第3話「鏡の向こう側」
「天城先生、16号室の患者さんの状態が急変しています!」
玲奈は走り出した。中央病院事件から3ヶ月、彼女は山岳地帯にある小さな町立病院に移っていた。マスコミの取材から逃れ、静かな環境で医師としての原点に戻りたいと思ったからだ。
16号室には80歳の女性患者、鈴木さんがいた。認知症の初期症状で入院していたが、身体的には安定していたはずだった。
病室に駆け込むと、鈴木さんはベッドの上で苦しそうに呼吸をしていた。脈拍は弱く、血圧も低下していた。
「酸素マスク、点滴の準備を」玲奈は看護師に指示した。
そのとき、鈴木さんが玲奈の腕をぎゅっと掴んだ。「先生...鏡の中に...私がいるの...」
玲奈は患者の言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに救命処置に戻った。幸い、鈴木さんの容態は間もなく安定した。
巡回を終えた深夜、玲奈は鈴木さんの言葉が気になり、再び16号室を訪れた。静かに眠る患者を見守りながら、ふと部屋の隅に置かれた小さな手鏡に目が留まった。
鏡を手に取ると、不思議なことに自分の姿が映らなかった。代わりに、若い女性の顔が映っていた。彼女は悲しげな表情で、唇を動かしているようだった。
「誰...?」玲奈がつぶやいた瞬間、鏡の中の女性は驚いたように目を見開いた。
「見えるの?」鏡の中から声が聞こえた。「あなたには私が見えるの?」
玲奈は鏡を落としそうになった。これは幻覚か、それとも彼女の「視える」能力によるものか。
「あなたは誰?」玲奈は小声で尋ねた。
「私は...」女性は躊躇いがちに言った。「鈴木サユリ...」
「鈴木さん?」玲奈は混乱した。ベッドで眠っている老女と同じ名前だが、鏡の中の女性ははるかに若かった。
「お願い、助けて」鏡の中の若いサユリは懇願した。「私は鏡の中に閉じ込められているの...」
その時、廊下から足音が聞こえ、玲奈は慌てて鏡を元の場所に戻した。
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翌朝、玲奈は病院の記録を調べた。鈴木サユリは確かに認知症の初期症状で入院していたが、それ以外の病歴はなかった。
玲奈は迷った末、鈴木さんに直接聞いてみることにした。
「鈴木さん、この鏡のことを教えていただけますか?」玲奈は病室を訪れ、手鏡を指さした。
老女の顔に恐怖の色が浮かんだ。「あの鏡...見てはいけません...」
「昨夜、何かおっしゃっていましたよね。鏡の中にあなたがいると」
鈴木さんは震える手で毛布を握りしめた。「私じゃない...あれは若い私...50年前の私...」
「どういうことですか?」
「あの鏡は...私の若さを奪ったの...」鈴木さんの目に涙が浮かんだ。「50年前、山の古い神社で見つけたの。美しさを永遠に保つ鏡だと言われて...」
「そして?」
「毎日鏡を見ていたら、ある日突然...鏡の中に若い自分が閉じ込められて...現実の私はどんどん老いていったの...」
認知症の妄想かもしれないと思いつつも、玲奈は信じざるを得なかった。彼女自身が鏡の中の若いサユリを見たのだから。
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その夜、玲奈は再び夜勤だった。病院では最近、夜勤中に奇妙な噂が流れていた。夜中に鏡を見ると、自分ではない誰かが映る...という噂だ。
看護師長の加藤さんは玲奈に忠告した。「天城先生、夜勤中は鏡を見ないほうがいいですよ」
「どうしてですか?」
「この病院には言い伝えがあるんです。夜の12時から2時の間に鏡を見ると、もう一人の自分が見える...そしてその人は、あなたの人生を奪おうとするんだとか」
玲奈は鳥肌が立った。鈴木さんの鏡と関係があるのだろうか。
その夜、病院を巡回していると、休憩室から物音がした。ドアを開けると、若い研修医の佐藤が洗面台の鏡の前に立ち尽くしていた。時計は午前1時を指していた。
「佐藤先生?」玲奈が声をかけたが、彼は反応しなかった。
近づいてみると、佐藤の目は焦点が合っておらず、鏡に向かって何かを囁いていた。
「どうした?」玲奈が肩に触れると、佐藤はハッとしたように振り向いた。
「天城先生...?何をしていたんでしょう、私...」彼は混乱しているようだった。
「鏡を見ていたみたいだけど」
「覚えていません...休憩に来たはずなのに...」佐藤は頭を振った。「最近、記憶の飛ぶことが増えて...」
不安を感じた玲奈は、佐藤を医局に連れて行き、お茶を出した。
「実は...」佐藤は恥ずかしそうに切り出した。「一週間ほど前から、鏡に映る自分が話しかけてくるんです」
「話しかけてくる?」
「はい...『場所を交換しないか』って...最初は疲れているんだと思いました。でも、それから記憶の飛ぶことが増えて...自分が自分でなくなっていく感覚があるんです」
玲奈は身震いした。これは鈴木さんの鏡の問題だけではなさそうだ。
「佐藤先生、この病院に来てどのくらい?」
「3ヶ月です」彼は答えた。「研修医として配属されたばかりで...」
玲奈は決意した。「明日、一緒に16号室の鈴木さんを診察してもらえますか?何か関連があるかもしれない」
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翌日、玲奈と佐藤は鈴木さんの診察を行った。老女は前日より元気そうだったが、手鏡を見るのは依然として拒んでいた。
診察後、廊下で佐藤が突然立ち止まった。「天城先生、あの鏡...特別なものなんですか?」
「なぜ?」
「鏡の中に...若い女性が見えたような...」
玲奈はハッとした。彼にも見えたのだ。「佐藤先生にも見えたの?」
この病院の不思議を解明するため、玲奈は夜間に病院の古い記録を調べることにした。資料室には、開院以来100年分の記録が保管されていた。
埃まみれの古い記録の中から、玲奈は衝撃的な事実を発見した。この病院は元々、精神科病院だった。そして70年前、複数の患者が同時に奇妙な症状を訴えていた——「鏡の中に自分の分身が見える」という症状だ。
さらに調べると、当時の院長が残した私的なメモが出てきた。
「患者たちが訴える現象は、単なる妄想ではないかもしれない。山の古い神社から持ち込まれた鏡に関係があるようだ。患者が鏡を見ると、その中に閉じ込められ、鏡の中から別の存在が出てくる...信じがたいが、実際に見た。我々の知らない世界が鏡の向こう側にあるのかもしれない...」
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その夜、病院は嵐に見舞われていた。激しい雷雨の中、玲奈は鈴木さんの病室を訪れた。老女は不安そうに窓の外を見ていた。
「鈴木さん、その鏡のことをもっと教えてください」玲奈は尋ねた。「他にも同じような症状の人がいるんです」
鈴木さんは震える声で語り始めた。「あの神社は...山の奥にあったの...『鏡の社』と呼ばれていて...」
「そこで鏡を手に入れたんですね?」
「いいえ...私は神社の巫女だったの...」鈴木さんの顔が一瞬若返ったように見えた。「私たちの役目は、鏡を守ること...鏡は異世界への入り口...中に入った者は出られないの...」
「では、あなたは?」
「私は...若さと引き換えに、鏡の番人になることを選んだ...でも年をとり、力が弱まると...中の存在が出てこようとする...」
突然、病室の電気が消え、一瞬だけ停電した。再び明かりがついた時、鈴木さんのベッドは空だった。
「鈴木さん?」玲奈が部屋を見回すと、老女は窓際に立っていた。しかし、その姿は若かった。鏡の中で見た若いサユリの姿だった。
「ついに出られた...」若いサユリは両手を見つめながら言った。その声は喜びと邪悪さが混ざっていた。
「あなたは...鏡の中の...?」
「そう、私は50年前に鏡に閉じ込められた...今やっと自由になれた」若いサユリは笑った。「あの老婆はもう鏡の中...永遠に」
玲奈は部屋の隅にある手鏡を見た。そこには老いた鈴木さんが必死に叫んでいるのが見えた。
「彼女を戻して!」玲奈は要求した。
「無理よ」若いサユリは冷たく言った。「もう私の番...この世界で生きる番...」
その時、ドアが開き、佐藤が入ってきた。彼の表情は硬く、目は虚ろだった。
「佐藤先生?」
佐藤は若いサユリを見て微笑んだ。その笑顔は不気味だった。「うまくいったようですね、サユリさん」
「ええ、あなたのおかげよ、鏡の主」佐藤...いや、佐藤の体を借りた何者かが答えた。
玲奈は恐怖で後ずさった。「あなたたちは...」
「私たちは鏡の世界の住人」佐藤は説明した。「かつて人間だった者もいれば、初めから鏡の中にいた者も...長い間、交換を待っていた」
若いサユリが続けた。「この病院は特別な場所...鏡の世界と現実世界の境界が薄い...だから私たちは出られるの」
「でも、なぜ?」
「自由が欲しいから」佐藤は言った。「鏡の中は冷たく、時間が止まった世界...私たちは生きたいんだ」
若いサユリが玲奈に近づいてきた。「あなたも素晴らしい容れ物になるわ...『視える』能力を持つ医師...こんな貴重な体は初めて」
玲奈は部屋から逃げようとしたが、ドアは開かなかった。
「無駄よ」若いサユリは手鏡を玲奈に向けた。「さあ、鏡を見て...」
玲奈は必死に目をそらそうとした。鏡を見れば、自分も交換されてしまう。そのとき、彼女は閃いた。鈴木さんは「鏡の番人」と言っていた。鏡には何か力があるはずだ。
咄嗟に、玲奈は鏡を奪い取り、反転させて若いサユリと佐藤に向けた。
「何をする!」若いサユリが叫んだ。
鏡の表面が水のように波打ち、強い光が放たれた。若いサユリと佐藤は苦しそうに体をよじった。
「戻れ!鏡の中へ!」玲奈は叫んだ。
鏡からは強烈な吸引力が生まれ、若いサユリの姿が歪み、鏡の中へと引き込まれていった。代わりに、老いた鈴木さんが現実世界に戻ってきた。
佐藤も同様に体が歪み、鏡に吸い込まれそうになったが、最後の力を振り絞って抵抗した。
「まだだ!」彼は叫び、玲奈に飛びかかった。
二人は床に倒れ、格闘した。佐藤の力は通常の人間離れしていたが、玲奈は必死に鏡を握りしめていた。
「放せ!」佐藤が鏡を奪おうとしたその時、鈴木さんが彼の背後から現れ、何かを唱えた。古い言葉、おそらく祝詞のようなものだった。
「封じよ、鏡の力...戻れ、影の者...」
佐藤の体から黒い霧のようなものが抜け出し、鏡の中へと吸い込まれていった。彼は気を失い、床に倒れた。
静寂が戻った部屋で、鈴木さんは疲れた様子で玲奈に微笑んだ。
「ありがとう、天城先生...あなたの力で鏡を封じることができました」
「私の力?」
「あなたは『視える』...それは単なる能力ではなく、二つの世界の仲介者になれる証...私のような鏡の番人の素質があるのです」
鈴木さんは手鏡を受け取り、古い布で丁寧に包んだ。「この鏡は元の場所に戻さなければ...神社に...そして新しい番人が必要です」
「新しい番人?」
「はい...私はもう老いた...力も弱まっている...」鈴木さんは深く息を吸った。「あなたにその役目を託したい...もちろん、強制はしません。選択はあなた次第...」
玲奈は困惑した。鏡の番人になるということは、この病院を去ることを意味する。そして、未知の力と責任を負うことになる。
「考えさせてください」玲奈は静かに答えた。
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翌朝、佐藤は記憶を失っていた。彼は過去数週間の出来事を全く覚えていなかったが、身体的には問題なかった。
鈴木さんは回復し、退院の準備をしていた。玲奈が病室を訪れると、老女は穏やかな表情で待っていた。
「決心はつきましたか?」
玲奈は深く息を吸った。「はい...鏡の番人になります。この力が人々を救うことができるなら...」
鈴木さんは安堵の表情を浮かべた。「賢明な選択です...山の神社で正式な儀式を行いましょう」
玲奈は新たな使命を受け入れた。医師として人々の体を癒すだけでなく、「視える」能力を使って魂を救う道を選んだのだ。
しかし彼女は知らなかった。鏡の世界の住人たちが、すでに次の計画を練っていることを...そして、この病院にはまだ他の鏡があることを...
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