第9話 一緒に入っちゃう?

 その日の夜――


 雑貨屋に戻った俺は、作業場の明かりを最低限に絞り、作業机に肘をついて仕事を進めていた。


 目の前にあるのは、温泉設備の全体設計図。まだ書きかけのままだが、すでに湯舟と配管、貯湯樽のパートは完成。残るは脱衣所と休憩所、それに受付小屋の設計くらいか。


 いや、雨風を避けるための屋根や塀、床。それに桶や小椅子といった小物作りのことも考えると、完成品として納品できるのはまだまだ先か。


 それに、作業が進むほど、細かいところが気になってくるのが職人のさが。一度すべてが完成しても、見直して気に入らない点があれば直したいので、そういう意味ではまだまだ道半ばなのかもしれない。


「貯湯樽の設置位置、本当にあそこで良かったのだろうか……」


 無意識に呟くと、静かな夜の空気に声が溶けていった。


 ふと、温泉地のほうが気になった。


 村の男衆はさすがに夕食と晩酌で今ごろ寝てるはずだし、ティナも家に帰っただろう。だが、設置したばかりの湯舟がちゃんと馴染んでるかどうか……木材に異音は出ていないか、魔紋に歪みはないか、湯圧で漏れたりしてないか。


 気になったら、見に行くしかない。


「……ちょっとだけ、確認してくるか」


 上着を羽織り、工具を数本ポーチに差して、俺は雑貨屋を後にした。



* * *



 夜の温泉地は、幻想的な空気に包まれていた。


 薄く立ち上る白んだ湯けむり。月明かりが湯面に反射し、虫の声すら遠慮するような静寂が辺りを支配している。


 俺はそっと湯舟に近づき、導管の音を確かめる。ゴボゴボ……という湯の流れは安定している。排水も正常、湯温は手を入れてみると──うん、ちょうどいい。バルブの調整もバッチリだ。


 満足して背筋を伸ばした、まさにそのときだった。


「……ふぅ」


 ……人の声?


 視線を上げると──うっすらと立ち込める湯けむりの向こう。そこに、ひとつの人影があった。


「えっ……おい、まさか──」


 あの背格好。あの髪の色。


 ……間違いない。

 ティナ、だ。


 彼女は手ぬぐいを頭に載せ、肩までしっかり湯に浸かって、目を閉じている。どうやら俺にはまだ気づいていないようだ。


「(なんでこんな時間に温泉入ってんだ、あの子!)」


 慌てて視線を逸らし、物陰にしゃがみ込む。


「(俺は仕事をしに来ただけだ。決して、覗きに来たワケでは……)」


 だが、そう思えば思うほど、心拍数は無駄に上がっていく。見てはいけないと思いつつ、どうしても視線は彼女を追ってしまう。


 いや、裸体は見ていないからな。というより、煙でよく視えていない。彼女の首から上だけに、視点は固定しているつもりだ。


「ふあぁ~……いいお湯……。この湯船、ほんと最高ね……」


 創作物が褒められて悪い気が起きる職人は絶対にいない。


 素直に嬉しい。


「……ねぇ、そうは思わない? グレンさん」


 湯気越しにティナの声が飛んできた。

 えっ? まさか、気づかれてたのか?


「キ、キキー。キキ―」

「まさかそれ、おサルさんのモノマネ? いや、全然似てないよ」

「キキ―!」


 反射的にサルになってみたが無駄だったようだ。


「うふふ。ねぇグレンさん。よかったら、一緒に入らない?」

「キキキ!?」

「気持ちいいよ、このお風呂」

「キキ……あ、いや……えっ??」


 冗談なのはわかる。わかってはいるが、煩悩で思わずサルから人間に進化してしまった。


 万事休す。お縄になる覚悟は出来ている。


「冗談よ、冗談。びっくりしすぎだよ、グレンさん」

「いや、ティナが落ち着きすぎなんだよ。普通もう少し照れたりするだろ? 俺のこと散々、変態呼ばわりしていたじゃないか」


 てっきり男慣れしていないのかと思っていたが、そうでもなかったようだ。


「まぁ、別に見られても減るもんじゃないし。そんなこと言ってたら、この村じゃ生きていけないよ」

「オトコを甘く見すぎだ。いつか誰かに襲われるぞ」

「私、村長の孫娘だし。あのおじいちゃん、ああ見えて実はめっちゃくちゃ強いから、誰も私に手なんて出してこないよ」


 ティナは肩まで湯に沈んだまま、ちょっと楽しそうに微笑んでいた。あの村長、武闘派だったのか。見た目からは想像がつかん。


 ふと、ティナの両親のことが気になったりもしたが、あえて聞かないでおくことにした。この村で今まで出会った人たちの中に、彼女の両親はいなかった。


 悲しい過去を背負っているのかもしれないので、温泉で気持ち良くなっている彼女の気分をあえてセンチメンタルにする必要もないだろう。聞く機会は、これからいくらでもある。


 ……それにしても。

 なんなんだろうな、この静けさは。


 夜の温泉ってやつは、湯気も音も、空気さえも柔らかくしてしまうのか。


「……なんか、すっごく贅沢だね」

「ん?」

「昼間、村の人たちがあんなに楽しそうに働いてたの、見てて思ったんだ。グレンさんが来てから、この村、少しずつ元気になってる気がする」


 不意にティナが、ぽつりと呟く。


「私も……なんだかんだ、ここに残ってよかったなって思えてきてさ」

「そうか……」


 なんだか、くすぐったいような、でも悪くない気分だった。


 魔国でのあの息が詰まるような日々とは違う。ここでは、俺の仕事が誰かの笑顔に直結している気がする。誰かの「ありがとう」が、素直に心に沁みる。


 ……でも。


「(本当に忘れていていいのか、俺の中に残る“呪い”のことを……)」


 ふとそんな思考が浮かびかけて、俺は首を振って振り払った。設備や道具に今のところ、不具合はない。だがこれからもそれが続くとは限らない。


 いや、せっかくいい気分になれているんだ。今は呪いのことについて、あれこれ考えるのはやめておこう。


 なんとなく空を見上げると、雲の合間に、丸い月が浮かんでいた。


 やけに明るくて、でも眩しくはない。やさしい光が俺たちを照らしている。


「月が綺麗ね」


 ティナが湯船の縁にもたれて、空を見上げる。


「ああ、そうだな」


 思わず、同じ空を仰いだ。


 湯気がゆるく揺れて、月の光に透けている。

 なんてことない夜のはずなのに、今日はちょっとだけ特別に感じる。


 しばらく、そのままふたりとも言葉を交わさず、静かに夜を眺めていた。


 また明日から、忙しい日々が始まる。

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