【番外編】海をゆく春-1
二月の終盤から急激に暖かさが増し、春が駆け足でやってくる、そんな季節。ジャージのまま、自室から続く廊下を白靴下の足で進み、眠たげな顔で鈴木邸を歩いていた
桜よりは随分と早咲きの蕾が、朝日の中で膨らんでいる。その紅梅色に直生が目を細めていると、背後から不意に声を掛けられた。
「お誕生日おめでと、直生くん」
振り返ると、袴姿にリボンをつけた小柄な女が立っている。何かを隠すように歩み寄ってきたその人影は、見慣れた姿でありながら、この家で出会うはずのない者だった。
「
「やだなぁ。今日は直生くんのお誕生日会でしょ?」
「あ、そっか。サンキュな」
思わず手を差し出すと、紫咲はその手を握りながら口元に微笑みを浮かべた。
『ほんと、よかったね。今年もまた一年、のうのうと歳を取ることができて』
「ッ……!?」
異変に気付いたのは、その時だった。吐き気がしそうな程に平衡感覚が失われ、ぐにゃりと地面が歪む。
振り返り際に仰ぎ見た梅の木は真っ茶色に枯れ、汚く塗られた空を雲が飛び去るような風切り音の中で、どことも知れぬ空間を真っ逆様に落ちていく。落ちているのに、血生臭い何かに全身を絡め取られているような、触手の生えた臓器の内側を這いずっているような、得体の知れない浮遊感と気持ち悪さに襲われたまま、無数の声が直生の元に詰め寄ってくる。
『よかったでしょう。忘れたまんま自分だけ幸せでいられるのは』
『けど、俺は忘れたことなんかないからな』
『そもそも最初から間違いだったんだ。全部……』
『お兄ちゃんのこと、信じてたのに』
よく耳を澄ませば、全部紫咲と家族の声だ。一人ひとり、差別的な視線や怯えた目つきが、闇の中に克明に浮かび上がる。
『だから、こんな頭のおかしい弟は最初から嫌だったんだ。最初から壊れてたんだよ。実の親に懸想して手出すなんて。お前が居たから、俺の居場所も家族も、何もかも全部奪われたんだろ』
「
『まるで……まるで僕が全部悪いみたいに言うけど、襲ってきたのはそっちじゃないか。人の身体でなるだけ良くなっておいて、挙句子供を産めだなんて……恐ろしい。どうして、こんな子になっちゃったんだろう。僕は、いつから何を間違えて……』
「
『どうして、お兄ちゃんのせいで私までこんな思いしなきゃいけないの。大好きだったのに。こんな最低で、穢らわしい人間だったなんて。大嫌い。もう、こんなお兄ちゃんと家族になんてなれるわけない』
「
涙で溢れた瞳で、背を向ける家族に手を伸ばそうともがく直生の背後から、包み込むような威圧感と、独特の響きを持った声が迫る。
『直生。あなたが家族から奪ったものは、大きかったわね』
「母さ……ッ……!?」
巨人の掌に、喉を掴まれて締め上げられているかのような圧迫感。ああ、きっとこれは、番である愛理を奪われた、あやめの怒りであり罰なのだと。
亡き母を思って振り返った直生は、覚悟を決めたが――そこには誰もいなかった。詰り声や蠢く壁の音や風切り音が、嘘のように静まり返って、黒い闇が広がっている。
「……?」
いつの間にか浮遊感も消え、地面に足がついている感触はあるものの、依然としてどこかはわからない。地の底まで落ちてしまったのだろうか。
そう思った時、足元にひやりとした感覚があり、直生は飛び上がりそうになった。白く冷たい手が、自分の足首を掴んでいる。ぞわり、と全身の毛が弥立つような、それでいて身に覚えがあるような、そんな感覚で動けずにいるうちに、足を掴んでいた手は、沼から這い出るようにして正体を表した。
黒い泥を浴びているとは思えないほど、眩く光を放った純白のワンピースと、そこから伸びた、服と同じほど白い手足。ぐにゅりとそこから背を起こすように、独特の仕草で立ち上がったそれは、真っ白の長い髪に緋色の瞳をしていた。少女が、直生に向かって微笑む。
「お、前……」
『 』
「ッ!」
声が、聞こえない。否、聞いてはいけない。
少女の前で反射的に耳を塞いで蹲る直生の体が、小刻みに震えている。
「頼む……やめろ……」
無邪気に首を傾げて、直生の隣に屈み込む少女。震えが大きくなる肩に手を掛けた少女の、その形のよい唇から、言葉が溢れる。
『ワタシを忘れて、新しい
「やめろ……お前、怒ってんだろ……悪かった。オレが、悪かったから……」
『どうして、こっちを向いてくれないの』
「頼む……お願いだから、もうやめてくれ……」
無感情な声だった。薄く白い胸元に抱き寄せられ、直生の喉がひゅっと音を立てる。首を絞められているわけでもないのに、勝手に肺が呼吸を拒み意識が白んでいく中、この苦しみに不似合いな乳臭い香りを纏った少女は、一糸纏わぬ柔らかな裸に直生を抱きしめながら、最後に言った。
『わすれさせないから』
「ゆう、ひ……ッ」
『ワタシ抜きで、幸せになんかならないでよ。――
*****
「……何をやめてくれ、って?」
夢の世界が割れた瞬間に頭の上から降ってきた声は、冷や水のようだった。
どこまでも冷静に澄み渡って、オレの意識を覚醒させる。と同時に、喉と肺を焼くような息苦しさが襲ってきて、オレは即座に身を起こしながら咳き込んだ。体は汗だくで、長い間水の中にいたかのように体が重たい。
「ヨ……ッ、げほ、かは……っ」
「おい、直生。しっかりしろ」
隣で体を支えようとしてくれる
こんな夢を見た日には、もう何度も経験したことがある。吸っても吸っても治らない息苦しさに喘ぎ、涙で滲んだ視界の端に映った、床に放りっぱなしの適当なプラスチック袋に思わず反射で手を伸ばそうとしたその時。傍に寄り添っていたヨアが、はっしとオレの手を掴んだ。
「大丈夫だから。ゆっくり吐いて。吸うなよ。吐く方に集中しろ。一・二・三……」
肩を抱き抱えるようにしながらしっかりオレの背を摩り、空いた手でオレの左手を握ってくれている。
そのひやりとした滑らかな感触に我を取り戻して、隣の落ち着いた声がカウントを繰り返す間、涙目のまま精一杯息を吐き出した。ペーパーバッグ法――いわゆる袋で口を塞ぎ、二酸化炭素濃度を高めて過呼吸の発作を治める方法を、オレも昔は使っていたけれど、最近じゃ効果が疑問視され、窒息の危険もある事から、治療法としては推奨されていない。代わりに、十秒ほど掛けてゆっくりと息を吐き出す。吸う・吐くを一対二くらいの割合になるように繰り返し、そうやって呼吸のリズムを整えることで、発作も自然と収まってくる。
それを調べてきたのは、この家に来て間もなく、オレの部屋で一緒に寝ている間にオレの発作に度々立ち会うことになったヨアだった。最初こそ驚かせてしまったものの、これが起こる原因そのものをだいぶ前に知ってしまったヨアは、今では信じ難いくらいの冷静さで対処してくれている。
ふと、スマホの通知画面の人工的な光が、明け方の暗い部屋に浮かび上がった。寝る前は机に置いたはずなのに、何故枕元に……と思ったが、雑に放り出してあるそれは、オレではなくヨアのスマホだった。オレが発作を起こすと、必ずこいつが横に持って来るのをオレは知っている。使ったことはないけれど、おそらく、どうにもならなかった時にすぐ、家族か救急車を呼べるようにするためだろう。
そうやって、何でもないこと一つ一つに意識を向けているうち、呼吸はゆっくりと穏やかになっていった。肩と背中に当てられたヨアの手のぬくみを、今はちゃんと感じられる。カーテンから僅かな光が差し込んでくる部屋で、ほっとしたように、ヨアはオレの左手を握っていた手を少し緩めた。
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