存在しなかった夫

須藤淳

第1話

 彼との出会いは、私の会社が請け負ったプロジェクトだった。彼の会社と共同で進めることになり、彼は私たちの窓口としてやってきた。


 初対面の印象は穏やかで、誠実そうな人だった。 仕事の相談を重ねるうちに、自然と距離が縮まっていった。

 彼は優しく、私の話を熱心に聞き、疲れた時にはそっと寄り添ってくれた。

 いつしか私は彼に惹かれ、彼も同じ気持ちでいてくれていることがわかった。


 交際は順調に進み、やがて結婚を決めた。彼は天涯孤独で親戚もいないと言っていた。それに、会社に最近赴任してきたばかりで、親しい人もいないとのことで、結婚式には私の家族と友人だけが参列した。


 私は幸せだった。彼は仕事が忙しく、出張も多かったが、それでも私を大切にしてくれた。帰ってくると、必ず私の好きなケーキを買ってきて、「寂しい思いをさせたね」と言ってくれた。そんな些細な気遣いが嬉しくて、この人と結婚してよかったと心から思っていた。


 だが、結婚して数年が経った頃、彼に単身赴任の辞令が下りた。

「しばらくの間、一緒にいられなくなるね」

 そう言われた時、私は迷わず言った。

「仕事、辞めるよ。一緒についていく」

 でも彼は静かに首を振った。

「最初は環境を整えないといけないし、君に負担をかけたくないんだ。落ち着いたら迎えに来るよ」


 私は彼の言葉を信じた。だが、彼が赴任先へ行って数週間も経たないうちに、連絡が途絶えがちになった。

 最初は忙しいのだと思っていた。でも、メールを送っても返信がない。電話をしても繋がらない。


 嫌な予感がして、彼の職場に問い合わせた。だが、そこで衝撃の事実を知ることになった。

「彼? うちの会社の人間ではありませんよ。以前は出向で来ていましたが、数カ月前に元の会社に戻られました」


 耳を疑った。私が今まで信じていたものは何だったのだろう。


 いても立ってもいられず、彼の元の会社に連絡を取った。だが、誰も彼の行方を知らなかった。必死に情報を集め、かつて彼がいたという地方都市へ足を運んだ。そして、とうとう彼の姿を見つけた。


 公園で遊ぶ小さな子ども。その傍らには、彼と見知らぬ女性がいた。彼は子どもを抱き上げ、微笑みながら話しかけていた。まるで、本当の家族のように。


 喉の奥が引きつり、息が詰まる。これは何の冗談なのだろう。私は妻なのに。私の夫なのに。


 すぐにでも駆け寄って問い詰めたかった。だが、足が動かなかった。


 現実を受け入れられず、私はふらふらと役所へ向かった。もしかしたら何かの間違いかもしれない。彼が私と正式に結婚していれば、それが証明されるはずだ。


 窓口で戸籍謄本を取り寄せるため、自分の名前を伝えた。だが、窓口の職員は首を傾げた。

「婚姻記録はありませんが……」


 その言葉に、頭が真っ白になった。


「そ、そんなはずは……」

「お客様の戸籍には、どなたとも婚姻関係が記録されていません」


 目の前がぐらりと揺れる。指先が震えた。


 つまり、私は……誰とも結婚していなかった?

 彼は私と結婚していなかった?


 だとしたら、本当の奥さんは……。


 脳裏に、公園で幸せそうに微笑む彼の姿がよぎった。


 そういうことだったのか。


 結婚していたのは、あの女性のほう。


 そして、浮気相手だったのは――私のほうだったのだ。


 私が信じていた幸せは、すべて偽りだったのだとようやく知った。

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存在しなかった夫 須藤淳 @nyotyutyotye

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