【番外編】Blossomholic
直生の家に住み込むようになって、何日目かの事だった。
記憶を失くし、この世界の事も未だよくわからず、ボクはちょうど直生の部屋で、ぼんやりと暇を持て余していた。何か記憶が戻る手がかりでもないかと自分の鞄を漁りながら、意味もなく出てくる小物を次々と床へ並べていた時。ボクは、ふと違和感に気が付いた。
(……?)
それは、鞄の奥に皺くちゃになって入り込んでいた。手に掴んだ柔らかい感触をゆっくりと引っ張り出すと、それは桜色に染められたスカーフというか、リボンのような布だった。絹で出来ているのだろうか。しげしげと眺めてみると、控えめな光沢と柔らかな色合いが上品で、端の方についた花びらの刺繍や飾りが可愛らしい。
(こんな物、買った覚えはないな……)
自分の名前しかろくに覚えていないような状況で、買った覚えも何もないのだが、それでも妙な確信があった。これは、ボクの趣味なんかじゃない。異世界転移してくる前、ボクの体は男だったのだ。鞄の中を物色していても、リップクリームやハンドクリームはともかくとして、それ以外の化粧品らしい化粧品も見当たらなかったし、入っている品の実用性や素っ気のなさから考えても、自分が日頃お洒落をするような人間だったとは思えない。
ボクは、小さく首を傾げる。落とし物を拾って、そのまま処理し損ねてでもいたのだろうか。
「捨てるか……?」
交番に届けるにしても、拾った日時すらわからないようでは話にならない。そもそも、元いた世界で拾った物の持ち主が、こちらの世界にいるとも思えないし。肩をすくめてゴミ箱へ放り投げようとして――けれど、どうしてもそのリボンの事が気になった。
掌に乗せていると、ほのかなぬくもりを感じるような気がする。まるで、誰かに手を握られているような、励まされているような、そんな不思議なあたたかみを。これは、色や手触りのせいなんだろうか。それとも。
この瞳で見つめていても、何も怪しい所はない。ということは、霊の関わる類いの物ではないのだろう。それなのに、どこか妙に懐かしい、泣き出したくなるような気持ちが込み上げてくる。
「……」
黙っていると瞳が滲みそうになって、ボクは慌てて目を擦った。こんな世界で、一人ぼっちで放り出されでもすれば、流石のボクでもナーバスになる事はあるだろう。そう言い訳し、ボクはリボンを捨てるのはやめて、代わりに鏡を探した。
直生の勉強机の隣に、簡素なドレッサーが置いてある。その前まで膝を擦るようにカーペットの上を移動してから、ボクは鏡に向かい合って座り込んだ。
「えっと……」
自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。転移前、何の仕事をしていたかは知らないが、あの鞄の中身を見るにオフィス勤務っぽかったし、そんなサラリーマンがこんな髪飾りなんて絶対にしないだろう。それでも、ボクはどうにか、手元にあるリボンを自分の髪に結ぼうとした。左側で不器用につまみ上げた自分の髪の房が、つるつると滑る。自分は女だった事はないけど、お洒落をしなきゃならない女性は毎日大変だなとつくづく思う。
上手く結べずに、まごまごとしているボクの脳内で、ふと声が響いた。
『ふふっ。大丈夫、私が結んであげる』
「……誰?」
思わず、鏡の自分に向かってぽかんと口を開けたままで、間抜けな声が出た。もちろん、そこにはボクしか映っていない。きっと、これは記憶の中の声なんだろう。おそらくは、このリボンをボクにくれた誰か。けれど、思い出せない。
『ピンクなんて、ボクにあり得ないでしょ。黒とか青とかならともかくさあ』
『えー。絶対似合うって。大人しい色も素敵だけど、ピンク、絶対に似合うよ?』
『あんた、ピンクが好きなの?』
『そうだよ。だって可愛いもん。それに、ヨアさんが可愛いって褒めてくれた色だから。ピンクは、幸せの色なんだよ』
はにかむような笑いが、春風みたいにさあっと脳内を吹き渡る。手に持ったリボンを、ボクは鏡ごしにじっと見つめた。
『慣れたら簡単に付けられるから大丈夫。ここの髪をね、こうやって持ち上げて……』
あの声を思い出していたら、指先は不思議なほどに落ち着いて動いた。まるで、最初からどう動かすのかを知っていたみたいに。髪の下を通しながら一回結ぶと、薄い生地のリボンが髪の横側から垂れ下がる。位置はここでよさそうだけど、このままだとリボンがずり落ちてしまうだろう。何かで固定しないと。
「そうだ、確か……」
直生の奴、ヘアアクセも持ってたよな。その辺の棚にあった、大きめの黒いバレッタみたいなものを、片手で拝借する。自分の髪色に馴染んだ色の濃いそれを、パチンと音を立てながらリボンの下で留めると、リボンは落ちてくる事なくボクの髪に収まっていた。まっすぐな剛毛だから滑り落ちてしまうのではないかと思ったが、意外としっかり留まってくれる金具だったようだ。どこかほっとしながら、ボクはリボンから両手を離す。
改めて鏡の中を覗き込むと、顔の横側で垂れ下がったリボンがふわりと揺れた。物に感情なんかないはずなのに、まるで喜んで笑っているみたいだ。ボクの隣で、こうやってリボンを結んでくれたはずの、誰かみたいに。顔の朧な笑顔が、まだ捲れずにいる記憶の裏側で翻る。
『ヨアくん、って素敵な名前だね』
『そんなにいいのかなぁ……あんまり、好きじゃないんだけど。この目と同じで』
『そっかあ。……私は、綺麗だと思ったよ。夜明け前の空みたいで。だってそれは、困難を潜り抜けた後に必ずやってくる希望だから。あなたの目に宿る炎が、燃え上がる心みたいに見えて、私は好きだな』
躊躇いながらも、そう伝えてくれた言葉が蘇った。今まで、誰から聞いた言葉とも違っていた。表面をなぞるだけの美辞麗句でもなく、薄っぺらい慰めでもなく。ボクがこの目と名前を嫌いだと言ったから、勇気を出してそう口に出してくれたひたむきな心が、声音から伝わってきた。
「……あんたは、一体誰なの?」
掠れた声で問い掛けても、頭の中からも外からも答えは返ってこない。けれど、黒い髪に映えるピンクのリボンは、まるでお守りみたいにしっくりとそこへ馴染んでいた。頭を振ってみても、体を翻して揺らしてみても。絶対にボクの趣味じゃないはずなのに、そこにいるのが当たり前みたいに、馴染んだ姿に感じたんだ。
これは、鏡の中に、このリボンの持ち主を見ているせいなんだろうか。それとも、ボク自身、何度もこのリボンを付けて出かけていた経験がある、とか……?
「……」
ここは、ボクが住んでいたのとは全く違う世界の“東京”だ。
木造の天井から、アンティークな形の照明がぶら下がっている。ぼんぼり、と言えばいいのだろうか。白木と和紙に囲まれた四角い電灯に、日中の今は灯りが灯っていなかった。廊下の横にある庭からは、古いガラスの引き戸越しに太陽の光が入ってくるけど、日本家屋って意外と暗いんだな、という事をこの家にいると感じさせられる。
「っ……!」
ふと、目の前を桜の花びらが横切った気がして、ボクは思わず引き戸を開け放った。勢いよくレールの上を戸が走る音がして、木枠に嵌っていた窓ガラスがガタガタと鳴る。けれど、目にした庭には桜はおろか、花ひとつ咲いていなかった。まだ春の訪れを待っている、ひっそりとした静かな土や植木が眠っているだけだ。
視界の端に、ちらりと桜色のリボンが映る。それだけで、心がなぜか浮き足立つ。落ち着かないけれど、それは嫌なざわめきじゃない。たとえば、このリボンの端っこを違う世界にいる誰かが握っていて、ボクはずっとその人に会えるのを待っている――とか。馬鹿げた妄想だけど、どうしてだかそんな気がしてならないんだ。
「ヨアくん?」
不意に声を掛けられて、ボクはびくっとしながら振り返った。すぐそこに、この家の家主である愛理さんが立っている。直生のお母さんで、ボクみたいな変な奴が居候したいと言っても、最初から嫌な顔ひとつせずに置いてくれた。ちょっと変わってるけど、優しい人だ。
そんな愛理さんは、ボクが隠す暇もなかった頭のリボンへと、当然視線を留めた。
「え、えと……」
「おや。可愛いリボンだね。君によく似合ってるよ。直生と新しく買ってきたのかい?」
「ち、違うと思います。多分。よく覚えてないけど、ボクの鞄の中に入っていたから……」
だからといって付けてみようなんて、我ながらおかしな話だ。目を細めてこちらを眺める、ボルドーのチュニック姿の愛理さんを、ボクはおずおずと見つめた。
「あの……変、じゃないでしょうか。本当に」
「何言ってるの。すごく似合ってるから、僕はまた、縁側に桜の妖精でも舞い降りたのかと思ったぐらいさ」
おどけてそう言って笑う愛理さんの言葉は、キザなのに嘘には聞こえなかった。楽しそうな笑い声と一緒に、身に過ぎた褒め言葉が、心にすっと入ってくる。ぼーっと熱くなる顔を必死で背けていると、愛理さんはボクの前髪を軽く撫でた。
「こっちの庭に、桜はないんだけどね。中庭には一本植えてあるんだ、もし春まで君がこっちにいるようなら、お花見に来てごらん」
「そうなんですか」
「ふふ、一軒家に珍しいだろう。もうそろそろ直生の誕生日だからね、桜は無理でも、梅は咲き始める頃じゃないかなあ」
桜……以前のボクがどれほどその花を好きだったのか、記憶にはない。けれど、気がつけばいつも、桜の花びらばかり追いかけていたような、そんな気がする。桜じゃなくって、その向こう側にいた、お転婆で世話の焼ける誰かさんを。
「ただいまー。おう、ヨア。なんだよ、引き篭もってばっかだったのに珍しいな」
玄関側の廊下から歩いてきた直生は、仕事帰りだったらしく、鞄を肩に引っ掛けたまま、ポニーテールを軽やかに風に流しながら片手を上げた。直後、ボクの髪を見て目をぱちくりさせる。
「なんだそれ。随分と可愛いもん付けてんな」
「こ、これは……その、荷物に入ってたから、何となく。別に、最初から似合うなんて思ってないし、何となく試してみただけだし」
バカにされるのが怖い。言い訳する必要もないのに、思わず防御柵を張って後ずさってしまう。お洒落をするのは何も恥じらう事じゃないと頭でわかっていても、条件反射みたいなものだ。けれど直生は、何度か瞬いてから、穏やかに瞳を和らげただけだった。
「ふうん。そっか。なんか思い出せたか?」
「いや、特には、何も……でも、このリボンをくれた相手と、会った事があるような気がする。この世界の人じゃないだろうけど……でもきっと、大切な人だったんだ」
口に出せば出すほどに、確信は高まっていく。ボクを待っている、誰か。ボクが待っている、誰か。その人に会いたい。今は名前すら思い出せないし、何の手掛かりもないけれど、必ずどこかにいるはずだ。リボンに触れながら呟いたボクをじーっと見ていた直生は、ふとどこかにやついた口元を隠しながら言った。
「ヨアさぁ、捻くれ者だし口開きゃうるせーし、面倒な奴なのかと思ってたけど、意外と素直で一途なとこあるよな」
「な……ッ!?」
「何言ってるのさ。僕ははじめから素直で可愛い子だと思ってたよ?」
「愛理さんまで何言うんですかッ!」
そんな褒められ方、生まれてこの方した事がない。いや、記憶がないから正確にはわからないけど、ともかく体がむず痒くて仕方がない。でも、たった数日とはいえこの世界で孤独に過ごしたあの夜が長すぎて、こんな風に虚を突かれて普通に狼狽えたり、遠慮なく笑いを交えた会話が飛び交う事なんて、随分と久しぶりだったような気がする。相手の下心が透けてうんざりするような“綺麗”や“可愛い”は、この家には存在してなかった。鈴木家の人は、誰もが上っ面じゃなく、心からボクに歩み寄ろうとしてそう言ってくれた。名前の思い出せない、あの人みたいに。だからボクは、何の飾りも仮面もない丸裸のボクは、こんなにもどうしていいかわからない気持ちになるのだろう。
いっそのこと、そんな上手い話があるわけないと、警戒させてくれればよかったのに。この家の人達は、どこまでもみんな優しかった。冬の間、心に降り積もった雪が解けていく。手に触れた桜色をきっかけに、どこまでも広がる柔らかなぬくもりが、まだ存在しない桜の香りを風に乗せて、不意に漂わせてくれたような気がした。
「そうだ。今度、その髪飾りに似合う服、探しに行こうな」
そう言って、思いついたように表情を輝かせた直生が笑う。役者としても王子様らしい雰囲気を漂わせている直生だけど、相変わらずきらきらしているというか、側で見ているには眩しすぎるくらいの笑みだ。それがいいと言うように、愛理さんも大きく頷いている。
「オレの着ない服貸してもいいけど、体格が合わねえからヨアにはちょっとデカすぎるし……リボン系だとワンピースとかも似合いそうだよな」
「間違いないね。シフォン系のブラウスとか、チュールのロングスカートとか似合うと思うんだよ。ヨアくん、脚が綺麗だからショート丈も捨て難いな」
「あっ、それもいいかもな。デニムのパンツとか普通に似合いそうじゃね?」
「ちょっ、ボクまだ何も言ってないんですけどっ!? だっ、大体、元の世界じゃ男だったのに、ファッションになんか拘ったところでどうしようもないだろ……」
投げやりにそう言ったまま視線を逸らすと、目の前で直生と愛理さんが顔を見合わせる気配がする。そして、直生は豪快に笑い飛ばしながら言った。
「元の世界と体に戻った時の事は、そんときゃそん時で考えればいいだろ。オレだってこのナリでこの喋り方なんだし。あんま深く気にすんなよ。今楽しめる事は、今のうちに楽しんじまおうぜ」
(どちらかというと、楽しんでるのはあんたの方でしょ……)
体のいいモデルが見つかってよかったぐらいに思ってるんだろう、と思わず呆れて肩を竦めたけど、嫌な気分じゃなかった。ほんの少し――ほんの少しだけど、スカートやお洒落な服が着れるって聞いて、心の踊った自分がいたからだ。それが、ボクの秘めた欲望だったのか、元々の趣味嗜好だったのかはわからないけど。どうせ記憶は残っていないんだ。この際、直生の言う通り好き勝手してしまうのも、いいかもしれない。
「わかった。いいけど、費用はあんた持ちだからね」
「ぐっ……なんつーふてぶてしい……」
思わず直生が唸ったので、ボクは反撃の機会を得たりとばかりに、ツンと顔を逸らして言ってやった。いくら世話になってると言っても、こんな雨に濡れた子猫を見るような目ばかり向けられているのは、いつもボクが同情を買いたがっているようで癪に障る。
「当たり前でしょ、ボクはこの世界のお金持ってないんだから。どーしてもボクに可愛い服を着せたいってんなら、そのぐらいは負担してよね」
「なっ……ちょっと元気取り戻したかと思ったら、途端に可愛くなくなるなこいつは!」
「ふふふ、まあまあ。ヨアくんは慣れない環境でしょんぼりしてたんだから、このぐらいが丁度いいよ。おっとそうだ、お小遣いあげようね」
「愛理さん、それはいいですよ!? ボクそういうつもりで言ったんじゃないんでっ! 外行くついでにバイトも探してくるし、それなりにこっちの世界で稼げたら、ちゃんと家賃とか負担しますからっ……!」
「おい待てえ! お前、愛理とオレじゃ随分態度が違うじゃねーか! なんでオレに対してだけそんな当たりキツいんだよっ!」
「本当に大人で尊敬できる愛理さんと違って、あんたはいつもガキっぽいのに大人ヅラしてるだけだからでしょッ!」
「お前だってオレとそんなに歳変わらねーだろうがッ!」
あまりにボクと直生が大声でやり合うものだから、近くの木から鶯が驚いて飛んでいくのが聞こえた。まったく、ああ言えばこう言う、直生ってば本当に、いくら話していても口の減らない奴だ。それに少なからず心を救われている自分もいるけれど、どうしてだか、素直に感謝しようって気にはなかなかなれない。
苦笑する愛理さんの隣で、鼻から息を吐いて顔を背ければ、見上げた青空は陽射しに輝いていた。テレビではまだ豪雪の降る地域が報道されていたし、吹いてくる風は冷たいけれど、少しずつ、春に近づいているような気がする。
(あんたが誰なのかは、わからないけど……)
風にぱたぱたと揺れるリボンを押さえて、ボクは決意を新たにした。いつか絶対に、思い出してみせる。ピンクは幸せの色だって教えてくれた、あんたの事。そしてその幸せを、世界を超えて届けてくれた、あんたの事を。
(それまでに、このリボンに似合うコーデを考えといたら、あんたは喜んでくれるかな……?)
まあ、ボクに似合わなくたって、あんたに着せればいいんだろうけど。だけど、女物の服を着たボクを見て、あんたはきっと花みたいな笑顔を見せてくれるだろうなって、根拠もなく思った。
だから、そんな日が本当に来るように、それまで待っていて欲しい。祈りに似た気持ちを抱えて空を見上げるボクの事を、愛理さんと直生が、側で優しく見つめてくる気配がした。
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