抗えないほど、青くて蒼い
マルメロ
第一話
「ヨアさん、お疲れっす!」
「お疲れ。また明日ね」
元気よく挨拶してくるSTARSの隊員に手を振って、ボクはオフィスの階段を駆け下りる。その姿を認めた別の部下の子が、また声を掛けてきた。
「ヨアさん、なんか今日ご機嫌っすね。気合い入れてこんな時間から有休まで取っちゃって。ひょっとして、例の彼女さんとデートっすか?」
「っ、馬鹿……そういう事をわざわざ言うのは、野暮ってもんでしょ」
「いーじゃないっすか、STARSのメンバー的には公認みたいなもんなんだし。ヨアさんの“運命の人”っしょ?」
「あああ……やめてよその発言蒸し返すの……自爆だとしてもものすごい恥ずかしいんだから……」
そんな風に、堂々と口走った事もあったっけ。まったく、恥も外聞もない自分の行動に溜息が出る。まあ、一番恥も外聞もないのは、そんな自分の独特な恋愛事情を、部下にも同僚にも丸っきり知られている今の状況かもしれないが。
「いいっすねえ、境界を超えた異世界恋愛なんて……」
「わかってると思うけど、ここ以外じゃ秘密にしといてよね。信じる人もそうそういないだろうけど、またいつ前みたいな事件が起こるかわからないわけだし」
「はいはいっと。ま、そもそもココ以外に知られたら、ヨアさん自身も困る立場にあるっすもんね」
思わず苦笑した隊員は、謝るジェスチャーをボクに返しながら、自販機の方へと向かって行った。
まったく。ボクが隊長を務める部隊には、何故か何かと若い子が押しつけられがちだ。お調子者が多いけど、みんな素直でいい子だから、牽引しがいがある。だからボクは、文句を言う事もなく、ただ呆れて手を振り返してから、STARS本部のロビーを通過して外へ出たのだった。
もう夕方だが、春になってすっかり日が長くなった帝都は、まだまだ闇に覆われる気配がない。オフィス街の並木道を、今年の桜はいつが見頃かと話しながら歩いて行く人達の噂話が、微かに耳に入ってくる。
(桜……か)
この世界で、初めて彼女と会ったのも、桜が咲き始めた頃だった。
既に元の世界に帰ってしまった彼女を、バーチャルと現実の交錯するこの帝都にわざわざ呼び戻して花見をする事なんて、もう滅多な事ではないんだろうけど、それでも懐かしい気持ちには囚われる。
頭上ではためくリボンを押さえ、街頭モニターに映る膨らみ始めた蕾を見上げた時、まるでボクの心を読んだかのように手首の端末が鳴った。指先で画面を撫でると、空中のモニターにトークアプリの画面が表示される。
『ヨアさん、お仕事は予定通り終わった? みんなでおやつ準備して待ってるよ!』
『ありがと。今上がったとこ。もう少ししたら行くから、待ってて』
そう返信すると、ハートマークがいっぱいに溢れたスタンプが、山のようにメッセージに送られてくる。思わず苦笑しながらも、頬が緩むのを止められそうにない。彼女の――
ボクの名前は、
歳は二十一。仕事は、平たく言えば警備員みたいな事をやってる。
ボクが住んでいるこの街――帝都は、
実はボクは、IPSの前身であるネオシティ――ネオシティ・トーキョーの時代から、バーチャルの世界に半分片足を突っ込んだような暮らしを続けている。
その時から、街の治安を守る為の組織・STARSに所属して、色々な事件を見聞きしたり、関わったりしてきた。
そして、ボクにとって去年一年は、人生で最もめまぐるしく、出逢いと冒険に満ちた年だった。
彼女に出逢い、あまりの怪しさに疑いを抱きながらも、色々な困難を共に乗り越えて、徐々に惹かれて――ボクは恋に落ちた。自分でも呆れてしまう程の、まっすぐで脇目も振れないような恋に。そして、彼女を失われてしまう運命から守る為に、世界を大きく一つ作り替えてしまった。これは、ボクと紫咲と、それからSTARSの限られた幹部だけが知っている秘密だ。
今は帝都の街も人も、そんな事件なんかまるで何も起こらなかったかのように、平和に暮らしている。
全ての元凶であった、
少し前までは眼帯で隠していた左目を、ボクはショーウィンドウの前に立ち止まって、ガラス越しにじっと見つめた。
ボクの異能であった、ファントム・アイ――青と橙が奇妙に混ざり合った左目は、もうただの青色に戻っている。
思えば、この異能があったからムラサキと出逢えて、この異能のおかげで事件を解決出来たんだよな。生まれた時から所構わず変な物が見えて、そのせいで色んな奴に虐められて。最初はすっごく迷惑な力だと思ったけど、この目のおかげで、失われるはずだった物を守る事も出来たんだ。
春の風に吹かれて靡くピンク色のリボンを見ていたら、ほんの少し、感傷的な思いが浮かんでくる。
だけど、今のボクにはもう、ファントム・アイは要らない。前よりも力は落ちたけれど、ボクはまだ十分に戦えるし、一緒に戦ってくれる仲間を信頼している。それに、“特別”がなくてもボクの事を大切だと、心から愛してくれる人に、もう出逢えたから。
あの事件以降、STARSの上級隊員の特権だけど、ボクには異世界を越える権限が与えられている。事件の黒幕を追跡する過程で、ラボでは次元転移装置が開発されていたからだ。一般人にその情報が漏れたら大変な事になってしまうので、使える人間は限られているんだけど、役職特権でボクはこれを使って紫咲に会いに行っている。
こことは違う世界に住んでいる紫咲には、婚外恋愛を認めてくれる旦那さんがいて、でもまさか向こうで大っぴらにそれを触れ回るわけにもいかないから、あらゆる意味でボクらのこれは秘密の恋だ。
けれど、それでも手放したくはなかった。大好きな人を目の前で失ってしまうあの痛みと比べたら、それ以上に辛い事なんてもう何もない。ささやかでも、彼女や一緒に暮らしている
晴れやかな気持ちで、ボクはお守り代わりのリボンを一度手で押さえ、一旦自宅に戻ろうとオフィス街を歩く。
気持ちよく晴れた夕焼けの空の下、暗雲が忍び寄っている事を、この時のボクはまだ知らなかった。
*****
オフィスのある区画から地下鉄を乗り換え、住宅街へ。
よくサキを泊めてあげた事もあるマンションは、今もこの区域にある。模様替えは何回かやったけれど、彼女との思い出が残る部屋自体からは、やっぱり引っ越す気になれない。STARSにほど近い社員寮に泊まる事もあるけれど、色々とカスタマイズが効く自宅は自分の部屋って感じで落ち着く気がする。
「今日は、何を着て行こうかな……」
もう左目の力は失ってしまったので、ボクはグラスを掛けて、定期を鞄にしまいながら女性のデルタへと変身した。この世界で使われている特殊なアバター、
ボクも、その機能を利用して、男の身でありながら女性装を楽しんでいた人間の一人。だから今でも、こうして帰り道の間にポートシティへ意識を半接続しては、紫咲に会いに行く時のコーデを考えるのが好きだった。まあ、向こうに着く時には、男の体に戻っちゃってるんだけどね。
そうやって、駅からの道を歩いていた時だった。
「お前だな……」
ゆらりと、不意に背後の人影が不自然に動く気配がした。もちろん、今のボクには異能もないから何も見えないし、見た目は普通のサラリーマンだったから、ただの通行人だと思って完全に油断していた。次の瞬間には、首元に痺れるような衝撃が当てられて、ボクは膝元から崩れ落ちた。
周囲から悲鳴が上がる。大きな駅とは言えないとはいえ、こんな人出のあるところで、何て大胆な犯行だろうとボクは思った。
ゆっくりと、襟首を掴んだ人間がボクを路地裏へ引っ張っていく。周囲の人間は、自分の身の安全を考えて動こうとはしていなかったが、それでも次々に通報する声は聞こえてきた。
「こんな所で、どうする気だ……? 人気のない所へ連れて行ったところで、お前に逃げ場なんてないぞ」
「はっ。俺が逃げられるかどうかなんてどうでもいい。俺の目的は、篠崎夜明……この世界をかき乱し、我らが総統であるヤマカゲ様を檻の内側へ閉ざしたお前に、個人的な制裁を与える事だ」
辛うじて問い掛けたボクに、そんな言葉が返ってきた。
ヤマカゲ……あいつの、関係者か。全ては終わったと思っていた。まさか、残党からこんな所で襲撃に遭うなんて。
男は、力の抜けたボクを地面に放り出して鞄を奪うと、乱雑に漁って次々に中身を捨て始めた。スタンガンを当てられた拍子に壊れたのか、顔に掛けたままのグラスから、時々パチパチとショートしたような火花が飛んで、現実世界と電脳世界の混ざり合った視界がぐにゃりと歪む。
「身分証……篠崎夜明本人で、間違いないみてぇだな。鞄くらいは慈悲で持たせてやってもいいが、こいつはここに置いて行ってもらおうか」
「置いて行く、だと……?」
「お前、さっき俺に聞いたなぁ。人気のない所にお前を連れ去っても意味はない、と。その通りだ。何故ならお前は、この場から消えちまうんだからなあ!」
「……!」
男の手に、スタンガンとは違う妖しい光を放つ物が握られている。グラデーションの模様が広がった、ステンレスのような四角い立方体……それは、普通の人間が持っているはずのないものだ。
「次元転移装置……!? なんでお前が……!」
「もしもの事態の為に、ヤマカゲ様がバックアップを残しておいてくださったのさぁ。これでお前は、永久にこの時間軸から消え去る事になる。恐竜時代か、はたまた戦国の世か……どこに飛ばされちまうかは俺の知った事じゃないが、生かしておいてやるだけ有り難いと思えよ」
「や……めろ……!」
光が、ボクの眼前まで迫る。
投げつけられた鞄を、身を守るようにして抱えていたボクは、とっさにこれだけは失うまいと、頭のリボンを――ピンク色の紫咲から贈られたそれを、必死で鞄の板敷きの下まで押し込む。
それで、終わりだった。ボクの意識は、凄まじい浮遊感と共に暗闇の奥深くへ沈んでいったのだった。
*****
「……」
叩き付けられたように、体が痛い。
意識が覚醒した時、ボクを最初に襲ったのは、軋むような節々の痛みだった。
(なんだ、これ……どういう……)
一体どういう状況なのか、と思いながら、固いコンクリートの地面から顔を上げる。まず最初に耳に飛び込んできたのは、クラクションの音だった。繁華街の雑踏、笑い声、目を焼くような車のライトの光。思わず眩しさに腕で目を覆いながら、ボクはよろよろと起き上がる。すぐ傍には、ゴミや汚物で塗れたポリバケツのゴミ箱。どうやら、路地裏で倒れていたみたいだ。
「それにしても、きったねぇな……」
鼻を刺す匂いも、目を刺してくる光も強烈すぎる。あらゆる感覚が一斉に脳に入り込んできて、頭がぐわんぐわんする。帝都ってかなり衛生的な都市だったはずだし、こんな臭すぎる場所があっただろうかと思わず吐き捨ててから、喉の違和感に気が付いた。
「ん……?」
なんかちょっと、掠れるような。自分の声なのに、こんな声だっただろうかと一瞬思ってしまう。何か男に襲われた事は覚えているが、犯罪事件に巻き込まれたならSTARSがすぐに駆け付けたはずで……それならボクは、どうしてこんな所で倒れているんだ?
「そもそもどこだ、ここ……」
どうにか大通りに通じる所まで歩くと、そこにはビルや看板の灯りの下を、ごった返すほどの人が歩いていた。目がチカチカする程のLEDの光を浴びて、歩いて行く人達。飲み屋から漂ってくる臭いに、パチンコの玉がざらざらと爆ぜる音。パトカーの音や、酔っ払いの怒号なんかも聞こえてくる。そして――こんな賑やかな街なのに、ボクには見覚えがなかった。
(どういう事だ……)
ボクは、仮にも帝都の都民だ。流石に全土を把握しているとまでは言えなくとも、大抵の場所には行った事があると思う。そのボクが、全く知らない風景が目の前に広がっている。スラム街であるダウンタウンにもこんな場所はあると思うが、何というか……ネオンの灯りの雰囲気といい、店や人の感じといい、根本的な“何か”が強烈に違っているのだ。例えるなら、そう……まるで、全然知らない外国に来てしまった時みたいな。
じわじわと、奇妙な違和感がボクの内側で大きくなる。嫌な鼓動を立てる胸に思わず手を当ててから、もう一つの不審点に気が付いた。
「そもそも……ログインもエントリーもしてないのに、なんでボク、女の体なんだ?」
完全に電脳世界にダイブしている時か、半分接続している時なら、デルタが女体化するのもわかる。けれど、明らかにここは現実の世界で、今抱きしめているこの体は、男であった時のそれよりも明らかに細い。まるで、現実世界に置いてきた本物の体まで、女に変わってしまったみたいな……そもそもここは、本当に現実なのか?
思わず頭の上に手をやったけど、グラスはどこかで落としてきてしまったみたいだった。という事は、やっぱり目の前の光景は、紛れもないリアルだという事になる。
「悪い冗談みたいだな……」
思わずふらついた時、足元でかさりと音が鳴った。誰かに捨てられたスポーツ新聞のようだ。清掃ロボットがいるはずの帝都で、こんな物が落ちている事も珍しいけど……何気なく拾い上げて、上の日付を読んだボクは仰天した。
「2037年!? ウソでしょ!?」
そんなバカな。何かの夢であって欲しい。
今は、2237年のはず。どうして、時間が二百年近くも巻き戻ってるんだ。思わずふらふらと腰を下ろして、新聞を読み耽る。出てくる単語も、地名も、芸能人も、覚えのないものばかり。百歩譲ってタイムスリップしたとかならまだしも、どうもそれだけだとは思えない。
「ここは……ボクの知っている世界じゃ、ない……?」
どうすればいいんだ。
持っていた鞄を探ろうとして、今更のように端末の存在を思い出したけれど、手首にあったはずのそれは、もちろんなくなっていた。鞄の中のどこにも、誰かと連絡が取れそうな物は入っていない。
「そ、そうだ。ポートさえ探せば……」
グラスや端末がなくても、電脳世界へ接続する為の電波塔的存在――ポートまで辿り着いてしまえば、何かしらの手段は講じられるはず。……でもそもそも、この世界にポートなんて物が存在するのか? ぱっと見た感じは都会だけど、ボクのいた帝都ほどは、全然文明が進んでいるようには思えない。そもそも道行く人のほとんどが、ウェアラブル端末っぽい物を付けていないし。
「はぁ……参ったな。職場にも連絡入れなきゃいけないのに」
こんな時まで仕事の心配をしなきゃいけないのが、社会人の悲しい性だ。シフトに穴を開けられないとか、あの書類の提出期限が迫ってるのに終わってないとか。まあそもそも、今本当に連絡出来るとすれば、求めるものは仕事を都合してもらう事じゃなくて、純粋な助けになるだろうけど。せめて、端末の電話帳アプリぐらい開けたらいいのに。たとえば……
「……え?」
そこまで考えてから。ボクは、頭の中の大きな欠落に気付いてしまった。
職場の、上司や同僚の顔は?――思い出せない。
勤めていた会社の名前は?――思い出せない。
自分の職業や、住んでいた場所は?――思い出せない。
友達や、家族の名前は?――思い出せない。
何も、思い出せない。
頭の中にあるような気もするのに、まるでロックが掛かったみたいに、全部が闇の奥に閉ざされている。
つまり、ボクに今わかるのは、自分がこの世界の住人ではないという事。
そして、女の身ひとつで、連絡が取れる当ても今夜の宿もなく、無一文で放り出されているという事。
これ以上は詰みと言いようがないほどの、綺麗な詰み。冗談ではなく、頭の裏側が真っ暗になった。
「ボクは……」
名前。たったひとつの身分証明が、自分の内側で、蝋燭の灯りみたいにちかっと閃いた。
篠崎、夜明。それがボクの名前だったはずだ。
だけど、それ以外の事が何一つ思い出せない。
「ボクは一体……誰なんだ……?」
たった一つの、記号みたいな名前を胸の内側にぶら下げたまま、ボクは見知らぬ街で心細げに浮かぶ月を見上げていた。
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