【番外編】Greeting Kiss

 朝。清々しい秋口の空気が、家の中でも冴え渡っている。

 古ぼけた木枠の窓ガラスが朝方の光を乱反射させる眩しさに目を細めながら、僕は自分の部屋で目を覚ました。

 一人暮らしをする前は、ずっと実家で使っていた部屋。よくも悪くも、畳のい草の匂いが懐かしい、体に馴染んだ間取りと空気感だ。

 二階のトイレで用を足して顔だけ洗ってから、いつも通り、靴下越しにも温度が伝わってくるほどに冷えた階段を降りる。


 時刻はまだ六時半過ぎ。

 この時間なら、藍はもう起きていることだろう。

 元々、家を出ている間は整体師の師匠に朝稽古をつけてもらっていたから、六時前後に起きることは、ボクにとっても特に苦ではなかった。

 一応見習いとしては免許皆伝という形になり、実家に戻って職場の整体院まで車通勤になった分、むしろ起きる時間は前よりは遅くなってもいいぐらいだ。それでもまだこの時刻に起きてしまうのは、妹や同居人に遅れを取るわけにはいかないという気持ちがあるからかもしれない。

 何せ、僕はこの家の家族の一員なのだから。


 あまりに寝こけていては、いつも早起きして朝食や弁当の準備を頑張ってくれている藍に、顔向けができないだろう。藍は早起きが得意だからみんな甘えてしまってる面があるけど、同居する以上、少しくらいは交代して負担を減らしたいところだ。

 まあこの家には、仕事がある日以外は一向に起きて来ない、直生っていう奴もいるけどね。あいつはどちらかというと仕事が深夜寄りのことが多いから、しょうがないか。


「おはよう、葉」


 そう思いながら一階に降りたら、まもなく離れの方角から声を掛けてくる、珍しい人物と顔を合わせた。


「父さん」

「相変わらず早いね」

「こっちはいつもより少し遅いぐらいだよ」


 カーテンを開け、晴れ渡った空の光を浴びながら笑っている白髪混じりの女性は、僕の母でもあり、父でもある人だ。

 僕を産んだのは、あやめ母さんではなくこの人。けれど、僕は生まれながらの習慣で、この人を父さんと呼んでいる。

 女二人の番をあえて「父親」「母親」とか「彼氏」「彼女」で分ける必要なんてないとわかっているし、性別による役割分担に拘りはないんだけれど、この人が自分の立ち位置を「父親っぽい」と認識してそう呼ばせていたからだ。僕ら自身も、家の中ではその習慣が根付いている。


 そんな父さんが、にっこりして僕に近付いてきたかと思うと、背伸びをして僕の頬にキスをした。

 朝日を浴びて輝く笑顔が、幾つになっても無邪気で子供っぽいと思う。悪戯を成功させた子供のような顔を見ながら、僕は思わず頬を押さえてしまった。


「何、挨拶代わりのキスなんて久しぶりじゃない? 照れるんだけど、この年になって」

「へへへ。でも、昔はよくやってただろ。あやめがいた時にさ。なんとなく、あの後はみんなバラバラになっちゃって、そんな空気でもなかったけど……でも、久しぶりに葉が帰ってきたから、なんだか懐かしくなってきちゃってね。こういうコミュニケーションも、恥ずかしいからこそ、家族がいる間は大事にしなきゃいけないと思ってさ」


 記憶障害を患っている父さんは、たまに母さんが亡くなったことすら忘れてしまうこともあるけれど、今朝は随分と調子がいいみたいだ。

 いつもゆっくり寝ている父さんは、ヨアや夜羽たちがこの家に来てからというもの、こんな風にたまに早起きしてくることも増えたし、明らかに生き生きするようになった。

 なんだか父さんが言うと殊更説得力があるな、と思いながら、僕は父さんの両頬にお返しのキスを贈る。昔の僕だったら、こんな風に応えなかったかもしれないけど、今では父さんが笑うんならこのくらい安いものだと思うようになってしまった。

 立派なファザコンの直生を、笑えなくなってきたかもしれない。

 くすぐったそうに笑った父さんは、嬉しそうにその微かな青混じりの瞳を細めた。


「ふふ。昔は葉も直生も、照れて嫌々って感じだったのに。でも、毎朝毎朝家を出る度に付き合ってくれて、本当に優しい子だったよね。君らは」

「そりゃ、さすがに毎日父さんと母さんの胸焼けしそうなラブラブっぷりを見せつけられるのは、辟易したけどさ……。まあ、別にそれも、仲が悪い夫婦よりはいいんじゃないかと思うし? てか、嫌々だったのバレてたんだ……」

「あはは、そりゃわかるよ。自分の息子だもの。本当に君は、僕ら両親よりずっと大人な子供だったなぁ、昔から」


 そう言って軽くハグを済ませた愛理は、ご機嫌そうに居間の方へ向かっていく。

 今日は仕事も休みだったはずだし、朝の散歩にでも行くとか言い出すかもしれない。今朝は頭もしっかりしてるみたいだし、迷うとは思えないけど、万が一ってこともあるし、ついて行ってあげた方がいいかな。

 先に裏庭の水撒きを済ませようと思って向かい、ついでに夜羽たちが作り上げた怪しい蔵のチェックも済ませてから、ホースを片付けて母屋の方へ引き返す。


 その途中で、褐色肌の麗しい顔つきが、遠くから目に入った。

 親愛なる友人でもあり、鈴木家の同居人でもあるヨアが、廊下の真ん中あたりで眠そうに目を擦っていた。

 縁側の脇にある、植木鉢の花に水をやってくれていたようだ。そのまま垣根でも見ているのか、まだ眠気の抜け切らない青と橙のぽやんとした瞳が、柔らかな日差しの中で時折瞬いている。

 本人は何も考えてないんだろうけど、立ってるだけで絵になるって、ほんとこういうことを言うんだろうね。直生が着てた、だぼついたスウェットの上にカーディガンを羽織ってるだけで、アンニュイな雰囲気を漂わせてるんだからさ。 


「ヨア」

「ふあ……葉、おはよ」


 声を掛けると、こっちに気付いて軽く片手を上げる。最近はこの世界でやっているモデルの仕事が忙しかったのか、少し眠そうだ。

 ただ、ヨアは仕事明けでも、こんな風に朝方起きてきて色んな家事を手伝ってくれることが結構多い。多分だけど、同居しているからにはと、ヨアなりに気を遣ってくれてるんだろう。

 強化ガラスのような強かさと、クリスタルガラスのような繊細さを併せ持った、綺麗な友人。そして家族。僕のヨアに対する認識は、そんなところだ。


「……ふむ」


 寝ぼけ眼のヨアを見て、僕はふと考えた。さっきの父さんの言葉。

 恥ずかしくても、コミュニケーションは大切にした方がいい、だっけ。

 ヨアたちが来るよりもそう遠くない昔、僕ら家族は色々あって、一度は全員がバラバラになってしまった。

 あの時何かしていたら全てが元通りになったとも思えないけれど、こんなスキンシップ一つでも繋ぎ止められる手段になったり、気まずい時も話をするきっかけになったりするのなら、それもいいかもしれない。


「おはよう、ヨア」


 そう言って、僕はいつものように肩を叩いたりする代わりに、少し背の高いヨアの頭を軽く引き寄せるようにしながら、両頬に一つずつキスを贈った。

 よく、外国で挨拶代わりにやるあれだ。僕はまだ海外旅行に行ったことがないからわからないけど、日本の外じゃ意外と普通らしいし、何より僕がこの家で父さんたちに散々毒されていたせいで、日本人だというのにこういうことだけはしれっと出来るようになってしまった。

 面映さからさっさと顔を背けて歩き出してしまったが、反応を確かめようにも、ヨア自身の足音がついてくる気配がない。


「……? ヨア?」


 不思議に思って振り返る。

 僕より二メートルくらい離れたそこで、ヨアは宇宙猫みたいな顔をして立っていた。完全に固まっていた。宇宙ヨアだ。

 じゃなくって。もしかして嫌だったか? 直生は言うまでもなく、や父さんや藍にもヨアはよくくっつかれているから、こういうの苦手じゃないと勝手に思い込んでたんだけど。

 慌てて僕は、放心状態のヨアのところへ駆け戻りながら、目の前で手を振った。


「ご、ごめん! 直生でもないのにいきなり……最初に嫌かどうか聞くべきだったよな」

「い、いや、その……葉ってこういうことする柄じゃないと思ってたから、二重の意味でびっくりしちゃって」

「ごめん」

「あ、ううん。別に嫌じゃないから、謝らないでよ。けど、いきなりどうしたんだ?」

「父さんが、その……昔やってた挨拶を、最近よくやるようになって。もしよかったら、ヨアもどうかなって……その、家族だし」


 改めて口で理由を説明しろと言われると気恥ずかしい。

 しどろもどろでそう答えると、ヨアはぱちぱちと、アーモンド型の大きな目を瞬きさせた。零れ落ちそうな瞳が、朝の日差しの色に光っている。

 そうしてヨアは、思いもがけないことをおずおずと聞いてきた。


「それ、ボクもやっていいの?」

「やっていいって……いいに決まってるだろ。俺からやっといて、お前にするななんて言わないよ。父さんも多分、喜ぶと思うし」

「そっか。えっと……どうするの? ボクも小さい頃にそういうのされたことはあるんだけど……その、家によってやり方とか違うしさ。額とかほっぺたとか。さっきみたいに交互に一回ずつしないとダメ?」

「別に、うち独自のスキンシップみたいなもんだから、特にルールとかないし。大丈夫だよ、そんな神経質にならなくても」

「でも、一応やり方が決まってるなら、その通りした方が挨拶ってわかってスッキリするよね」


 そう言ってヨアは、僕の頬に一回ずつ唇を寄せた。驚いたことに、ちょっと慣れている雰囲気すらある。小さい頃にされたってことは、ヨアの実家もそういう習慣があったのだろうか。

 顔が近付いた間際に、髪の間からふわりといい匂いがする。ぎこちなく、ちゅっと軽い音をさせてから、ヨアは照れたように俯いた。


「これでいい?」

「うん。完璧じゃない?」

「……へへ。なんか変な感じ」


 ヨアって直生の一つ上だけど、僕よりは二つは年下のはずだ。不意に素直な照れ顔を見せた時の表情は、直生に似て随分とあどけなく、はにかんでいる。本人は気付いているのかいないのか、僕やこの家の皆の前では結構見せてくれる表情だ。僕はそれが嫌いじゃなかった。

 何気なく近くでその顔を観察していると、ヨアの頬と耳の先がじわじわと朱を帯びていくことに気付く。


「……なんで、ヨアの方が赤くなってるんだ」

「えっ!? な、ななななってないよ! 別にほらっ、ちょっと恥ずかしいから慣れないだけで……! それより、早く朝ごはんの手伝い行こ!」


 怪訝な顔をした僕の前で、ヨアがさっさと廊下を歩いていくのを、僕は首を傾げながら後から追いかけた。


*****


 それからほどなく。

 最初こそぎこちなかったものの、ヨアは元々親しい人間とのスキンシップを好むタイプだったようで、僕にも、そして藍や愛理たちにも流れるようにチークキスをするようになった。

 愛理が喜んだのはもちろんのこと、藍は特に仲の悪かった母さんにはキスをしてもらった記憶すらほとんどなかったはずだけど、それでも僕らの提案に乗ってくれたようで、恥ずかしがりながらも時々キスさせてくれるようになった。


 ここだけ外国か……みたいな風景が、時折我に返った瞬間、恥ずかしくもなる。

 けれど、微かなぬくもりを共有していく時間は、季節の冷え込みとは対照的にじんわりと、僕らの心にあたたかさをもたらしていった。


 そして、僕らがスキンシップを取る一方、何やらそれが面白くない人間もいるらしい。

 今日の午後も、帰宅して台所にやって来るなり両頬にキスをしてきたヨアが、わかりやすく嬉しそうに微笑む様を眺めていたら、テーブルからじと〜っと視線を感じた。


「おい葉兄? そいつはオレの連れてきた友達なんだが?」

「直生の連れてきた友達で、今は僕らの家族だろ」

「オレの家族でもあるっつーの! つか勝手に盗ってんじゃねーよ!」


 自分も毎日僕とヨアからキスしてもらってるくせに、何をそんなにムキになる事があるのか。

 大人げない弟の嫉妬に、遠い目になりながらも、僕はくっついてくるヨアをハグで受け止めながら言い返した。ヨアの側からくっついてくるんだから、僕が突き返す義理はない。


「友達を盗っちゃいけないって決まりはないだろ。所有物じゃあるまいし」

「そーだけどさ! 葉兄がヨアのこと大事に扱ってくれるのは嬉しいし、二人がいいならそれでいいけど、あんまり相手されないとこっちだってモヤモヤすんだよ!」


 ほら戻って来い、と言われて小さく舌を出したヨアは、結局強引に自分を引き剥がした直生の腕に収められて仏頂面になっていた。人間に構われすぎて機嫌の悪い猫みたいだ。


「藍ちゃんや愛理さんにだって、同じようにキスで挨拶してるだろ。なんで葉はダメなんだよ。最初にやろうって言ってくれたのは葉なんだけど?」

「ダメじゃねぇけど……なんかちょっと心配になっちまうんだよな。葉の奴、兄貴だけどたしかにいい男だろ?」

「それは認める」

「ほらみろ!」


 なんだか僕には納得のできかねることでぎゃーぎゃー騒いでいる。

 実の弟にいい男認定されても、それは喜べばいいのかどうなのか……。ていうか、散々人のパートナーに手を出しまくってきた弟に、心配になるとか言われたくない。

 そうこうしているうちに、仕事から帰宅して居間の方へ顔を出した愛理が、不思議そうな顔つきでこちらを見つめていた。


「ただいま。今日はまた、随分と賑やかだね。どうしたの?」

「ああ、いや、ちょっとね……」


 半分プロレスみたいになっている直生たちを放っておいて、僕は愛理に開いたお煎餅の袋を渡しながら、キスの習慣の話をする。

 直生に足技を掛けられて、半ば本気でやり返しているヨアを眺めながら、愛理は案の定苦笑した。


「なんでそれで喧嘩になるかなあ。相変わらず、面白い子たちだよね」

「面白いっていうか、直生が面倒くさいだけな気がするけどね……」

「悪かったな面倒で! オレは、葉兄とヨアが思ったより仲いいんだなと思って驚いただけ! 別にオレだって、その五十倍くらいスキンシップ取ってりゃ問題ねえし!」

「だから、一体何と張り合ってるんだ、お前は」


 ボクが呆れていると、直生は犬のように愛理の膝へじゃれて甘えながら、頭を撫でられてくすぐったそうに笑っていた。

 まったく、困った時はすぐに父さん頼りなのは、幾つになっても変わってないみたいだ。でも、直生がこんな風に人に甘えているところも、外じゃあまり考えられない図だし、本当にこの家が安心できる場所なんだなと思う。

 ようやく謎の言いがかりから解放されたヨアはといえば、大人しく僕の隣に背中ごとくっついて腰を下ろすと、ファッション雑誌を開き始めた。おい、そんなにくっつくな。僕がまた直生に何か言われる。これじゃエンドレスだぞ。


 結局この家のコミュニケーションは深まっているのかどうなのか、かえって面倒くさいことになっただけじゃないかって気がしなくもない。

 まあでも、そうやって過ごす秋や冬も、悪くはないだろう。多分。

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