献身の檻

須藤淳

第1話

太一は、妻・香澄の変化に戸惑っていた。

結婚して3年、最初の頃は穏やかで優しかった彼女が、最近は何かと苛立ちをぶつけるようになった。


「なんで買ってきたの!? いらないって言ったでしょ!」

「なんで予定いれるの?聞いてからにしてよ!」

「お願いだから、勝手になんでもかんでもやらないで!」


声を荒げる彼女に、太一は静かに答える。

「香澄を手伝おうと思っただけだよ」

けれど、彼女の表情はますます曇るばかりだった。


最近は食卓を囲む時間も減った。

仕事から帰ってきても、目を合わせることすらなくなった。

ため息ばかりつき、疲れた顔で寝室にこもる時間が増えた。


「どうしてこんなに不機嫌なんだろう?」

近所や香澄の家族からは、「仕事ができて優しく温和で、家事も積極的に手伝う理想の旦那だ」と言われる。

実際、香澄が困らないよう、率先して動いているだけだった。


それなのに、なぜ彼女はいつも不機嫌なのか。

「俺がもっと献身的になれば、きっと彼女も落ち着くはずだ」

太一はそう思い、さらに彼女を支えようと決意する。


その日も、些細なことで言い争いになった。

「なんでいつも先回りして勝手にやるの? そんなに私のやること全て気に入らない?!」

「そんなつもりじゃなかったんだ。香澄のためになるかと思って」

「頼んでないっ!!!」


香澄がヒステリックに叫んだ瞬間、花もなく置いてあった花瓶に彼女の手が当たり、床に散らばった。

「私がやるから触らないでっ!!」

泣き叫ぶ彼女を見て、太一は言葉を失う。

「……ちょっと外、行ってくる」

そう言い残し、夜の海岸へ向かった。


潮風が心地よい。

ここにいると、唯一心が落ち着く気がした。


——そのとき、砂浜に転がるガラス瓶が目に入る。


拾い上げ、中を確認すると、古びた紙が入っていた。

震えるような筆跡で、こう書かれていた。


『太一 またね、大好き。 みゆき』

「みゆき……?」

7年前に別れた恋人の名前だった。


太一は、久しぶりにみゆきを思い出した。

彼女は穏やかで、控えめな女性だった。

少し気が弱いところがあり、彼はできるだけ彼女をフォローした。

「俺がいれば大丈夫だから。頼ってね」


彼女は気遣ってくれる太一に感謝していた。

けれど、ある日突然、彼女は何も言わずに去ってしまった。


太一には理解できなかった。

なぜ彼女は自分の元を去ったのか?

けれど——彼女は、今も自分を想っているのかもしれない。


『またね、大好き』

胸がじんと熱くなる。

もし、みゆきとやり直せたら——。


ほんの一瞬、そんな考えがよぎる。

しかし、すぐに頭を振った。

そんなはずない。

彼女はもう過去の人間だ。

今の俺には、香澄がいる。


それでも気になって、彼はみゆきのことを調べた。

彼女の友人に連絡を取ると、誰もが「分からない」と口を閉ざす。

仕方なく興信所に頼んで調べると、彼女は今、結婚し、子供もいて、幸せに暮らしていることが分かった。


「……そっか」

少し寂しさを覚えたが、それ以上に安心した。

彼女は、俺との思い出を大切にしながら、新しい人生を歩んでいるのだろう。

『またね、大好き』

——これは、過去の自分への感謝の言葉だったに違いない。


太一は、一瞬でも過去に揺らいだ自分を恥じた。

そして、改めて思う。

「俺は、香澄を大事にしよう」


もっと俺が支えてあげれば、きっと元の優しい香澄に戻る。

俺が、彼女を幸せにするんだ。


家に帰ると、香澄はいなかった。

テーブルの上には、小さなメモが置かれていた。

『またね、大好き』


みゆきの手紙と同じメッセージに、太一はドキッとした。

機嫌が直ったのか?

けれど、『またね』という言葉が引っかかる。


不審な気持ちのままキッチンに入ると、何週間も前に割れた花瓶の破片が入った袋が、まだ捨てられずに置いてあった。

「本当に愚鈍な女だな……」

太一はそれを見て舌打ちをし、寝室に行くと、香澄の私物をあさり始める。


「これ、似合わないから捨てろって言ったのにまだ持ってる。本当にセンスがないバカ女。これもだ。これも……」

次々とゴミ袋に詰めるうちに、胸がすっきりしていく。


そして、何事もなかったように晴れやかな笑顔になり、

「香澄が帰ってきたら、色々提案しよう」

と考える。


俺がもっと頑張れば、きっと彼女も笑顔を取り戻すはずだ!


——その頃、香澄はひとり、海岸に立っていた。


手には、太一が拾った瓶とみゆきの手紙があった。

それをじっと見つめ、静かに呟く。

「みゆきさん、あなたも逃げたのね」

波の音が静かに響く。


太一は、誰にも見せない顔を持っている。

外では完璧な夫、家では機嫌次第の支配者。

誰にも気づかれず、ただ私たちだけが悪者になっていく。

——機嫌のいい時の太一は好きだった。

頼りになる、優しい夫だった。


「またね、大好き。…さよなら」

そう呟き、香澄は静かに姿を消した。

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献身の檻 須藤淳 @nyotyutyotye

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