【番外編】海をゆく春-3
*****
二人揃って迎えると、少なくとも片方はまだ寝ていると踏んでいたのか、少し意外そうに丸く目を開けた葉兄が、カジュアルな家用の服に身を包んだままそこに立っていた。
「……葉兄」
「よ。おめでとさん。別にゆっくり起きてきてもいいけど、目覚めてんならこっち来いよ。もうみんな居間に揃ってるぞ」
「……うん」
朝日の差し込む廊下で、ガラス越しに小さく鳥の鳴く声が聞こえる。何の変哲もない、いつも通りのやり取りが、あの夢の後では殊更胸に堪えた。肩が震えてしまって、俯いたまま返事を出来ずにいるオレの前で、怪訝な表情になる葉兄の気配がする。
「おい、どうした。具合でも悪いのか? つーか、お前目ぇ真っ赤だぞ」
「直生は今朝酷い夢を見て、夢ん中で葉に生まれてくるなとかこんな弟は要らないとか、散々言われたんだってさ。ボクが今優しく慰めてたところだよ……ふわあ。おかげでこっちは寝不足」
「え。やーば。そんな事俺が言う訳ないじゃん。って、まぁ前に似たような事言っちまったことはあったかもしんねえから、俺も悪いんだろうけど……。ちょ、まさか、そんな悪夢真に受けてんの? 直生、もしかして泣いてる?」
ヨアの余計な茶々入れを受けて、冗談めかしていた葉兄の声が、本気で心配するトーンに変わるのがわかった。あんまりこんな顔見せたくないけど、目を瞑ったままでも涙は勝手に溢れてくる。拳で拭う手を、擦らないようにと押さえつけて自分の服の袖で顔を擦ってくれる仕草は、幼い頃の葉兄とそっくり同じままだった。途方に暮れたように、葉兄は言った。
「おいおい。なんで誕生日の主役が、こんなにしょんぼりしてんだよ。あーもー、擦るな。後で痛くなるぞ」
「ごめん……」
「なんでお前が謝んだよ。まさか『生まれてきてゴメン』とかほざくつもりか? そっちの方が怒るぞ?」
思いっきり、葉兄にほっぺをむにょ〜んと摘んで伸ばされる。容赦ない痛みに頬を擦ると、葉兄ははっと笑って、頭ひとつ分ほど高いオレの髪をぐしゃぐしゃと撫でてくれた。
「まあ、お前普段泣かねーからな。一年分くらいここで泣いとくのも、まあたまにはいいんじゃね?」
「う……」
「そもそもな、お前が父さんに恋をして云々ってんなら、早い時点で何にも気が付いてやれなかった俺らだって同罪だっつの。尋姉は呑気なもんだったし、まさか藍を頼る訳にもいかんし。俺が気付くなり、お前の気持ちに対処するなり、しなきゃいけなかったんだよ。あんま一人で思い詰めるな」
「けど、さ……夕陽は……」
「そりゃ、直接お前と血が繋がってるって聞いた時はさすがにビビったけど。ドン引くとか通り越して恐怖だわ。けど、生まれて来ちまったもんはどうしようもねーだろうが。こっちは苦労して苦労して、ようやく飲み込んだんだ。お前がどんだけ秘密に潰されそうになったとしても、この家じゃ少なくとも俺や尋姉は飲んでやれるんだから、せいぜい……」
そこまで聞いて、ヨアに袖を引っ張られながらふと涙の顔を上げたオレは、蒼白になった。
「どうし……」
釣られたように後ろを振り返った葉も硬直する。 廊下の脇の客間に続く障子戸の影に、見慣れた妹の姿が――涙目でこっちを睨む、おさげの藍の姿がそこにあった。夢の中の事を彷彿とさせる表情に、頭が真っ白になった。
「な……っ」
「お、おい藍、今のは……」
「なに、お兄ちゃんの子供って」
さしものこれにはヨアも上手い言い訳が立たないのか、おろおろしている。キッと目を吊り上げたまま、冬用のチュニックとズボンでつかつか歩いて来た藍は、その身長からは考えられないくらいの迫力で、オレら三人を睨み上げた。
「私の聞き間違いじゃないよね。どういうこと」
「え……えと、これは……」
「あー、えっと……つまり……」
「お兄ちゃん、パパに子ども産ませた? パパのことが、ずっと好きだったの?」
弁明のしようもない詰問に、オレは頷くしかない。ぽろぽろと涙を零して俯く藍のつむじに、オレは情けなく項垂れるしかなかった。
「……ごめん。本当はオレは、いいお兄ちゃんなんかじゃない。ずっと、お前の慕ってくれる気持ちも、信頼も裏切ってた。大切な家族に、それも実の親に手を出すような……最低の人間だ。お前に嫌われるのが怖くて、真実を伝えられなかったオレの弱さだよ」
肩を震わせて、引き攣りそうなしゃくり声を繰り返す藍の目の前に、オレはゆっくりとかがみ込んで、前髪の下の黒い大きな瞳に視線を合わせた。
「ありのままのオレを見て、それで耐えられないってんなら……兄ちゃん、この家を出てく。何でもする。それで責任取れるとは思わねぇし、許されるとも思わねぇけど。でもそのくらい、藍のこと愛してるってことだけは、信じて欲しい。こんな事した身で、何言っても信じてもらえねぇかもしんねえけど。兄ちゃん、藍のことが大好きだから。今までも、これからも、ずっと」
「それ言うなら、僕も同罪なんだ、藍。直生のことだけ、責めないでやってくれよ。あんまり幼いお前に言っても傷付けるって判断で、ずっとお前からこの家の真実を隠してきたのは僕らの方だ。こんな気持ち悪い家嫌だって思われても、憎まれても当然……」
「バカっっっ!!」
その吹き飛びそうな怒鳴り声が、オレだけでなく葉にまで向けられたことに目を白黒させながら、オレらは藍と向かい合った。ヨアも、目を丸くしながら固唾を飲んで様子を見守っている。
藍は、ぼろぼろ頬を溢れ落ちる雫も気に留めずに、それでも家中に聞こえるのはなんとか憚るように押し殺しながら、オレらを見て言った。
「知ってたもんっ、お兄ちゃんとパパが何か隠し事してることぐらい……っ! 尋お姉ちゃんもずっと寂しそうに笑ってるだけで教えてくれなくってっ、それが、何かすごい大事なことなんだなって……葉お兄ちゃんが家を出て行っちゃうぐらい、直生兄がずっと家の中であんな顔でしか笑えなくなるぐらい、パパがずっと心を病むぐらい、大変な事なんだなって、そのぐらいはわかるもんっっっ!」
痺れたように、オレ達は動けなかった。藍が賢く聡い妹なのはわかっていた。けれど、まさかそこまで甘えて、いつの間にか背負わせる形になっていたとは、思いもしなかった。きっと黙っているだけで、迷った事や困った事も数多くあっただろう。それでも、オレらの様子を見て、オレらを苦しめないその為だけに、こいつはずっと自分の胸一つに収めてきたのだ。少し落ち着いた涙を細い手で拭いながら、藍は鼻を啜る。
「去年、パパの部屋で写真を見せてもらったの。だから、知ってた。パパは、はっきりとは何も言わないけど……なんとなく、わかってたの。アメリカに、藍の弟がいることも。それが、本当は弟じゃなくて、直生兄とパパの子供なんだってことも……」
「そう、だったのか」
だとしたら、尚更藍にすべてを決める権利はある。そう思ったものの、何故か藍は、先程とは違った憎々しさをいっぱいにその目に湛えて、恨めしげにオレらのことを見上げてきた。
「でも……それで、それで藍がお兄ちゃん達の事嫌いになんて、なるわけないでしょ? ずっとずっと、小さい頃からずっと大好きな、お兄ちゃんだもん。私が苦しんでた時、私がママと上手くやれない最低な娘だった時も、お兄ちゃんはいつも藍の味方でいてくれたよ。最低な妹を支えてくれたんだから、最低なお兄ちゃんを支えてあげれなきゃ、私は妹じゃないよ」
「や、でも、それは、最低の次元が全然違うってゆーか……」
「そんなことどーでもいーのっ! とにかく直生兄が大好きっ! 勝手に藍を夢に出して責められるとか、ゆるさないからねっ! そっちの夢には私は出てきてないみたいだけど、葉お兄ちゃんも!」
誰からともなくきょうだい三人で肩を組んで、デコを突き合わせる時には、全員の目に涙が光っていたのを、オレは見た。誕生日に揃いも揃って全員が泣いてるとか、縁起悪いかもしんないけど、それでもオレは幸せに思う。どんなに歪でも、ただの自己満足に過ぎなくても、今この家族が繋がれていることが、オレにとって何よりの幸福だから。
春の日差しの中に、壊れてしまったものが蘇る、息吹の音がする。もう一度触れようと手を伸ばせることを、感謝していたかった。そして、どれだけ時間が掛かったとしても、またバラバラになりかけたとしても、固く繋いだ手を離さずに結び直せた暁には、きっと――
「直生。生まれてきてくれて、ありがとう」
「直生兄、お誕生日おめでとう!」
「……ッ、サンキューな、葉兄! 藍!」
愛する家族に心からそう言えた時、背後で見守ってくれていたヨアが、窓の外に視線をやりながら小さく声を上げた。
「あ――」
早くも季節を先取りした鶯が、春を告げながら一羽、飛んでいく羽音がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます