第二話
ネオンが煌々と輝く薄暗い店内を、高いヒールの音が闊歩していく。
「ヨミちゃん、今日も呼び込みよろしく」
「……はい」
「頼むよぉ。店のキャッチだけじゃなくて、ヨミちゃんにはそろそろお客も取って欲しいな〜と思ってるから。まだ上手くお客が捕まってないみたいだけど、その歳でこの童顔って子なかなかいないし、ヨミちゃん、一度定客付いたら人気出ると思うんだよぉ。期待の新人なんだから、よろしくねぇ」
脂ぎった店長のネトネトした視線と、適当に作った源氏名を厭らしく呼ぶ声が、纏わり付くようで気持ち悪い。まだ雇って一週間も経たないうちによく言うよ。
ボクはそれを無視して、自分自身も貸出用の高いヒールを履いてから、夜の街へと躍り出た。赤いアシンメトリーのフリルが、ひらりと褐色の太ももの上で揺れる度に、スーツを着た下品な親父達の視線が釘付けになるのを感じる。気持ち悪い。気持ち悪いけれど、店の名刺を差し出して場所を案内すれば、性欲に塗れた人間の皮を被った獣達は、すぐさまネオンの先へ下る階段の方へと消えていく。こうして客引きに立ち、案内をするだけでもとりあえず報酬は貰える。けれど、当座の借金を返す為に、一体あとどのくらい、こうやって心を擦り減らさなければならないのだろう。
肩を剥き出しにした肌寒いこの格好が、胸の内の頼りなさと不安を浮き彫りにしてくる。不安定なヒールの足。それなのに、履き替える度、やけにすんなりと足を通せる事が、自分でも不思議だった。
このドレスと靴は、稼ぎが出来てから買い取る事にしている。名前以外の記憶をなくして、知らない世界で一人途方に暮れたボクは、風俗街のとある店で働いていた。身分証明書が何一つない状態で、素性も聞かれず寝食込みで雇ってくれるような店は、そこしかなかったからだ。
今は、他のキャストの子達と、土足で直接上がり込むような事務所の部屋でゴザを敷いて雑魚寝しているけれど、時々手を出す従業員がいるらしく、夜中の悲鳴と怒号でビクッとしながら目を覚ます事もある。正直、早く店を出て一人で暮らしたかった。けれど、その為には何を置いても金がまず要る。
(やっぱり……体売らないと駄目、だよな)
同じ店の女の子達が、街角で看板を持ちながら立っている。釣り上がった男の一人を誘惑した女の子が、そのまま彼をホテル街へと誘導していくのを見て、ボクは溜め息を吐いた。
キャッチと看板持ちだけでも報酬は入るが、実際のキャストとしての仕事に比べれば限りなく金額は低い。この店は、店の質としては無法地帯な分、キャストへのリターンはそれなりに良かったから、たった一回でも床に入れば一発でそれなりの金額が手に入るだろう。
……心が男でも、体が女なら、男と出来るものだろうか。
それを考えて、ボクは闇の中に立ち尽くした。もう春なのに、スカートの下を吹き抜ける風に思わず身震いする。あくまで形式上、店側と客との「本番行為」は禁止されているが、実際にそこまで及んでチップとして莫大な金を手に入れている子もいると、キャストの女の子に聞いた。そこまで辿り着ければ、稼ぐには一番早いとも。
ボクは……誰かに捧げた事があったのかな。この体を。
体を繋ぐほどに愛し合いたいと思う相手がいたのかどうか、それすらも今は思い出せない。
けれど、何もかももうどうでもよかった。たとえいたとして、この世界から帰る事が出来なければ、もう二度と会えないのだから。
擦り潰されそうな心の痛みを誤魔化すように、ボクはふらりと、ホテル街の方へ向かって歩き出した。
*****
さっきからずっと、歩けば数十歩でホテルまで入れるような場所に立っているけど、素通りしていく男達はなかなか引っかからない。
これでも見てくれには結構自信があるんだけど、同じようにキャストの子達の真似をしているはずなのに、何故か客はボク以外の女の子を選んでホテルへと連れ立っていく。やっぱりそこは、プロにしかわからないコツとか売り込み方とか、そういうのがあるんだろうか。経験差って、どこの業界でも物を言うんだな。
そんな事をぼんやりと考えて、やる気のないまま路上に立っていたら。ふと、目につく人間が視界の先から歩いてきた。
ただ街灯の下を歩いているだけなのに、現れた瞬間、スポットライトが当たってるみたいに目を惹いたから、すぐにわかった。頭頂から流れる、緩く巻いた太陽みたいな金髪。外国人を彷彿とさせる真っ青な目。ボクよりも少し低めのヒールを履いたその女は、大柄な体にブラウスと空気をたっぷり含んだスカートを纏って、いかにも春の女王みたいな儚げな雰囲気を醸していた。すれ違った誰もが、釘付けになってしまう程だった。
そして、こっちに向かって歩いてきたその女と、ボクの目がばっちりと合った。一瞬の沈黙。同じ女性用の格好をしているはずなのに、自分の派手さだけをウリにした格好が急にみすぼらしく感じて、ボクは思わず下を向く。そのまま、じりじりと首から耳へと昇る熱をやり過ごしていたら、こちらへ近付いてくるヒールの音が急速にカツカツと速くなった。
「……えっ?」
あっという間だった。電柱とその女の胸との間に閉じ込められている。自分がいわゆる壁ドンをされていると気付くまでに、脳内が数秒の処理時間を要した。
「……」
ボクを見る女の視線は、うってかわって鋭いものだった。あの儚げで神話の中から抜け出てきたみたいな雰囲気はどこへ行ったんだと思うほどに、疑いに満ちた責めるような目がボクを睨んでいる。あまりの迫力に、ボクは息をするのも忘れそうだった。
(……ぼ、ボク、何かしたか?)
ただ目が合っただけで、無礼な事を働いた覚えはない。しかし、世の中にはそれすらも「ガンを付けた」って難癖つける輩もいる。でもボクは、さっきほんの一瞬目が合っただけだ。ジロジロ見てたわけじゃ……いや、見てたかもしれないけど、それには気付かれてないはずだし。
大体、この異様な迫力は何だ。女のくせに、って言ったら怒られるかもしれないけど、男女以前に、普通の人間が出せる迫力の域を超えている。見られているだけで圧倒されるような威圧感。おまけに、間近でボクを観察する顔が恐ろしいほど整っている。顔面偏差値にはそれなりに自信があるボクすらも、“綺麗”と言わざるを得ない程に、月明かりに照らされた顔は綺麗に鼻筋の通った美しいものだった。
頭がぐるぐるしたまま動けずにいると、その女は不意にボクの手首を掴んで、強引に歩き出した。
「あっ、ちょっ……!」
怒ったような足取りは、迷いもなくホテルの方へ向いている。ホテルの部屋に行くなら先に店へ連絡を……とか言い出す暇もなかった。ボクの初めての客が捕まった事に喜べばいいのか、それが男ではなく女だった事に安堵すればいいのか、それともこれから始まる未知の体験に慄けばいいのか、とりあえず全く心の準備が出来ないまま、体だけが運ばれていく。
ボクが口を出す間でもなく女は一人でさっさと部屋を選んでしまい、無言のままエレベーターに乗って、絢爛豪華な扉の部屋にたどり着く。そこがこのホテルで言うセミスイートだった事にボクはまた驚いたが、扉の内側へボクを押し込んでから、女はやっと手を放して扉にロックを掛けた。
扉の方を向いた後ろ姿が、無言のまま動かない。
「……」
「あの……」
「はぁ……あんた、あの辺の店の客引きか?」
おもむろに店の名前を出されて、ボクはおずおずと頷いた。あれだけ女の子が並んでいたら知ってて当たり前かもしれないけど、一応はそういう店のキャストだと分かっていて声を掛けたみたいだ。すると、女は碧眼でキッと睨むようにしながら、ボクの肩を掴んだ。
「危ねえだろうが、未成年があんなとこ立ってたら! 店はあんたの事いくら使い捨てにしようがどーでもいいかもしれないけど、あんたはこんな風にアルファにでも襲われたら、一生消えない傷を負う羽目になるかもしんねーんだぞ!」
「……はぁ?」
思わず、怒りと呆れで間抜けな声が出た。
アルファがどうのというのはよくわからなかったが……こいつ今、ボクの事未成年と勘違いしてなかったか?
唖然としているうちに、女はぺらぺらと両手を広げて喋り出す。
「オレが通りがかったから良かったものの、変な客に引っ掛かったら終わりだ。見た感じ、あんた未経験のままあそこに立ってたんだろ。明らかに不慣れだったし、キャッチも覚束ないままいきなり本番なんてよくやるよ。つーか堅実に稼ぐんなら、キャッチで満足しとけっての! あの界隈で稼げるのはせいぜい小遣いとか化粧品代程度で、それ以上稼ぐんだったらもーちょいまともな店に……」
「ちょっっっと待ってよ、なんでいきなり会った見ず知らずのあんたにそんな事説教されなきゃいけないワケ!? 人の事強引に連れて来といて、不慣れだのキャッチで妥協しろだの、あんたに関係ないでしょ!? ていうかボク未成年じゃないし!」
「はぁ!? だったら幾つだってんだよ」
「20……は多分超えてると思うけど」
「多分って何だ、多分って! 言っとくけど、オレにサバ読もうとしても無駄だからな! ホントだっつうんなら身分証でも出してみろ!」
「誰が風俗の客にそんな個人情報抜け抜けと晒すかよバーーカ! 第一記憶がないんだから正確な年齢なんか答えられるわけないだろッ!」
「……は?」
今度は、女の方が沈黙する番だった。ボクと向かい合って肩で息をしていた女の声が、怪訝げな疑問形に変わる。
「は……今なんて?」
「だから、記憶がない……はぁ、こんな話あんたにしてもしょうがないか。とりあえず、抱くならさっさと店に連絡入れさせてくれる? 別に女同士でも、金さえ払えばうちの店断らないとは思うから」
「あ、あぁ」
間抜けに返事をした女を放置して、ボクはスマホで店へ連絡を入れる。料金は、一番高いコースのにしといてやった。そもそもボクが強引に連れ込まれたのはこの女のせいなんだから、文句を言われても全部この女に請求してやる。
電話を切ってネッチョリした店長の声を追い出すと、ボクはまだ荷物も置かずコートも脱がずにいる女の方を振り返った。
「で? あんた、何がしたいの?」
「え? ああ、いや……オレほんとに、未成年だったら危ないと思って、無我夢中で連れて来ちまっただけなんだけど。あんた、記憶喪失なのか?」
「……笑いなよ。どうせ、誰に話しても信じてもらえない話だから」
「信じるさ」
迷いのない言葉に、思わず顔を上げた。目が合った空色の瞳は、さっきとは違う真剣な色を湛えて、まっすぐにボクを見ている。
さっきの言葉もだけど、何というか、心からボクを案じているように見えた。そんな思いと疑いの中で、ボクが戸惑っていると、女は少し困ったように頬を掻く。
「いや、その……世の中には割と、人からすれば信じられないような経験が、そのへんに転がってるもんだからさ。オレでよかったら聞くぜ、話」
その瞳に、何だかちょっと切なげな色が浮かんで見えたのは、気のせいだろうか。こいつにも、誰かに何かを信じてもらえなかった経験が、あるのかもしれない。
そう思いながら、ボクは頷いた。どちらにしろ、今の状況は打つ手なしだ。行きずりの客に、頭がおかしいと思われればそれまで。話してスッキリするか、頭の整理ができればボクにとっては得な方だろう。
「わかった。まあ、それなりに長い話にはなると思うけど」
性行為を目的に来てるはずなのに、何故かちっとも厭う顔を見せない、不思議なそいつと肩を並べながら、ボクは改めて広い室内を見渡したのだった。
*****
「なるほど……状況を整理すると、あんたは異世界から飛ばされてきた人間で、この世界の事は何もわからないと。一文無しで、おまけに元いた世界の事もほとんど忘れちまってるって事だな」
ボクの長話を全て聞き終わった頃には、女は既に風呂場で汗を流して、バスローブのまま乾かした髪にオイルを塗りつつこちらへ向かって歩いてきたところだった。髪先がウェーブしていたのはコテを当てていたからのようで、こいつの地毛はストレートの金髪らしい。
疲れたし腹も減っていたので、間にちょいちょいルームサービスとか風呂の時間を挟んだのだが、こいつ、ボクがあっちの世界では男だって話、本当に聞いてたよな。男勝りな喋り方のくせに、プロポーションは抜群だから、そんな格好でうろつかれたら目のやり場に困る。
やけにゴージャスなソファの上に座りながら、ボクは頬杖をついて目を逸らした。
「まあね……けど、あんたに話をしててわかったよ。記憶の全部が欠落してるってわけじゃなさそうだ。あんまりうまくいってなかった両親の事と、小さい頃の事ぐらいはぼんやりと思い出した。学校に行ってたのと、おそらくそのまま就職したんだろう……って事ぐらいは覚えてる。何の仕事をしてたのかは覚えてないけどね」
どうせ話しても無駄だと思って聞かせてみたけど、いざ実際に言葉を口に出してみると、それだけでかなり脳を整理する効果はあったらしい。
元の世界の基礎的な常識――たとえば帝都という名前だとか、そこではこの世界より遥かに電脳世界に纏わる技術が発達していて、それらによるVR空間とか娯楽施設が国家産業としてしょっちゅう立ち上げられていた、という事実だとか、あの世界に存在していた電脳世界に接続する為の端末だとか、そういう物はちゃんと覚えていた。
それと同時に、偶発的にぱかっと記憶の扉が開くような感覚があって、幾つか思い出した出来事もあった。まあ、あまり愉快な思い出ではなかったけど。両親の仲が悪くて離婚したんだって事と、この女みたいな見た目が原因で、昔はよく虐められてたんだって事。
それを伝えると、目の前の女は考え込むように眉を寄せて顎に手を当てた。
「てなると、忘れてるのは比較的最近の記憶か。だとしたら、ショックによる一時的な健忘って可能性もあるな」
「時間が経てば、徐々に思い出すって事?」
「まあな。あんたの話を聞いてる限り、世界も時代も違うってなると相当の時空を越えてきたって事になるし……だとすると、それなりに脳への衝撃もデカかったんじゃねえの? 直前に襲われた記憶があるって事は、お前の意志で飛んだって訳でもなかったんだろ」
「多分そう思う。強引に転移させられたなら、ボクの方にも準備はなかっただろうし……」
おそらくそれが、女になってしまった事にも関係あるのだろう。脳神経を接続していた電脳世界のアバターが、直前まで女だったとか。
だからってリアルの体まで女になるなんて聞いた事ないけど、「時空間を超える」という特殊な事象が、何らかの影響を与えた可能性はある。
幾分か物事を冷静に考えられるようになってから、パジャマ姿の膝を抱えたまま、ボクはふと気が付いた。
「……それより気になるんだけど、あんた驚いてないね?」
「え?」
「異世界から人間が来たって話。普通、一番にツッコむべきはそこじゃない?」
もちろん、そこの前提を信じて貰えなければ、ボクの話の全てを信じて貰えない事になる訳だが、自分で言うのも何だけど簡単に信じられる話じゃないと思う。ボクだったらまず、本人の妄想である事を疑って病院にかかるよう勧めるだろう。
(でも、ボクだって結局はそうしなかったわけだし……ん?)
なぜだろう、ボクも以前似たような相談を受けた事があって、でも結局はその人が異世界からやってきた存在だという話を信じたのだ、という記憶が唐突に蘇ってきた。それとも何となく、そんな風な気がするだけだろうか。
混乱した頭を振っていると、目の前にいた女は、言葉に窮したようにわかりやすく目を逸らした。
「あ〜……それは、その」
「?」
「ほら、さっきオレ、世の中には人からすると信じられないような経験が、意外とその辺に転がってるって言ったろ。……実は何人かいるんだよな、異世界人の知り合い」
「はい?」
疑問が解決するどころか、ますますポカンとする羽目になった。女は、説明するように両手を振る。
「あ〜、けど、お前達の時代で言うような、なんかこうすっげえ技術が進歩してって話じゃないんだよ。何ていうかこう、ざっくり言うと魔法、っていうやつで時々遊びに来てる人間が、若干名……いや、ありゃ人間か? とにかくそういう、妙な弟分に好かれちまってさ」
「……」
「まあ、多分ますますお前を混乱させるだけになるだろうと思ったから、黙ってたんだけど」
異世界に来て、たまたま異世界人と交流がある人間と知り合いになる。こんな偶然があるだろうか。
けれど、ボクの他にもそういう異世界間の移動が可能な事例があるんだという事は、大きな希望になった。
「念の為に聞くけど、この世界で異世界トリップってオーソドックスな話じゃないんだよね?」
「当たり前だろ、そんな事が気軽にホイホイ起こってたまるかよ。あくまでオレの近辺限定の話だっつーの、頭がおかしいと思われるのがオチだ」
「わかった。だったら、こういう話は表でうっかりしないようにする」
「それがいいと思うぜ」
何故か暗黙の協定を結んだような気持ちで、神妙な顔つきになりながらボクらは頷き合った。何の会だ、これは。
「とりあえず、疲れたから寝ようか」
「それもそうだな」
そう言って、当たり前のようにベッドサイドの灯りを落とそうとしてから――ボクは体を強張らせる。
「あの……本当に、いいの? そういう事、しなくても」
「ん? ああ、いいいい。元々、手ぇ出すつもりなかったし。まあ……」
おもむろに身を起こした彼女に、ぼふっと柔らかなベッドの上に押し倒されて、ボクは金の髪がしなだれる彼女の内側から、その唐突に変貌した野生の狼みたいな表情を見上げていた。
それでも、綺麗な瞳に心臓が高鳴っても恐怖を感じなかったのは、彼女が決して本気ではないとわかったからだ。
「お前が望むってんなら、抱いてやってもいいけど?」
「普通、立場が逆じゃないの? それを言うのは、ボクの方だと思うんだけど」
「ぷっ。それもそうだな」
すると、挑発的な瞳があっという間に緩んで、子供のように無邪気な笑い顔になる。
不思議な奴だと思った。不思議どころか、一周回って変な奴だけど。部屋の灯りを落とし、同じ布団に潜り込みながら彼女は言った。ソファを使って別々にとかじゃなくて、いつの間にか一緒に寝る事になってるけどそれはいいんだろうか。
「正直言うとさ、あんた、オレの大切な人によく似てるんだよな」
「ボクが……?」
「そ。だから、これはオレのエゴ。あんたは何も気にしなくていい。文字通り、金を払った客が理想をその身に重ねてるだけの、ただのお遊びだよ。……けどな、それでもあんたに言っておきたいんだ。もっと、自分の事大事にしろ。この世界でのあんたが、これからどうなるかなんて、オレが無責任に口出せる事じゃないけどさ。絶対、もっと合ってる仕事が見つかるって。あんな、自分を限界まで擦り減らして、尊厳も何もかも失くして心を殺さなきゃやってけねえような店で働く事ない。考え直せよ」
そう言って、ベッド脇の鞄から財布を引っ張り出した彼女は、真剣な瞳でボクにお札を握らせた。貨幣も電子化された帝都では、実物のお札を見る機会ってあんまりなかったけど、それでもこれが少ない金額ではないという事はわかる。ボクは戸惑いながら、ベッドに座って顔を上げた。
「これは……」
「当面の金。まあ、すぐになくなっちまうだろうけど。でもこれだけあれば、初期費用とドレス代の返済と、それからウィークリーマンションの宿代くらいはどうにかなるだろ」
何故そこまでしてくれるのだ、と口には出せなかった。この女にとって重い感情を抱くその人が、よっぽど大切な相手なんだろう。
この世界で初めて、誰かに大切に扱ってもらった、と思った。それも、本来であればボクを手酷く扱っても不思議じゃないはずの立場の奴に。薄い貨幣の重みを感じながら、ボクはそれを自分の荷物の中にしまい、ベッドに横になった。正直、こいつが相手であれば、別にどうなってもいいかもしれない、と思いながら。
久方ぶりの安心して眠れる静かな空間と、あたたかな布団の内側。真っ暗な部屋の中で、女はバスローブ越しにボクの事を抱き締めた。押し付けられた豊満すぎる胸と、あっという間に鼻腔を擽る甘やかなシャンプーの香りに、色んな意味で体が硬直する。
「大丈夫。何もしねえから。……大変だっただろ。今晩くらい、ゆっくり目ぇ瞑って休めよ」
「……」
「オレだってお前の事、都合よく利用してんだ。お前だって一晩くらい、知らない他人に預けて何もかも放り出しちまうのも、悪くないだろ。大丈夫。頑張りたくてもやりようがないって気持ちも、何もかもどうでもいいって気持ちも、全部諦めて消えたくなる気持ちも、今ここにいるオレしか知らねえから」
「……っう、うう」
暗闇の中で、声だけが聞こえてくる。でもそれはとても優しくて、あの街頭に一人ぼっちで立っていた時にのしかかる、大きくて黒い絶望とは全然違っていた。思わず零れてくる涙を胸元のバスローブに吸わせても、女は何も言わない。
ただ子供のように泣きじゃくって、頭を撫でられているうちに、あたたかな腕の中で、ボクは知らないうちに意識を手放していた。
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