あの姉ちゃんは孤高の天才でもなんでもない、と赤ら顔で君は言うけれど
桜木潮
あの姉ちゃんは孤高の天才でもなんでもない、と赤ら顔で君は言うけれど
孤高の天才? そいつは一体誰のことだい? あ、もしかしてアイツのことか? 山奥のボロ屋敷に日がな一日こもってる、風変わりな姉ちゃん。眼鏡かけてて、冬毛の狸みたいにもこもこ膨れた頭をして、赤とか黄色のケバい色がそこらに付いた妙ちきりんな格好してる姉ちゃん。そいつのことならオイラだって知ってるよ。あんた、オイラを誰だと思ってるんだい。この村のことで知らないことなんて、オイラには何一つありゃしないよ。当然だろう。
だけど、何だって? あの姉ちゃんが孤高の天才だって?
馬鹿言っちゃいけねぇよ。孤高の天才ってのはな、オイラみたいな存在のことを言うんだ。あの姉ちゃんにくれてやるには、いくらなんでも言葉の安売りが過ぎるってもんだろう。……っと、イケね! 折角の酒がこぼれちまった。まったく、あんたが興奮させるようなこと言ってくるからだぜ。あー、もったいねぇ。新しく注ぎ直してくるから、ちょっと待ってろ。
ひっく。
えぇと、で、何の話だったっけ? そうそう、あの姉ちゃんの話だ。あの姉ちゃん、絵描きなんだよな。仕事場を覗いてみたことがあるから知ってるぜ。だけどさ、あの姉ちゃんは何を思って、何十年も捨て置かれてた古い蔵を仕事場にしてるんだろうな。広くはあるけどジメジメして薄暗くてさ。この時点で気が滅入ることこの上ないのに、何を描いてるんだかよくわからない陰気な絵が山と積まれてるんだよな。全く大したもんだよ。このオイラが思わず退散したくなるほどの負の空気を醸造してやがるんだからな。でも絵描きってことは、あの絵を売っぱらって食い扶持を稼いでるんだよな。いやぁ、あんな心が暗くなるような絵に金を出す人間の気が知れないぜ。その金で酒でも買ったほうが、よっぽど陽気になれるだろうに。
ああでも、勘違いするなよ。オイラはあの姉ちゃんのことを嫌ってるわけじゃねぇんだ。むしろ結構好いてるぜ。だってアイツ、おもしれぇもん。蔵を覗きに行ったときなんだけどな、オイラは完璧に存在を風景に溶け込ませていたんだよ。実際、馬鹿でかい紙に絵筆を走らせてる姉ちゃんのすぐ側まで寄ったって、少しもバレやしなかった。だけど姉ちゃん、唐突に筆を止めたかと思うと一言、トイレって呟いたんだ。その瞬間だったよ。え、待って誰かいるんですか!? って大声で叫んで、尻もちまでついてさ。あれには正直驚かされたよ。野生動物並みに気配に敏感な人間じゃないと、ああはならねぇからな。姉ちゃんはしばらく、床の上であわあわしながら面白おかしく叫んでたぜ。ドウシヨドウシヨ、今日見学の予定なんて入ってたっけ、私ってばすっかり忘れて、ちゃんとスマホにメモっといたはずなんだけどー、あ待ってメガネ落ちたメガネないと何も見えないのにメガネメガネー、とかなんとか。もうオイラ、腹抱えて笑っちまったよ。あんなふうに取り乱す人間を見るのは、随分と久しぶりだったからな。だけどまあ、勝手に仕事場を覗いた手前、存在がバレて面倒なことになるのは避けたかった。オイラはどうにか笑いを押し殺して、蔵の隅に隠れて存在をさらに薄れさせた。メガネが見つかったあたりで姉ちゃんも冷静になったのか、……誰もいない? 幽霊? 妖怪? とか呟いててさ。普通だったら怖がりそうなもんだけど、姉ちゃんは逆に安堵のため息をほっと漏らして、良かったぁ人間じゃなくて、とか言って、いそいそと便所に向かって行ったよ。本当、面白い姉ちゃんだよな。
きっとあの姉ちゃんは、人間が苦手なんだろうな。自分も人間のくせして人間が苦手なんて、なんだかおかしな話だけどさ。まあでも、気持ちはわかるぜ。オイラだって人間は好かないからな。人間のやることなすことなんて、どれも迷惑極まりない。たまにそこらの祠に酒を置いていってくれることだけが唯一の美点だぜ。それがなかったら、本当に良いとこ一切なしだ。
あ、そういや便所で思い出したけどさ。いつだったか、姉ちゃんの家の便所がぶっ壊れて、温泉みたいに水が湧き出る大惨事になってたことがあったっけ。あの騒動はなかなか見ものだったな。自分一人でずぶ濡れになりながら、何時間も便所の水と格闘しててさ。慌てた顔が泣きそうな顔になって、泣きそうな顔が疲れ切った顔になったところで、村の連中が様子を見に来たんだよ。で、ひょひょいのひょいで簡単に直してくれた。姉ちゃんは平謝りしてお金なんか払おうとしてたけど、村の連中はいいからいいからって、逆に恐縮したような顔で断っててさ。このくらいでお金なんて取らないよ、なにか困ったことがあったら気軽に頼ってくれていいから、って。村の連中も村の連中で面白いよな。もらえるものはもらっときゃいいのに。
……っと、なんだか鼻のひん曲がるような酷い匂いがしてきたな。間違いない。姉ちゃんの家にトラックがやって来たんだろう。あの姉ちゃんは頻繁に宅配を頼むんだ。画材とか生活用品とか、そういうもんを全部、なんだっけ? いんたぁねっと? とかいうので注文してるんだろうな。姉ちゃんのことは好きだが、この生活習慣だけは勘弁してくれないかねぇ。こんな空気じゃ、せっかくの酒が不味くなっちまう。今日はそろそろお開きにしようぜ。まだちょいと飲み足りない気もするけど、仕方ねぇ。
あーあ。まったく、何が孤高の天才だよ。人間たちの間でどう言われてるかは知らないけどさ、あの姉ちゃんは立派に誰かの助けを借りて生きてるじゃないか。トラックを動かしてるのも人間。その中の道具をこしらえてるのも人間。村の住人に助けてもらわなきゃ、便所一つ直せない。人に頼らなきゃ生きていけない時点で、孤高でもなんでもないぜ。孤高の天才ってのはな、オイラみたいに酒だけあれば生きていけるヤツのことを言うんだ。たかが人間程度に使うには、もったいなさすぎる言葉だよ。
彼はそこまで語ったところで、僕に盃を押し付けてのっそりと立ち上がった。いつも通り聞き役に徹していた僕だけど、彼の言い分にはちょっとだけ言い返したいところもあった。僕は盃を片付ける傍ら、人の寝床で遠慮なしにゴロ寝し始めた彼に言った。
「あのねぇ、君は自分のことを孤高だと言うけどね、君だって孤高とは程遠い存在なんじゃないのかい。だって、君がたんまり飲んだ猿酒を仕込んだのは、僕だぜ? 人様のこしらえた酒を飲んでおいて、孤高だってのはちょっと無理がありやしないかい? 大体ね、妖怪なんていう存在するんだかしないんだかわからない、ふわふわした珍妙なヤツの話を聞いてやるのも、この山じゃ僕くらいなものだぜ。僕みたいな変わり者がいなかったら、君はとっくに消えちまってたんじゃないのかい?」
ひっく、と酔いの名残のしゃっくりを一つして、彼は眠気でとろんとした赤ら顔でこう答えた。
「別に構いやしないよ。オイラだって今じゃ隠者みたいな生活を送っているが、若い頃はぶいぶい言わせたもんさ。その記憶が人間界や自然界のどっかには残ってる。存在が消えて伝説になるってのも、妖怪の生き方としちゃまた粋なもんだぜ?」
その考えは、一介の猿に過ぎない僕には理解し難いもので、けれどなにか深遠なものを含んでいるように思えた。僕は寝息を立てる彼の身体に枯れ葉のブランケットをかぶせながら、やはり彼は天才というやつなのかなぁ、と漠然と思った。孤高かどうかはさておき。
あの姉ちゃんは孤高の天才でもなんでもない、と赤ら顔で君は言うけれど 桜木潮 @SakuragiTyou
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