貴子

 「姉ちゃん。」

 午前三時。貴子が家へ帰ると、真央がなぜか玄関から入ってすぐの廊下に座り込んで彼女を待っていた。

 「真央? どうしたの?」

 驚いた貴子は、靴を脱ぐのもそこそこに真央の肩をゆすった。いくら春めいてきたとはいえ、まだまだ夜は冷え込む。板張りの廊下に座り込んでいるなんて、尋常ではない。

 「……俺、出て行こうか。」

 貴子にゆすられるがままに頭を揺らしながら、真央がぽつりと言った。

 「え?」

 言葉はきちんと聞き取れていた。ただ、その内容を信じたくなくて、貴子はそう問い返した。明らかに真央は本気だ。貴子の返事を期待する様子すらなく、ほとんど自分の中では決定した事柄を述べているのだ。

 「なによ、どうしたの?」

 貴子はなんとか笑みらしきものを頬に貼り付ける。できればすべてを冗談にしてしまいたかった。

 真央と永遠に暮らせるとは思っていない。彼はいくらでもひとりで生きていけるだけのうつくしさや賢さを持っているし、そのうちまた恋もするだろう。貴子との暮らしより、ひとり暮らしの気楽さや、恋人との生活を選ぶときが必ずくる。姉ちゃん、と、無邪気に呼びかけてくれる真央を手放す日はそう遠くはないだろう。でも、それはこんな形ではないはずだ。だって、真央は明らかになにかに悩み、憔悴しきっている。

 「どうもしない。……ただ、俺、ひとりの方が楽だし、姉ちゃんだってそうでしょ。」

 真央の声には力がない。いつも彼が身に纏っている、若さの張りが失われている。

 「……そう。」

 貴子は、自分を落ち着かせようと、コートの胸元をそっと握りしめた。

 「……真央がひとりがいいって言うなら、私に止める権利なんてないわ。……でもね、今の真央はひとりにしておいちゃいけない気がするの。」

 「なんで? 姉ちゃんになにが分かるの?」

 真央が吐き出した言葉は、鋭く幾分ヒステリックですらあった。年齢に似合わず、常に自制心をたっぷり利かせた話し方をする真央らしくもない。彼はいつだって、自分の感情に忠実なようでいて、その実、しっかりと感情の手綱を握っていて、手放すことはなかった。

 「真央、」

 どうしたの、真央らしくないよ。

 そう言いかけた貴子を、真央は泣きそうに潤んだ瞳で睨み上げた。

 「姉ちゃんが必要としてるのは俺じゃないじゃん。俺なんて、」

 なにかそこで、真央は言葉を飲み込んだ。そして、ごめん、と、低く言葉を漏らすと、大きく瞬きして涙の雫を抑えた。

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