【番外編】海をゆく春-2
「落ち着いた?」
「ああ……すまん」
「別に、時々あることだから気にしてないけどさ。悪い夢でも見たの? 魘されてたよ」
「オレの家族が……愛理や葉や藍や、母さんや、夕陽がみんな言うんだ。全部オレのせいだって……お前が生まれなきゃ、こんな事になってないのにって、夢の中でオレを責めるんだよ」
「そりゃまた……誕生日の朝だっていうのに、随分と酷い夢だね」
「誕生日だから……って言った方がいいかもな」
「まあ、言えてるね。ある意味一年で一番、生まれてきたことに思いを馳せる日だ。あんたが罪悪感に苛まれるのも、無理はないよ」
もはや内容の酷さに呆れたように言いながら、ヨアはどうせ寝れないだろうと判断したのか、明るくなり始めた窓のカーテンを開け放つ。それを見ながら、オレは頭を抱えて布団の上で胡座をかいたまま蹲った。
「夕陽なんか、オレのこと『お父さん』って呼ぶんだぜ。自分を忘れて幸せにならないでくれって。そりゃあ、そうだけどさあ……! オレは……愛理を苦しめて産ませただけのオレなんか、もうあいつとは何の関わりを持つ資格もないんだ。それを……」
「ちょっと。夕陽ちゃんってまだ三歳とかでしょ。そんなに喋るわけないじゃないか」
「だよな……そうだよな。わかってんだけど。オレの家族がそんな酷い事言うはずねぇってのも、わかってんだ。わかってんだけど……心のどっかじゃ、ずっと怖いんだろうな」
家族全員に、恨まれても仕方がない事をした。そして今も、何でもない顔をしてステージに立ちながら、世界を欺き続けている。オメガである実の親に手を出し、子を産ませた事などが世間に知れたら、芸能界どころかこの世界にも、自分が穏やかに生きていられる場所はなくなるのだろう。覚悟はできていたはずだった。それだけの物を背負ってでも、この身を燃やして強欲に愛理を愛し抜いたことに、悔いはなかった。何というか……行い自体に後悔はあるけれど、愛する気持ちに悔いはない。むしろ、捨てるはずだったもの全てを持っている今の方が、奇跡に近い。
そんなあたたかな希望と裏腹な、怯えと罪悪感に耐えかねた時、あの発作が起こる。大体は、悪夢で魘されて気が付けば過呼吸になっていることが多い。あの、生まれて退院した日から一度として会っていない白髪が、紅い瞳が、静かに無言でオレを責めてくる。自分を捨てて幸せに生きるなら、何故自分を産んだのかと。
「捨てたって思われても、仕方がないんだ。子供を作るのは親の勝手で、しかもオレはその責任を果たせないどころか、元から親としても人としても、最低の人間だったから。苦しむのも……別にいい。当然だ。けど、どうしても思い出しちまうんだよ。自分がこうやって、仕事で忙しくて充実した生活を送ったり、家族とかお前の隣で当たり前みたいに笑ってる時、もう一人、オレがオレの勝手で生み出した人間の人生が、必ずこの世界のどこかにあるってことを。だから……楽になんて生きられる訳ないだろ。お前にこの世界に居てくれって、オレの傍に居ろって、あれだけ言ったけど、時々わかんなくなるんだ。本当にオレは、幸せになってもいいのか」
「……」
夕陽をオレから、この家族から引き離したのは、愛理の意志だった。こんなめちゃくちゃになった家庭で、知らん顔をしてあやめの前でオレとの子を育てることはできないから、と。その条件を飲めないのであれば堕ろすと、鬼気迫った表情で言われて、オレは泣く泣くそれを聞き入れた。
無理やり愛理を犯した身の上で何をと言われるかもしれないけれど、本当はこの家で育ててやりたかった。それが自分なりの責任の取り方であり、そうでなくとも、愛理との間の子など可愛くないはずがなかったからだ。
けれど結局、夕陽が生まれたその日に母さんは心臓病で亡くなった。実子の身でありながら愛理を奪った、このオレを永久に罰するかのように。そして夕陽は、生まれてすぐに、国外へと養子に出されて行った。本当は里親と実親同士は連絡を取り合ってはいけないことになっているらしいが、特別に愛理のところへは、里親家族が時々近況を知らせてくれている。今は、ロサンゼルスに住んでいたはずだ。
部屋に置いていた古びた水筒の蓋に、暖かいお茶を注いだヨアがそれをオレの方へ差し出した。仄かな湯気が、明け方のまだ強張った体を温めていく。
「将来的にどう思われるかはとにかく、今は幸せに暮らしてる……んだろ」
「まあ、な。里親になってくれたのはいい人らだし、夕陽の事情を知っても動じもしなかった。ちょっと変わった人らだったけど、だからこそオレらみたいな人間の子供を、受け入れてくれたんだと思う」
「問題を先延ばししてるみたいであれだけど、実際にはどう思われてるかわからないことを、あんたが今あれこれ考えたって仕方がない。この家のみんなのことに関してだってそうだ。みんな、あんたの犯した罪を見つめて、それでもあんたに向き合いたいと思った。だからこの家に戻ってきたんだろ」
ヨアがそう言って、オレから回されたカップを啜る。
きょうだいとの……特に葉兄との関係なんて、修復不可能だと思ってた。尋とは幼い頃は不仲だったのがあるし、藍は事情を分かるにはまだ幼いと思っていた。けど、葉兄は……オレが一番慕ってた上の兄だったし、幼い頃から何かといつもオレの味方でいてくれたばっかりに、誰よりも傷付いてしまったんじゃないかと思う。こんな弟でごめん、こんな妹でごめんと、何度思ったか知れない。
それでも、あいつは優しい兄だから。離れた場所からも、オレや家族のことを気にかけて、苦しい思いをしてでもあるがままのオレを受け入れて、時々はオレを叱って。こんな風に、もう一度誰かを愛することまで認めてくれた。
そして、母さん亡き後の愛理も、オレを番として受け入れてくれた。離別であれ死別であれ、アルファから強制的に番を解除されたオメガは、精神的な苦痛から生きていくことが難しくなる。そんな愛理の命を繋ぐためだという大義名分で、結局のところオレは本意を遂げたのだ。
正直、あのまま母さんの後を追わせて死なせてやった方が、愛理にとっては幸せだったのだろうかと、何度も自分に問い直した日もある。けれど今、愛理は少しずつ零れていく記憶を抱えながらも、幸せそうに笑っている。この家に出入りする人間や、同居している家族の中で、穏やかに落ち着いていて……ほんの数年前まであったような激しい交歓と欲情の日々とは違うけれど、オレとの間にも家族との間にも、たしかな愛情が感じられる。
それで十分なのだと、今は心静かに思える。けれど、あの心が荒れ狂った嵐のような時代、もう少し早くにこんな風に全てを受け入れていられたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに、と。思わずにはいられない。大きく深く、一度オレは溜息を吐いた。
「こうなってもオレ、愛理を好きになる事だけは、止められなかったと思うんだ。それだけは、今でも自信ねえよ。処置ねえよな、こんなんじゃ」
「たしかにあんたは、あんたの生き方は、どうしようもなく歪んでたのかもしれない。でも、歪んでるからって存在を赦されなくなるには、この世界は雑味に溢れ過ぎてる。罪を背負っても、生きていく方法があるはずだ。少なくとも、今あんたと直接例の件で関わった人間は、全員あんたを赦してる。事情を知らない藍ちゃんと、まだ意思決定のできない夕陽ちゃん以外はね。それが、あんたにとっての救いだよ。結果オーライみたいな形になったのは、奇跡的だったとしか言いようがないけど、それでもあんたは大手を振って生きてくれって、一番身近な人間から背中を押されてるんだ。こんな有難いことがあるか?」
「……」
寄り添うような、それでいて叱咤するようなヨアの言葉は、どこまでも先を明るく見据えている。その意志の強い瞳と視界に、オレは何度救われてきたことだろう。生真面目な隣の顔が、仄かな朝ぼらけの光に照らされたまま、言葉を紡いだ。
「あんたは前を向いて生きていい。むしろ生きなきゃいけない。それが、あんたの償いになるのなら。まぁ、それでも荷物の重さが手に余るって言うんだったら、ついでにボクが持ってやってもいいけどね?」
どうせ隣にいるんだし、と肩をぶつけるようにしてヨアはくっついてきた。左肩が暖かい。今まで一人でこの部屋で過呼吸に耐えていた時には、なかった温もりだ。手を繋いだまま、ヨアは抱きついたオレの腕を、空いた指先でじっとなぞる。ジャージ越しでも、体温を共有するには十分だ。
「だから別に、泣いたっていいよ。外側に傷痕のある奴だけが、傷を持つ人間じゃない。痛い時は泣いていい。忘れないようにしようと思うなら、痛むのは当然だ」
「……ああ」
俯いたまま、思わず零れ落ちて顎を伝う涙を、オレはそのままにしておいた。
この部屋を防音にしていたのは、役者としての練習上の物音が漏れ聞こえないようにというのが大部分の理由ではあるけれど、ああいう発作の時にこっちの物音が聞こえて家族に余計な心配をさせないようにという理由も、正直なところあった。自分が甘んじて受けるべき苦痛は、一人で背負って耐えていくのが当然だと、そう思っていた。そうやって、絶対に人の手が届かない場所へ引き篭もったはずのオレの隣には、今なぜか愛すべき相方がいる。
純粋な疑問が湧き上がってきて、オレは体育座りのまま、乱雑に頭を埋めた手で目元を拭いながらヨアに聞いた。
「……なあ。なんでオレなんだ」
「はあ?」
「なんであんたは……オレの隣に居てくれるんだ」
か細い声が、喉の奥から漏れる。今更それを聞くのか、と言いたげな胡乱げな瞳が、微かな闇の中で瞬いた。
「あのねえ。あんたが身勝手に愛理さんのことを好きになったみたいに、変人のあんたを好きになってる変人が、一人くらいは居たっていいでしょ、別に。ボクが自分で自分を変人呼ばわりしなきゃなんないなんて、すーーっごい癪だけどね。でも、どう考えても変人でしょ。こんな話を聞いてまだ、あんたの隣に居たいとか」
そう。そこだ。ヨアは、ヨアはこの家で暮らし始めて以来、どんなに残酷な話を聞いても、オレへの態度を変えようとしないのだった。それが何故なのか気になるのに、ヨアははっきりと答える代わりにこう言った。
「ボクは神様じゃないし、英語名はヨナスなんて言うけど、預言者でも何でもないから、代わりにあんたを断罪する事もできない。気休めも言えない。……罪は消えないかもしれない。世界はあんたを赦さないかもしれない。でも、だったら、せめてボクくらいは、傍に居てやらなきゃ報われないと思うわけ。ボクはこの世界に落ちてから、この目であんたを見た。ボクの目に映ったあんたが、ボクの全てだ。だから、何も心配しなくていい。たとえあんたがどんな人だったとしても、ボクはあんたを赦し続ける」
「ッ……。お前さあ、信じられないくらいイケメンだよな」
「なあに? 今更気付いたわけ? 遅すぎでしょ」
ボロボロ涙を零すオレに向かって、遠慮なく唇を吊り上げたニヒルな笑みが頼もしい。だから、つい寄り掛かってしまう。こんなオレにも誰かに心を預けさせてくれ、と、過ぎた願いを抱いてしまう。絡めた指に伝わる温もりが、こんなにあたたかいのだから。知ってしまったら、もう戻ることはできない。
線の細い体を抱き寄せると、ヨアは得意そうに言った。
「何にせよ、ボクは勝手にあんたを選んで、あんたの横にいるだけだから。ボクが傷付くかもとか、無理させて苦労掛けてるとか、あんたがそんな事気にする必要は全ッ然ないわけ。むしろ気にするだけ図々しいってやつ。あんた、金だけは持ってるし? 有名人で金持ちとか、別にステータスとしては悪くないでしょ」
「……ありがとな」
「うーわ、気持ち悪。お礼とかいちいち別にいいから」
ともすればちっとも本音が出てこないヨアの言い回しすら、オレには愛おしい。布団に入り直すでも、起きて活動するでもなく、暖房だけつけてうつらうつらするうちに、部屋の扉を小さく叩く音が聞こえた。
「……葉だ。呼びに来たかな」
ヨアがそっと顔を上げる。まだ寝坊と言えるほど遅い時間帯ではないはずだけど、何か誕生日会の手伝いでもあるのかもしれない。そう思って、オレとヨアはどちらからともなく立ち上がり扉を開けた。
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