第5話 「無視して」

「とこ。明日、私の家に来ない?」


 翌日の昼休み。お弁当を食べ終えて、二人で階段にもたれていると、流愛はそう私を誘った。


「うん、いいよ」


 もちろん私はそれを受けた。最近の流愛は輪をかけて病んでいるようだから、なんとかして励ましてあげなければと、ちょうど思っていたところだ。なんとかして、安心させてあげたい。


 満足そうに微笑む流愛を視界の端におさめつつ、私は顔をあげて辺りを見回す。

 学校の広い踊り場には大きなガラス張りの窓があり、渡り廊下の先の三年生の校舎がよく見える。ぼんやりと眺めていると、誰かが手を振っているのに気がついた。三年の先輩だ。ひらひらと小さく手を振り返すと、向こうも気づいたように一際大きく手を振って、隣の友だちと思しき生徒と笑いあっていた。


 仲良しなんだなあと思いながら、なんとなく手を振り続けていると、流愛がその手を握った。押さえつけるように下まで引っ張りおろして、不機嫌そうな目で言う。


「なにしてんの」

「ちょっと、部活の先輩がいたから……」

「無視して」


 流愛は頬をふくらませて、私を引き寄せるように繋いだ手を引く。至近距離で私の目を見つめた。


「私といるときは、ほかの子は無視して。一緒にいるときくらい、私に集中してよ」

「わかったよ。ごめんね、これからはそうする」


 私は笑って、流愛の頬に手をあてた。流愛がわがままを言ったり、不満を口にするたびに、私は嬉しくなる。流愛にはできるだけ我慢させたくない。自分を殺してほしくない。自分を傷つけてほしくない。私にできるようなことなら、なんでも言ってほしかった。


 以前、進級してすぐのころ、クラスのちょっとした親睦会に参加したことがあった。黙っていくのは悪いと思って流愛に相談したところ、楽しんできてと言われたので、そのとおりにすることにしたのだ。

 けれど、帰ってきて気がついてみると、通知欄いっぱいに、未読メッセージと不在着信が並んでいた。あわててかけ直すと、電話の向こうで流愛は泣きじゃくった。やっぱりだめだった、不安になっちゃった、独り占めしちゃだめって思ってるのに、こんなのおかしいのに、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――


 それから、私は流愛の言葉のひとつひとつを、裏の裏まで一心に聞くようになった。丁寧に、流愛の言いたいことを、流愛の言ったことの中から掬い上げる。彼女のことを重いと感じていたこともあったけれど、いまはこうして、素直に独占欲を表してくれることが嬉しかった。


「とこ、やっぱり優しいね。大好き」


 流愛は左手を私の手に重ねて、くすぐったそうに、うっとりと言う。


「うん。私も好きだよ」


 私の言葉に、流愛が熱い息をもらしたのが、手のひらに伝わってくる。

 私は流愛の頬をさするように、少し右手を動かした。


――――――


「先輩たちって、いつもどこで髪切ってるんですか?」


 練習後のミーティングの前、教室の鍵を返しに行く道中で、有朱が訊ねた。誰が鍵を返却するかはもともとじゃんけんで決めていたのだが、いちいち決めるのも手間だろうと思って、すこし前から私が自主的に買って出ていたのだ。まあ、毎度のように二人がくっついてくるため、実際に返すのは末結だったり有朱だったするのだが。


「私と許子は、近所のおばちゃんがやってるとこ……。知らないでしょ。私の親繋がりだからね。どうして、また?」


 末結が聞き返すと、有朱は髪をひとふさ摘んで指にくるんと巻きつけた。


「いやあ、そろそろ切りに行きたいんですけど、どのくらい切ろうかなと思って。二人とも、長めですよね」

「まあ、確かにね」


 揃えているわけではないけれど、私と末結は大体同じくらいの長さだった。いつだったか、この骨格だとロングのほうが似合う、と末結が言っていたことを覚えている。私は、まあ、ショートだと華がないかな、くらいの消極的な気持ちで伸ばしていた。流愛のような綺麗な髪でもないので、別に伸ばしたって華はないけれど。


「私ももうちょっと伸ばしたいんですよね。この長さのツインテって、小学生みたいじゃないですか」

「そうかもね……有朱ちゃん、それ、ほどいたらどれくらいなの?」

「これくらいです」


 ヘアゴムを外して、有朱は言う。今日は赤い花の飾りがついていた。髪をおろすと、なんだか別人のようだ。

 末結は唸りながら、腕を束ねて有朱の周りを回る。それに合わせて、有朱もじりじりと回転した。


「有朱、末結は後ろから見たいんじゃないかな」

「はっ、そういうことでしたか」


 私が言うと、有朱はくるりと振り向き、末結に背中を向けた。末結は笑いながら言う。


「確かに、もうちょっと伸ばしたらいろいろ弄れて楽しいかもね。あんまり詳しくないけど……」

「そうですね、ツインテールが三つ作れるかもしれません……って、それもうツインじゃないですけど! あははっ!」


 背後の末結にそう言いながら、正面の私にウィンクして見せる有朱。こういう愛嬌がほんの少しでもあったら、私の人生も大分変わっただろうな、という意味の微笑みを送りかえした。


 有朱は末結に向き直って言った。


「せっかくなので、先輩たちの美容院、私にも教えてくれませんか。先輩と同じ髪型にしたいです」

「同じ髪型はともかく、いいよ、後で教えてあげる。アレンジのことなら許子に聞きなよ。髪フェチだから」

「人聞きの悪いことを」


 言いながら、私は有朱の髪を軽く梳く。少し猫毛。抵抗がないことを確かめてから、いつも結んでいる位置でツインテールを作ってみる。柔らかく押し返してくる髪の手応えを、指先で感じる。ひとつにまとめてみたり、ちょっと編み込みっぽいことをしてみたり。有朱の髪は素直で、やっぱりこういうところにも人柄は出るのだろうか、なんて思ってみたりする。楽しい。どうして自分の髪より面白いんだろう。


「許子、許子」


 夢中で弄っていると、末結が困ったような笑みを浮かべながら言った。


「有朱ちゃんが、こう……すごいことになっちゃってるから」

「すごいことって?」

「見なよ」


 そう言われても、私には髪しか見えない。いや、フェチだからとかではなく、物理的に。

 しかし、その髪の隙間からのぞく耳が真っ赤に染まっているのは見て取れた。私はびっくりして言う。


「え、有朱、どうしたの? 大丈夫?」

「……だいじょうぶです」


 声が震えている。なにがあったのだ。私は有朱の肩を掴んで、こちらに向き直らせた。

 見ると、頬は紅潮し、瞳は潤み、唇は引き結ばれ――明らかに尋常な状態ではなかった。


「ええっ、ど、どうしたの本当に。ごめん、なにかしちゃった?」

「いえ、その、そういうわけでは……」


 視線がぶつかるたびに、熱いものに触ったときのような早さで逸らされる。


「その、すごい、よかったんですけど……こ、これ以上は保たないので、この辺にしてもらえると……」


 そう言われてまで他人の髪を触りたがる私ではない。大人しく引き下がると、今度はそれも止められてしまった。


「あ、いや、待ってください! 最後に、ゴムだけつけてもらっても、いいですか……?」


 花飾りのヘアゴムを差し出しながら、有朱は細い声で言う。本当、普段の快活さはどこへ行ってしまったのだろう。

 私はゴムを受けとって、伸ばして見せた。


「もちろん。ありがたく結ばせてもらうよ」


 ふたたび背中を向けた有朱の髪を梳いて、ふたつにまとめる。あんまりじっくりやるといよいよ変態みたいなので、なるだけ手早くすませた。

 柔らかそうな黒い髪に、赤い花がぶら下がる。

 真っ赤な耳がよく見えるようになった。

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