【番外編】海をゆく春-4
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LAの春は、日本のそれより遥かに暖かい。
本日も車の流れが途絶えない、フリーウェイの道幅広き往来を石造りのベランダから見下ろしながら、ネグリジェを靡かせた
「お姉様。本日は程よく曇りですし、お出かけした後に夕ちゃんのお洋服を買いに向かいませんこと?」
「あら。この間一着買って、フォトスタジオにも寄ったばかりではありませんの」
「だって、夕ちゃんは何を着せても可愛いのですもの。至高ですわ。可愛いですわ〜。この可愛さは、三歳の今しかあり得ない可愛さなんですのよ。そして四歳には四歳、五歳には五歳にしかない可愛さを、我々には一年また一年と焼き付ける権利がありますの」
「まぁ、上手いこと言って〜。でも本当ですわね。こんなに可愛らしい子を生涯傍で守り育てる権利があるなんて、わたくし達はなんて幸福な双子なのかしら」
同じく、ふわふわしたドレスを着た折坂家の姉は、妹とよく似ている。隣に並ぶと瓜二つだ。色白でぐりんぐりんに巻いた髪の顔を向けた先には、一心不乱に家の大画面を凝視する、幼子の姿がある。
昼間の日差しに目を灼かれぬよう、薄暗くしたリビングのソファ席で保護用の眼鏡をかけた、姉妹に負けず劣らず色白な幼子は、瞬きするのを忘れたかのように赤い瞳を大型スクリーンに注いでいた。
「あら。また直生さんの出演された番組のDVDを見ていますの? 本当に好きなんですのね」
「あの子、とーっても賢いんですのよ。まだ三歳ですのに、あれを見るためだけにプレーヤーの操作もプロジェクターのセッティングの仕方も、すっかり覚えてしまいましたの」
「そればっかりじゃありませんわ、お姉様。なんと全部のDVDの収録日を覚えていて、日付が書いてなくても古い順から新しい方へ棚へ並べてしまうところを、私見てしまったんですのよ。なんてお利口さんなのかしら」
「それはそれは、わたくし達が丹精込めてお育てしている子ですもの。でもきっと、実の家族には何か感じ入るところがあるんですのねぇ」
不思議ですわ、と姉の肩に手を置いた妹が、二人でソファの背後から幼子を見遣っている。自分が注目され、可愛がられている事などさもどうだっていいという風に、オーダーメイドサイズの豪華なワンピースを着せられた幼子――夕陽は、その名と同じ輝きを持った紅の瞳に、画面の中で演じる若き俳優を映していた。三十回ほど巻き戻して見たそのシーンを、またきっちり同じ箇所で止めると、夕陽はディスクをプレーヤーから出す。
「あら、もういいんですの?」
「もう少ししたら、お昼ご飯ですわよ。食べたらお約束通り、海辺へ行きましょうね」
二人の周りには、ふわふわと白い綿のようなものが浮かんでいるのが、夕陽の目には映っている。ただ、こくりと頷くだけで是の意志を返すと、夕陽はソファにぺたりと座り直し、散らばっていたパンフレットと雑誌の一部を拾い直した。これを古い号から順番に並べる際、何度も折り目がついて開き癖のあるページを眺めるのが、夕陽の中で一つの儀式めいた手順になっている。グラビアページに刷られたその人の瞳は真っ青で、夕陽とは似ても似つかない。けれど、生まれた時からその記憶を持っている夕陽には、その人が実の親であることはわかっていた。
生まれ出たその時、夕陽が見たのは真っ青な病室の景色だった。
生まれつき、夕陽には世界が不思議な色に染まって見える眼があった。その色が「感情」と呼ばれるものにより異なっていることに気が付いたのは、アメリカに越してきてしばらくした頃だった。
人によって、その色や形は違う。この世界に生まれてすぐに自分が目にしたのは、いわゆる悲しみに満ちた色だった。ブラインドの隙間から光が差す病室は、浅瀬の海のように眩しさが揺れて明るい真っ青に染まり、自分を抱く母親だという人も、そしてその自分を見るもう一人の親だという人も、複雑な青の光に染まっていた。彼らを包む色と同じくらい真っ青なその瞳から、宝石のようにとめどなく涙が零れ落ちていたのを、夕陽はよく覚えている。
不思議な光景だとは思ったが、特にそれを奇怪だとは思わなかった。それに奇妙さを覚えたのは、アメリカに越し、自分の育ての親や周囲の親子を目にして、親というものは大抵は子の出生を喜び愛し慈しむものらしい、ということを知ってからだった。
どうも、悲しみという感情は相応しくないように思う。たしかに、子供が病気をしたり、悪いことをしたりした場合も、親と呼ばれる存在に青色が見えたことはある。けれどあの時見えた青は、それよりもっと複雑で入り組んでいて鮮烈な青だった。そのことが、夕陽はずっと気になっていた。
丁寧に重ねた雑誌を置くと、夕陽はガラステーブルに載っていた子供用のメイクアップボックスから、縁飾りのついた手鏡を取り出した。ゆっくりと眼鏡を外し、鏡の中の自分を凝視するように覗き込む。薄暗い中でも、眩く輝くような己の白髪と、血のように紅い瞳はよくわかる。
夕陽の目や肌は生まれつき弱く、傘やサングラスなしでは日の下を歩くこともできないと言われていた。当然、太陽の光を直視することも叶わない。そんな自分に、生まれたての頃、自分を抱く人の声がぼんやりと聞こえてきた。
「なんて綺麗な赤ちゃんだろう。この病室からはね、夕陽がよく見えるんだ。眩しくて、君には見せてあげられないけど……真っ赤に溶けていく炉の中の鉄みたいで、すごく綺麗なんだよ。君が生まれてきた日も、君の家族の命が消えていった日も……人間の命っていうのは、本当に一瞬の光なんだね。この光を見る度に、僕はきっと思い出すだろう。どんなに長い時を経ても。だからこれを、君の名前にしてあげる」
まだ輪郭すらぼやけている中で、自分を見つめるもう一つの青が、やさしく頭を撫でた。
「ゆうひ。お前にとってこれは、悲しい色なんかじゃない。命を燃やす色だ。生きるための色だ。海に沈む間際の一瞬の煌めきは、誰よりも強いし誰にも負けない。何を背負っても、最後には燃え尽きる宿命でも、お前はこの地上に命ある間、精一杯光を放って生きてるんだ。たとえその目で見られなくっても、お前の瞳を覗けばいつだってそこに太陽がある。それを……そのことを、忘れないで」
切なく縋るような声音は、いつもDVDの中で声を聴いているあの人のそれだ。
だからよく、夕陽は鏡を覗いている。映像の中や、写真や本の中で見て想像することはできても、本物の夕陽の眩しさを、夕陽は今までに一度も目にしたことがない。夕陽が一生かけても見ることができないそれを、あの二人は夕陽の名前に冠したのだ。一体、どんな気持ちだったのだろう。本物の夕陽とは、どんな色をして、どんな感情を映し出すのだろう。
それを知りたくて、好奇心のままに、よく海辺へ出ることを夕陽は願った。出たいと言っても、どうせ曇り空の陰鬱な天気の日とか、夜にしか海へ出ることは叶わないが、それでもあの黒く青い波の向こうに、日が沈んでいくところを考えるとわくわくした。
「きっとあの海の向こうで、直生さんも夕ちゃんのことを想ってますわねぇ」
「直生さん、これからどんどん素晴らしい役者に成長するに違いありませんわ。いつかハリウッドに来て頂いた時のために、夕ちゃんもお利口さんで頑張らなくてはね」
自分と両の手を繋いで人気の少ない浜辺に立った姉妹は、よくそんな風に言った。表情も言葉も少ない夕陽を優しく見守り、親代わりとなってくれる情深い姉妹だ。それでも夕陽は、実の家族のことを考えないわけにはいかなかった。自分は口に出せないだけで、年齢相応以上の思索や知識がある。遺伝的な疾患を残した実の親に、複雑な事情があったのだろうということは察しはつくが、それに対して自分がどういう感情を抱くべきなのかは、よくわからない。自分の存在が彼らにとってどういう影響を与えているのかも、想像するしかない。
ただ、目を惹きつけられる演技と表情をする、画面の中のあの人が好きだ。自分の名を呼んだ彼らが、悲しみの中にあっても自分に慈しみを抱いてくれたと信じている。だから、思うのだ。せめて今の彼らが、あの青い光の中にいなければいいと。彼らの願うシアワセの色の中に、いてくれればいいと。
波音荒い海を眺め、幼い夕陽にできるのは、そのくらいのことであった。
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