改めてテーブルの上のお菓子に目を落とした。
私が訪ねるたびに、何くれともてなしてくれる流愛だけれど、これほどの歓待は初めてかもしれない。私の喜びが流愛の喜びだと、そう言ってくれたのはやはり本当なのだろう。けれど、お菓子の入っていた箱の重厚さが、なんとなく私の心を重くしていた。
「じゃーん。今日はアールグレイにしました」
部屋に戻ってきた流愛が、片眼をつむって得意げに言う。掲げられた小さなティーポットからは、ふんわりとした香りが漂っていた。
「待ってましたあ」
私は手を叩く。こういうノリであってるのかはわからないけれど、まあ、中学生のお茶会なんてこんなものだろう。
ポットから紅茶を注いで、私たちはそれぞれお菓子を手にとった。フィナンシェを一口。
「……おいしい」
「でしょ? がんばって買いに行ってよかった」
濃厚な味のフィナンシェをゆっくりと咀嚼しながら、この子は本当に私のことが好きなんだなあと改めて思う。なんだか食べ物に釣られているみたいだけれど、それでも。
「とこ。来月の予定って、もう決まってる?」
「いや……あんまり。どうして?」
私は紅茶に口をつけながら聞く。
「できたら、毎日家に来てほしいなって。ほら、二人っきりの時間が長いほうが、嬉しいでしょ?」
「うん。そうしよっか」
流愛は満足そうに笑って、クッキーを頬張った。
その仕草を眺めながら、私は小さく息をつく。
この部屋にいると、時間の流れが緩やかになる気がする。学校でのクラスメイトとの会話や、自分の家での流愛とのやり取りに潜む微妙な緊張感が、ここにはない。流愛が目の前にいて、笑っている。それだけで、こんなに安心できるなんて。
「ねえ、るーちゃん」
「なあに」
私は流愛に肩を寄せて、言う。
「私も、できるだけるーちゃんと一緒にいたい。悲しかったり寂しかったりしたら、すぐ言って。我慢しないでね。るーちゃんが、一番だから……一番、大事だから」
言いながら、だんだん恥ずかしくなってきた。声が震える。流愛の顔が見れない。流愛はすぐには答えなかった。数秒、沈黙が流れる。私は気まずくなってきて、間をもたせようと紅茶を手に取る――直前、流愛が覆いかぶさるように抱きついてきた。
私の胸に顔をうずめて、全身でしなだれかかるように。これまでも抱き合うことは何度もあったけれど、こんな風に、全身を投げ出されるようなハグは初めてだった。見下ろすと、同じ色の制服が混ざりあうように見えた。ドキドキと高鳴る心音が伝わってしまいそうで、私は抱きかえすのをためらう。
しばらく無言の時間が続いたが、やがてうめき声が聞こえてきた。悲痛でも激昂でもなく、抑えきれない喜びがそのまま溢れ出ているような。そんな声だった。
「あー……。好き。好き。大好き。本当……うー……」
ぐりぐりと、流愛は私の胸に頭を擦りつける。黒い塊がもぞもぞと甘えてくる様子は、なんだか動物みたいでつい和んでしまう。流愛の髪を撫でながら、私はいつの間にか溜まっていた心労がどろどろに溶かされていくのを感じていた。
しばらく、そうして言葉にならない感情を分け合うと、流愛はようやく体を起こした。少し気まずそうな笑みを浮かべて、乱れた髪を整える。
「えへ、語彙力なくなっちゃった。ごめんね?」
「ううん。嬉しかった」
つい、声が上擦る。流愛の言葉に、こんなに素直に答えられたのは久しぶりかもしれない。なにかの栓がバカになってしまったかのように、私の胸に多幸感が満ちていた。流愛の髪が、瞳が、口元が、輪郭が、夢のような鮮やかさで網膜に焼き付く。
「私も嬉しい……ああ、とこ。私たち、ずっと友だちだからね」
流愛はそう言いながら、食べかけのクッキーで私の唇をつついた。大人しく口をあけて、それを受けとる。
「絶対、ぜったい一緒にいようね。私ととこは一生の友だちだから。離れないでね。ほかのところに行っちゃ駄目だよ」
こんどはフィナンシェを手に取る。私も口をあけて待った。そっと舌の上にそれを置くと、流愛は私の唇をつんと突いた。
「私、一生、とこのこと一番大事にする。だからとこも、私のこと一番に考えてね。一番大切にして。誰よりも大事にしてくれるよね?」
カップを手にとって、そっと私の唇につける。私が少しだけ開いて受け入れると、流愛はそれを傾けた。もうぬるくなっているので、簡単に口にすることができた。こぼれた液体がひとすじ、唇の端を伝う。流愛はそれを人差し指ですくって舐めとった。
「うん。そうする」
お菓子の甘い匂いと紅茶の華やかな香りが頭の中で混ざりあって、私はくらくらしながら流愛に答えた。よかった。嬉しい。きっと、流愛も同じ気持ちだ。
流愛が嬉しいなら、私も嬉しい。
私が嬉しいなら、流愛も嬉しい。
それはきっと、こういうことなのだろう。
私たちはしばらく、安心感の中でどろどろになって、ひとつの気持ちを感じ続けていた。
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